王都にて デカラビアのことを何も知らなかった。少しでも知りたいと思って、話がしたくて声をかけた。そこまではよかったはずだ。それがどうしてあんなことになってしまったんだろう。
「何をぼんやりしている。スリに遭っても知らんぞ」
「あ、うん、その、大丈夫!」
俺は今、デカラビアと二人で王都に買い物に来ていた。アジトの買い出し、ではなく気晴らしも兼ねた散歩に近い。薄曇りの空の下でデカラビアは人混みをすいと縫うように市場を優雅に歩いていく。いつも通りの飄々とした後ろ姿は昨夜のことなど気にもしていないように見えた。こっちは気を抜くとうっかり反芻してしまって大変なことになっていると言うのに。大仰な三角帽子のおかげで見失うことはないがあまり離れるのもまずい。人混みを掻き分けてどうにか横に並ぶ。
「ちょっと歩くの速いって!」
「お前が遅すぎるのだ、それでは撒けんぞ」
「は?まく?」
「気づいてすらいないのか、ティアマトとカスピエルだ」
「え……ついてきてる?」
「まあ想定の範囲内だ」
そういうとデカラビアは足を止めた。ちょうど香辛料や薬草の店の前だ。軒先にはさまざまな色形の乾いた葉や実がぶら下がり、店内には大きな瓶にぎっしりと詰まったスパイスが整然と並んでいる。必要なものは既に決まっているらしく、デカラビアは淡々と店員に注文をしていた。その間に俺はさりげなく後ろを振り返ったが、二人の姿はどこにも見つけられかった。本当につけてきているんだろうか、確かにやりそうではあるけれど。視線をデカラビアに戻すと買い物を終えて勘定をしているところだった。帽子の鍔から覗く整った横顔を、ついまじまじと眺めてしまう。変に意識してしまって、今自分がどんな顔をしているかがわからない。
「待たせたな、ところでソロモン」
「な、なに?」
「あの二人とは寝ないのか」
「は?はあああ?ちょっと何でいきなりそんなこと言うんだよ!」
デカラビアは昨日の夕食は何を食べた?くらいの口調で聞いてきた。思わず慌てて答える。
「寝ないよ!ていうか、そ、そんなそういう、感じになった、こともないし⁈」
「……ほう」
少し考え込むようにして数度頷くと、デカラビアはまた何事もなかったように歩き出した。今度は先ほどよりもゆっくりとした歩調だ。
「え、ちょっとデカラビア。聞くだけ聞いといて」
「いや、俺としたことが当たり前のことを聞いてしまったと思ってな」
「どういう意味だ?」
「あの二人にそれほどの度胸があるわけがない」
「そうかな?俺には二人ともすごく積極的に見えるんだけど……」
鈍感な俺でも、ティアマトとカスピエルの情熱的な好意は目に見えてわかる。若干の恐怖を感じるほどだ。その考えを見透かすようにデカラビアは俺を横目で捉える。
「お前は人の好意を決して無碍にはできん。だから周りにもわかる程の好意をぶつけている間はわかりやすく幸福なのだろうさ」
「うん?」
「今の生温い幸福を手放してまで一歩踏み込む覚悟は彼奴らにないということだ。大体お前を好いている輩は大方嘘を突き通せる部類ではない。一度関係を持てばアジトの端から端まで知れ渡るだろうし、それはお前もよしとしないだろう」
「それは…」
「つまりたとえ不躾に踏み込まれようが十中八九お前は断る。そう思ったのだが……ふむ、俺は違ったようだな?」
正直そこまで考えたことはなかった。けれどそういった状況に陥ったら確かに断るかもしれない。アジトで面倒な問題は起こしたくないし。でもそれを考えると俺はデカラビアなら、大っぴらに誰かに言いふらす訳もない……だから大丈夫だと心の何処かで思ってしまっていたのかもしれない。インクを零したようにじわりと罪悪感が湧く。今更すぎる。
「あ、その、俺は……」
言葉をどう選べばいいんだろう。冷静になれない。
「クックックそう難しい顔をするな、他意はない」
「そんなつもりで、お前と」
「言いふらせと言ったわけではない。そんなのは俺もごめんだ」
「でもデカラビア」
「そもそも提案したのは俺だろうが、これ以上つまらんことは考えるな」
