落ちるは……恋はするものではなく落ちるもの、そう、よく聞く話。……でもそれって地獄と同じ、なんて。これもいつかどこかで誰かから聞いたような話。でも……それは本当だと思う。恋と地獄は背中合わせ。恋すれば幸せだなんて、そうとは限らない。恋が実れば幸せかもしれない。じゃあ実らない恋は?無駄な足掻きだった?それでも……実らないからってやめる事が出来ない。
ーー夢なら醒めてほしい。よっぽど疲れているんだ。こんな夢を見るなんて。火を吹く魔獣に魔法の世界。しかもこの世界に私の居場所は無いらしい。無だって、笑っちゃう。来た道が分からなければ帰り道も分からない。それもそうだろう。なぜならこれは夢だから。もう分かった、さぁ早く目覚めて。
そんな風に思ったあの日、ツイステッドワンダーランドに召喚されてしまったあの日。夢だと思ったあの日からどれくらい経ったのだろうか。私の適応能力も中々だ。最近ではすっかり、この世界も悪くないなんて思っていた。友達と呼べる存在も出来た。理不尽な事も多いけれど、楽しいと思える瞬間も多かった。学園長の一言で色々な事件に巻き込まれたり、時には自分で首を突っ込んだりしては、捻れた世界に身を置いていて、そのハチャメチャな日常に満足し始めた頃、私は出会ってしまった。彼に出会い、そして私の日常はまた捻れ、一変していく。
ターコイズブルーに輝く髪の毛。黒いメッシュが印象的。キリリと涼しい眼差し。何もかもを見透かしたようなゴールドとオリーブのオッドアイ。微笑を浮かべる魅力的な唇。美しい肌。時折みせるギザギザの歯。穏やかな物言いとは裏腹にどこか物騒。全てを計算し尽くしたような言動をするのに、予定調和が嫌い。落ち着いた声に馴染む敬語口調の彼はウツボの人魚だ。あれは危険だと全身が警鐘を鳴らす。なのに目が離せなかった。危険だからじゃない。魅力的だったのだ。それは近寄り難いほど美しかった。棘がある薔薇が美しいのと同じ。毒があるのにそれでも食したい食材と同じだ。あげだしたらキリがない。私が恋してしまった男、ジェイド・リーチの好きな所なんて。
「監督生さん、ぼんやりとしてどうしたのですか?」
「えっ、あ……すみません。はは、大丈夫です」
「……何か悩み事ですか? 心ここに在らず、といったご様子でしたが。……つれない方ですねぇ。僕とのお話はそんなにつまらなかったですか?」
「いえ、まさか……ははは」
「監督生さんがお忙しいのであればお暇しますよ」
「えっ! あのっ、本当に大丈夫なので。……ジェイド先輩さえ良ければ、まだ……居てください」
「おや……まだ居て宜しいのですか?」
「はい、是非……」
「それでは、そうしましょう」
立ち上がったジェイド先輩をおずと見上げて引き止めれば、彼はニコリと微笑んでストンと真っ直ぐに腰をおろした。ニコニコと微笑んで先程淹れてくれたばかりの紅茶をスっと差し出した。ほのかに湯気香るティーカップにそっと口付けしてコクリと紅茶を飲み込んだ。美味しい。彼が淹れてくれた一滴一滴が私の身体に染み込んでいく。紅茶を飲むだけで、それはとても高揚する行為にも思えてくる。それ程に私は彼にハマってしまった。
チクタクと静かな空間に時計の音が刻まれていく。オンボロ寮のソファーにきちんと両膝を揃えて座るジェイド先輩の姿を見るのはもう何度目だろうか。彼はある日突然私との距離を詰めてきたのだ。モストロラウンジで彼の淹れた紅茶を褒めたその日から。私としては好きな人にサーブされただけでそれはもう特別なものだったし、ジェイド先輩の淹れる紅茶が一番美味しい、だなんてありふれた褒め言葉は彼だって何度も聞いている筈だろう。それなのに、彼はふふと喜んで、恭しくお礼を述べたあとに腰を屈ませ、私にそっと耳打ちをした。
「もっと監督生さんに僕の淹れた紅茶を披露したいです……そう、個人的に、ね」
彼の甘いテノールに身体がブルリと小さく震えた。吐息がふわりと耳を掠めて、それだけでドクンと心臓を鷲掴みにされた気分だった。断る理由も隙間も無くて、私はただ顔を赤くしながら、ジェイド先輩さえ良ければと小さく頷く事しか出来なかった。あぁ、こんな凡庸な私が心底嫌いだ。きっと私じゃ彼の興味は引けないだろう。私の行動はきっと彼の想像の範疇だ。なんの面白みのないちっぽけな人間だろう。それでも彼から与えられる慈悲に縋ってしまう憐れな恋だった。
「……それにしても、本当に対価は無くて良いですか?」
「ふふ、またそのお話ですか? 対価は結構だと初めにお伝えした筈ですが。時折簡単な質問に答えてくださるだけでいいと。まぁ言ってしまえばそれが対価ですよ」
「そんな。あれは対価のうちにはいりませんよ。だって、その紅茶と昨日の紅茶、どちらが好きですか? とか好きなお茶菓子はなんですか?とか……」
