inizio 気づけば、政府の施設を抜け出していた。
けれど、衝動的だったかと問われると首を傾げる。政府に対する不満は、ずっと昔からあった。前々から、私の暮らす政府施設のセキュリティについても調べていた。
けれど、計画済みだったのか、と言われても首を傾げる。実際、私はほぼ丸腰で外に出ていた。いっそ、不用心すぎるほどに。
己に問いかけながら、夜の街を駆けていく。表通りは避けて、治安の悪い裏通りへ。スラム街に足を踏み入れれば、いやに懐かしさを感じた。結局、ここは私たちの居た頃から何も変わっていないのだ。下手に絡まれないよう足早に駆け抜けていく。
そうして、たどり着いたのはとあるマフィアの本拠地だと思われる屋敷だった。広大なそこには、思っていたよりもずっと楽に忍び込むことができて、首を傾げる。ここは本当に、あのマフィアの本拠地なのだろうか。
きっと、半分はヤケだった。
あの子の顔が、脳から離れない。それが、かつての記憶の中の弟の顔なのか、それともさっき見たクローンの子の顔なのかも、判別がつかない。それでも。
あの子が――トラモントが、あんな顔する世界なんて、と思った。
政府に楯突くためには、己だけの力では不十分だ。個人でできることなんてたかが知れてる。だから、組織の力が必要だった。
けれど、既に存在するマフィア組織は、どれも政府の息がかかっている。実際、政府施設にマフィアの重鎮が来ていたことを、私は知っている。私が行ったところで、そのままいい餌にされて終いだろう。
だから、不透明なそこを選んだ。得体のしれないマフィアグループとして調査命令が出されているという情報を、私は知っている。つまり、今現在は政府の息がかかっていないとみていいのだろう。
けれど、中身が見えないということは、ここに入った私がどうなるかも分からないということでもある。それでもここに足を踏み入れた。
だから、きっともう半分は覚悟だった。
広い屋敷内に忍び込んであちこち探っていれば、「ボス」と呼ばれる人を見つけることができた。少年のような見目をしたその姿を意外に思いこそすれ、彼を追うことに躊躇いはなかった。
その部屋の屋根裏にたどり着いてから、さてどしたものかと逡巡していると、向こうから声がかかった。
「降りておいでよ、ここまで来るの大変だっただろう?」
へぇ、思いながらもするりと下へ降りる。軽く服の埃を払って、頭を振って髪を揺らして。それから、その姿を見据えた。
「……なんだ、出会い頭に鉛玉ぶち込まれるぐらいは覚悟してたってのに」
口から出たそれは、正直な言葉だった。実際、私は政府所属の暗殺者で、ここはマフィアの本拠地だ。むしろ、その方が自然ですらあった。
「まさか。ほら、私は手ぶらだよ」
言いながら、彼は手のひらをこちらに見せてひらひら、と揺らす。その様は、とても得体のしれないマフィアのボスとは思えなかった。
「へェ、そりゃずいぶん豪気なことで」
言えば、彼はニコリと笑って「紅茶でも淹れようか」なんて宣いはじめる。それに、こちらも笑って返した。
「いや、それは遠慮しておくよ」
そうして、一つ息を吐いて、吸って。
「私はアンタに頼みがあってきたんだ」
言えば、彼は変わらない微笑みのまま椅子に腰かけた。ゆるりと足を組んで、こちらに続きを促してくる。
気づけは、全て話していた。
「弟が、弄ばれたんだ」
「私は、どうなってもいいさ。そういう約束だった。実際、何人も騙したし殺した。私は、本当にどうなってもいいんだ」
「でも、あの子は。トラモントは、そんな風に扱われていい子じゃない」
「だから」
全て吐き出すように言い切って、それから。
「だから、私はここに来たんだ。政府のクソ野郎どもをぶっ殺してやるために」
言って、彼の眼を見た。片方は長い前髪に隠れて見ることのできない、黒い眼。
彼は、少しだけ困ったように笑ってから口を開いた。
「ここに入るには、代償が必要でね。知っているかな」
「……大切な物か記憶を代償に加入って、噂では流れてんな」
問いに答えれば、彼は緩く頷いてから続ける。
「……私が貰う記憶は、君にとって一番大切なものだよ。さらに言うならば、私がそれを選べるものでもない。それでもいいのかい?」
それでも、私は。
「私があの子を忘れても、あの子が幸せでいれるように成るなら」
私は頷いた。
気づけば、見知らぬ部屋の床に転がっていた。どこだろう、とぼんやり考えて、思考を辿って。そうだ、マフィアに加入するために代償を支払ったのだ、と思い出したところで、背後から声を掛けられる。
「おはよう」
振り返れば、ここのボスが居た。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったね」
言われて、そう言えば話していなかった気がする、とぼんやり思う。この部屋で、ボスと会話したことは覚えているのに、何を話したのかは不思議と思い出せなかった。
「君の名前は?」
問いかけられて、答えようと口を開いて。けれど、一度口を噤む。どういうわけか、己がどう呼ばれていたのか、何と名乗っていたのか思い出せなかった。それでも、何か名乗らなければ、と思って。
「トラモント」
口から零れ落ちたのは、そんな言葉だった。夕暮れを指す言葉。
どういうわけか、いやに口に馴染む言葉だった。