畳み掛けられてしまった。いつもの薄く笑う表情からは怒りも侮蔑も特には感じられない。でも本当のところがわからない。もし少しでも傷つけてしまったのだとしたら、居た堪れない。路地裏の道を無言でゆっくりと進みながら、考え込んでいると何が正解なのかわからなくなっていく。
「ここだな」
「あ、ここってもしかして」
あてもなくふらふらと歩いていたのは俺だけだったようだ。見落としそうな小さな看板の店。バフォメットが手がけている銀細工の店だ。来るのは初めてだけれど、リョーカ村で見た繊細な糸のような細工がショーウインドウに並んでいる。
「アジトでハルファスが身につけているのを見かけた。一度来てみたいと思っていた」
「そっか、お前そういうの好きだもんな」
キラキラとした装飾品が好きなメギドは男女問わず案外多い。贈り物で喜ばれるから俺もよく買い求めたり、職人の村に外注したり、時には自分で拵えたりもする。特にデカラビアは細身で繊細なデザインを好んでいて、巫女の耳飾りを欲しがった時はアジトが騒然となったのを覚えている。
「いらっしゃいませ」
愛想の良い、きちんとした身なりの女性店員が早速デカラビアに向けて微笑みかけた、それから少し後ろにいる俺に向かって微笑む。どうやら買うのはデカラビアの方だと彼女なりに判断したようだ、お探しのものはありますか?などと盛んに話しかけているしデカラビアも意外なことにきちんと言葉を返している。手持ち無沙汰になった俺はぐるりと店内を見て回ってみることにした。
「結構色々あるな」
モーリュの花をモチーフにしたブローチ、リボンを象った流線形のリング、レース模様に編んだ銀糸をふんだんに使ったネックレス。これはアジトの『カワイイ』もの好きには堪らないラインナップだと思った。男性用にはスカーフを留めるピンや、腕輪。どれも目を引く品だった。自分では流石に作れないレベルだ。
「そうだ、気に入ったのがあったら贈ろうかな……?」
そう思ってそっと棚の陰からデカラビアの様子を伺った。ちょうど店員が鍵のかかったガラスケースを開けてリングを取り出すところだった。デカラビアは試着するつもりらしく、珍しく手袋を脱いでいる。昨日も見惚れた細く長い、白い指。指先、そこで視線が止まった。爪が黒く塗られている。
「⁈」
声が出そうになるのを堪えた。昨日は特に何も塗っていなかった。何度も見たしそれは間違いない。なんでそういうことをするんだ。さっきまでの鬱々とした自責とはまた違った種類の疑問が湧き上がる。思わず自分の黒い爪を見る。やっぱりあいつは俺のことが普通に好きなんだろうか?わからないけれど、単に黒く爪先を塗りたかったにしては酷いタイミングすぎる。
「おい」
「わあ⁈」
「でかい声を出すな、少し意見を聞かせろ」
デカラビアは二つの異なる指輪を掌に乗せていた。手袋はもうはめている。
「二つまで絞れたが、どちらにするか決めかねている。それなりに値も張るからな」
「うん」
何淡々と言っているんだお前は、と思いながらも流されるままに頷く。
「お前の主観で構わん、どちらが美しいと思う?」
「そうだな……」
月をモチーフにしたような曲線美のリング、石を囲うように銀糸で螺旋を描いているリング。どっちも綺麗だし、間違いなく似合いそうだった。何よりそれよりどういう理由で爪を黒くしたのかが気になって仕方がない。しかし覗き見てしまった手前、今は聞ける雰囲気でもない。
「その、どっちも違う良さがあって好きだな…片方俺が贈るのは?」
「ほお?殊勝じゃないか。後でフォカロルに文句を言われても知らんぞ?」
「このくらいは大丈夫だよ、一応今日は好きに遊んでくるって許可もらってるし」
「ありがとうよ」
満足げな笑顔だった。明らかに嬉しそうな足取りでレジへと向かう。普段は勿体ぶった態度しかしないくせに、何か貰った時の反応はまるで子供のようだ。妙に素直な部分と、全てを諦めたように冷めた部分、そしてあの爪の色。デカラビアといると、感情が滅茶苦茶に掻き回される。これからどう接したらいいのか、それ以前にデカラビアはどうしたいんだろう?