「僕と居るのは楽しいですか?とか、ですか?」
「……はい。そんな普通の日常会話みたいな質問か、当たり前なような質問ばかりですから。ジェイド先輩と居るのは楽しいですよ。当たり前じゃないですか」
「こうやって静かにティータイムを過ごすだけでも?」
「はい。先輩が……ジェイド先輩がそこに居るだけで私は嬉しいですよ。紅茶はいつも美味しいし、私の好きなお茶菓子まであるんですから」
「でもいつも貴方の周りはとても賑やかですからね。その時間とこの時間では大きく違うでしょう?」
「それは、ジェイド先輩も同じじゃないですか。いつもフロイド先輩やアズール先輩と賑やかに楽しそうですよ。あっ、こんな事を言ったのはアズール先輩には内緒にしてくださいね」
「ふふふ、アズールが嫌がりそうですか?」
「僕は賑やかになんてしていません! それを言うならフロイドでしょう。僕を巻き込むな、なんて言いそうですから」
「んふっ、確かに。ふふふっ、今のアズールの真似ですか? とても似ていますね、んふふっ」
「そ、そんなに笑わなくても……」
「彼の事、よく見ている、ということでしょうか」
「そうじゃないですけど、アズール先輩は特徴的な方ですから。あ、語弊のないように言っておきますけど、勿論そこが好きですよ? 悪口とかでは決して……」
「……えぇ、分かっています。では、監督生さんは、僕のこともお好きですか?」
「えっ、あ……えっと……」
「……」
突然ジェイド先輩にそんな事を聞かれてしまえば私は思わず口ごもってしまう。ここはサラリとジェイド先輩も好きですよ。勿論、フロイド先輩も! なんて明るくなんて事ないように答えるのが一番だと分かっているに、好きな人からの質問にただモジモジとしてしまう。そんな私をじっと見つめる双眼に息を呑む。
「ふふ、そんなに答えにくい質問でしたか?」
「いえっ! あ、あのっその……す、……すき、好きです……ジェイド先輩のこと。あ、あたりまえじゃないですか、あは、ははは。フロイド先輩も……はい。みなさん好きですよ」
「それは嬉しい限りですね。僕達もあなたのことはおもしろ……こほんっ、好きですよ、ふふ」
「いや、今思いっきり面白いって言いましよね?」
「さぁ、なんのことでしょうか」
二人で顔を見合わせて笑った。私たち二人に流れる空気は悪くない。でも、それでもこれは私の片思いなのだ。だって彼、ジェイドリーチには不可侵の存在がいる。それは双子の片割れであるフロイドリーチ。それと幼なじみのアズールアーシェングロット。……それに加えて……彼には、ジェイドリーチには好きになった女性がいる。
「実は僕、人間の雌に心を奪われてしまったのです」
その一言を聞いた時に私の心臓は一度止まって死を迎えた。この世界がキラキラ輝いて見えた。彼を取り巻く全てが美しくて、私の毎日はそれこそ薔薇色のように一変した。彼の言動でいともたやすく私の感情は揺すぶられた。そんな彼に好いた相手が居る。それはしごく当たり前の事なのに、抱えきれないほどショックな事だった。勝手に恋して勝手に敗れた憐れな小エビ。私を救ってくれる相手はそれでもジェイドリーチだけだった。
「人間の雌のなんたるかを知りたいんです。僕を助けられるのは貴方しかいない。協力してくれませんか?」
真剣な顔で好いた相手に懇願されて、断る事など出来るか? 否、出来るわけない。例え報われなくたって、恋心の相談者、これ程近い距離の相手がかつていただろうか。なんの変哲もないちっぽけな小エビがその立ち位置に立てるのならば、実らない恋心も全て対価にしてしまおう。それできっと私は初めて報われるのだ、と。そう思った。
人間の雌がどんな物か、それを知るためにジェイド先輩の質問に答える日々。好きな人と過ごす時間は、その好きな人の好きな人の仲を取り持つ時間。辛いのにやめられない。彼が私を頼ってくれる時間が惜しくて惜しくてたまらない。不毛だって分かるのに、やめられない。地獄に片足を突っ込んでるのを理解しつつ、やめられない。一秒でもジェイド先輩の隣に居たい。彼のどこも見てない瞳に一秒でもいいから映りたい。憐れで強欲な私の末路は一体どこに向かっているのだろう。
「ねぇ監督生さん。僕の恋心って迷惑でしょうか」
コクリといつもの様に彼の淹れた紅茶を飲み干した直後にジェイド先輩はゆっくりと口を開いた。ヒュッと息を飲んで目を見開いた。ドクドクと血流が騒ぎだす。ここで、私が、今。
「そうですね。ただの人間には、きっと人魚の愛情を受け入れられない。ジェイド先輩、やめときましょう。ただの人間にあなたの恋は重すぎる。私なら……それを受け止められる」
そう言えたら。言えるわけない。この関係を崩す訳にはいかないのだから。好きになってはいけないと分かってながら、私は地獄をスキップしながら進むのだ。