そんな考え事をしすぎた結果なのか、店を出た頃には小腹が空いてきた。一旦余計なことは考えず、何か口にした方がいい気がしてきた。
「なあデカラビア、お腹空かないか?」
「ククク……下等生物はすぐ腹が減るらしいな」
「ちょ」
「何、お前のこととは言っていない。しかしそうだな、喉は乾いた」
「どこか入ろうか、結構歩いたしな」
人通りの少ない路地裏を抜けて、大通りの方へ向かう途中。さっきは考え事をして気づかなかったが、足音が多く聞こえる気がした。後ろから、俺たちとリズムは同じだけど響き方が重なっているような。
「あ、俺にもわかった。やっぱり尾けられてるんだ……」
「この分だと店どころかアジトに着くまでこうだぞ。クソが、全く落ち着かない」
「……デカラビア、足はかなり速いよな」
「は?」
「コラフ・ラメルまで走らないか?荷物は持つからさ」
「はあああ?」
「だって折角だし、ゆっくりしたいだろ?ほら行こう」
頭のもやを払うように一気に駆け出す。一瞬ついてくるか不安になったがそんな心配は必要なかったようだ。明らかに不愉快な表情をしながらもデカラビアは当然のように追いかけてきた。この速さなら二人を撒けるだろう。
「莫迦なのか?ソロモン、お前は走るのが趣味なのか?」
「あはは、そうかも」
道をあえて少し変えて走る。慌てて追いかけてくる複数の足音が高らかに聞こえたけれど、やがてそれも聞こえなくなった。流石に息が上がる。コラフ・ラメルに到着する頃には汗だくになっていた。多分これで大丈夫だ。
「見つからないうちに入ろう」
「……ば、莫迦が、全く、お前……はッ」
悪態をつくデカラビアを支えながら入り口の扉をくぐる。ちょうどマルファスが働いている時間だった。モップを持ち床を磨く姿で固まって、目を丸くしている。
「珍しい組み合わせだな?ていうか、なんで二人して汗だくなんだよ」
「ちょっと走ってきたからさ」
「まあ、いいや。まず水かな?ソロモン、席はどうする?」
「奥の個室空いてたらそこがいいんだけど」
「今日はサルガタナスも来てないから空いてるよ、水持っていくから行っててくれ」
客は多くないとはいえ、メギドが集まる店だ。昼下がりの半端な時間だから今は幸い知った顔はいない。二人が万が一追いついてくることも考えたら、個室が妥当だと思った。
「ふふ、疲れたけどなんか楽しかったな」
「走り回るのがそんなに楽しいとは…つくづく単純な思考回路だなお前は」
呆れた様子で溜め息をつき、ハニーケーキをぱくついてエトワールオレを啜るデカラビア。ただでさえ甘いのに案の定砂糖をドバドバと足している。俺はキノコパスタをつつきながらぼんやりとその様子を眺めていた。思い切り走ったおかげか暗い気分はあらかた消えていた。嘘はつかないんだから、気になったことはきちんと話し合えばいいんだ。
「でも、ちゃんと一緒に走ってくれてその、嬉しかったよ」
「……尾行され続けるよりはマシだと思っただけだ、疲れたぞ」
「その、今日は楽しかったか?」
「いい気分転換にはなった、四六時中あの道化に見張られるのは気が滅入るからな」
「また、誘うよ。俺もお前と居るの楽しいしさ」
「しばらく間はあけろ、お前は軍団を率いる立場なんだ。俺も周りからあれこれ変に勘繰られるのは本意ではない」
「そうだよな、ごめん」
少し浮き足立ってしまったかもしれない。どれほど惹かれようとあくまでソロモンとしての立場を忘れてはいけない。デカラビアはそれをわかった上で言葉を紡いでいる。
「ソロモン、もし、お前が望むのであれば」
「ん?」
「また部屋に来い」
淡々と発せられた言葉に驚いて、思わずフォークを手から取り落としてしまった。かろうじてテーブルから滑り落ちるのを食い止める。デカラビアはそれを気に留める様子もなく、皿に残った最後のフォレストベリーを口に運んだ。顔色ひとつ変えていない。
「い、いいのか?」
「二度は言わん」
妙な沈黙に包まれる。その意味を噛み締めて、一気に気恥ずかしくなってくる。顔が熱い。
「……じゃあ、そうするよ、その、うん、人に見つからないようにはする」
「そうしろ」
こういうのを密約と言うのだろうか。秘密を持つのは得意じゃないけれど、不安より喜びが先に胸を満たしていく。何より嫌われてはいない、他人に悟られるのが嫌なだけで俺が思った以上に好きでいてくれているんだという事実が嬉しかった。
「さてそろそろ牢に戻るか、遅くなってもまた面倒だしな」
折角人が幸せな気分に浸っているのに、デカラビアは食べ終わった途端するりと席を立ち扉の方へ向かってしまう。思わずマントの端を掴んで引き止めた。
「……何の真似だ、ソロモン」
抱き締めてしまっていた。振り解かれるかと思ったけれど、なんの抵抗もなかった。代わりに呆れたような溜め息が吹きかかり、首に両手がするりと回される。
「仕方のない奴だ」
「ご、ごめん、もう少しだけ一緒にいさせてくれないか」
「そんなに俺が気に入ったか?」
歌うような嘲るような勿体ぶった口調が今はもう心地よくて仕方がない。改めて問われてしまうと思い知らされる。
「うん、すごく、どうしよう」
本当に困る。特定の相手に入れ込んでしまうのはまずい事もわかっている。これからメギドラル遠征にも向かうのだから、これまで以上にしっかりしなきゃいけない。けれどこの心地よさを今だけはどうしても手放したくなかった。
「程々にしておけ、そら気が済んだか?もう行くぞ」
「うう、そっちから誘っておいて酷くないか?」
「……その馬鹿正直さは嫌いじゃないぞ。ただ我を忘れて溺れるようならば見限るからな」
「お前ってやつは……!」
どこまでも一線を引こうとするのに、離れてもくれない。いつも振り回されてばかりで悔しい。
「ていうかお前、爪っ…」
「ん?」
「何で爪、黒く塗ってたんだ?」
デカラビアは一瞬目を見開いた。悪びれる様子もなく小首を傾げてこちらを見上げ、鼻先が触れそうな距離まで顔を寄せてくる。
「ふむ、見ていたか。しかしその意味がわからん程お前は愚鈍ではなかろう?」
「……」
それ以上、追求はできなかった。店を出る頃にはすっかり日が傾いていたし、思った以上に時間が過ぎていたことに気がついた。
「今日にでも部屋行きたいくらいなんだけど」
帰り道、妙な距離をとりながら歩く背中にそう投げかけてみる。
「……連夜か、全く遠慮がないな」
「あ、ご、ごめん嫌なら別の」
「今日は食事当番だ」
「嘘だろ?そ、それで早く帰りたがってた⁈ごめん気がつかなくて」
「いや、もう下拵えは済ませてきた。都合がいい。皆がよく眠れるよう一服盛ってやろう」
「へ?」
「鏡を見るが良い、えらく呆けた顔をしているぞ。それでは部屋まで尾けられるだろうが」
「え?あ、だから気を遣ってくれてるのか?でもまさか毒じゃないよな、それ」
「ククク……さて、どうだろうな?」
楽しそうに笑う声に合わせて、三角の帽子が軽く揺れた。結局のところ、掌で転がされているのかもしれない。それでも嬉しく思ってしまうくらいには好きなんだろうと痛感した。