あくろす小咄(パンクとあのひと)足取り重く登ってきたアパート。
今日もグウェン——スパイダーウーマン——の足取りは掴めないまま。怪人が入れ替わり立ち替わり好き放題暴れても姿を見せようともしない。正体不明の翼人間と謎の女とマスク男と不思議な光の向こう側に消えて以降、あれきり、どこにも。
人が目の前から消えるなんて馬鹿げた話があるはずがない。失踪か誘拐かそもそも幻覚か。そのはずだというのに。
実際に己の目の前で起きたことが受け入れられず、今日も体を引きずり街を歩く。
受け入れられないのはグウェンが消えたことだけではない。
グウェンはわたしの子供で——
その子供はスパイダーウーマンで——
スパイダーウーマンはピーターを殺した凶悪犯で——
その凶悪犯は——
今日も頭の中を出口のない考えばかりが巡る。
親として、警官として、人間としてどうあの子に向き合っていればよかったのか。向き合っていれば何かが変わったのか。ピーターは死なずに済んだのか。メイを悲しませずに済んだのか。スパイダーウーマンなんて現れることはなかったのか。グウェンは。
何故だ。何故。何故——……
足腰に言い聞かせ、最後の段を登りきった時に飛び込んできた《おかしな光景》。
明かりが切れ、暗がりとなったわたしの部屋の扉の前に影が立っていた。猫背ぎみな細身で妙なマスクを頭半分だけ被っている。ポケットに手を突っ込み、ギターケースを肩にかけ、ガムを膨らませ。
こんな夜更けにまともな訪問者などいる訳がない。ましてやそのマスクは、あまりにもあの子に。
「おい、貴さ………」
ホルスターの銃に触れ、声を掛けるよりも早く。
こちらに振り返ることもなく飛ばされた糸。
捕らえられ、引き寄せられたと気付くよりも早く視界が暗転した。
「…………?」
「よぉ、ミスター」
「!」
この地の発音ではない、英国訛りが強い低音。
身を起こせば、さっきの男が行儀悪くテーブルに腰を下ろしてわたしを見下ろしていた。グウェンがずっと大事に持っていたプロマイドに写っていた少年とは違う。
鼻や唇に開いたピアス、革ベストに鋲、爪には黒いマニキュア。タータンチェックのボトムに厚底のロングブーツを合わせている。今やクラシックとも言えるパンクスタイルの出で立ち。上半分だけ角だらけの蜘蛛のマスクに隠れて目は見えないままだが、顎から肩にかけてのラインを見るにアフロ系の十代後半もしくは二十代前半か。
銃はホルスターごと、警棒と無線も取り上げられて男の横に置かれていた。
「さっすが警察、タフだな。大概の奴ぁ朝までオネンネなんだが」
「…………」
「あぁ、鍵なら借りた。返しとくぜ」
ぷらんと目の前に吊られて返される鍵。繋がる糸は、見覚えがありすぎるもので。
「『お邪魔してる』で合ってるか? 窓から入っても良かったが、隠れてなんてガラじゃねぇんでな。渡しときたいモンもあったし」
「………貴様」
「ぁん?」
「貴様は、グウェンの仲間か」
「バンド仲間。あいつはうちのドラム担当」
「そうか、貴様もあいつらの……」
立ち上がる勢いをそのまま乗せ、足を踏み出す。
「あいつらの! グウェンを連れ去った連中の仲間か!」
あちらは痩身で肉付きも薄い、こちらは曲がりなりにもトレーニングも積み実戦も重ねた警官だ。我を見失った暴徒や無差別暴行犯を相手にした事も一度ではない。タックルを浴びせ、難なく地面に組み伏せるはずだった。
だが。
腕が届くよりも早く、壁に縫いとめられたのはわたしだった。
「——残念」
テーブルに腰を下ろす男の姿勢は、右手首を軽くこちらへ向けたのみでまるで変わっていない。口調も表情も。纏う雰囲気が、色合いが《違う》。《異質》なのだとなにかが告げる。
大袈裟な動作などなく見せつけられた力量差に血が冷える。あえて加減されているのだと、こちらへ告げているのだ。
「悪ぃが、そのままで居てもらうぜミスター。ポリ公のクソ拘束を無条件で受けてやるほどやさしかねぇんだ。誰でもそうだろうがな」
「………っ………」
「それと『連れ去った』と言うが、銃を突きつけたのはあんただって聞いたぜ」
「! 誰から!?」
「誰からだと思う?」
マスクがずらされ、左目がわたしを捉える。黒いアイメイクを施した瞼から覗く瞳が金色に光る。
訊かずともあんたなら分かるだろ、とナイフなしに突きつける、強い瞳だった。
「………っぁ、あ、あれは」
「『あれは』?」
あれは。
「ピーターを、わたしの息子同然で、グウェンとも親友だった、ピーターを」
「『ピーターを』?」
そうだ、ピーターを、あんなに仲の良かったピーターを。
「っピーターを、殺したのがスパイダーウーマンで、スパイダーウーマンは」
「『スパイダーウーマンは』?」
スパイダーウーマンは、あの子は、ずっと、わたしに。
————もう、パパしか居ないの……!
「…………ぁ、あ………」
鏡に問うが如く返され続けた言葉に、グウェンの慟哭が蘇る。
弱いところを見せたがらない子だった。そう思っていた。
ずっと迷い子だったのは、泣き叫びたかったのは、寂しい思いをさせてきたのは。
『お前には黙秘権がある』
あの子を突き放したのは、拒絶したのは、知ろうとしなかったのは。
だが、だが。ピーターを殺したのは。ずっと嘘をついていたのは。
ぐるぐると再び渦巻く、憤懣、後悔、恐怖、疑念。
項垂れるわたしの視界に映る、細身のブーツ。
「………貴様には、話したのか」
「全部じゃねぇよ。こっちも訊かなかったし、師匠でもねぇし」
「出会ってどのくらいになる」
「長くはねぇな」
「なんなんだ、お前達は……」
「バンド仲間」
「そうじゃない」
「訊きたいのは《俺のこと》か?」
けして荒ぶることのない声がわたしを制する。
どこまでも不遜で、不敬で、傲岸で、静かな瞳。
どれほどの人生を重ねればこんな色の瞳になるのだろうか。
「——」
そうだ、訊きたいのは男のことではない。この男ではないのだ。
何も返せないわたしの、壁に張り付けられていた体をぺりっと剥がされる。
「いいのか」
「イジメの趣味はねぇよ。あんたも殴る気なさそうだし」
「…………」
殴れるわけがない。
泣きたくとも泣けずにいたあの子に寄り添っていたのは誰かを、あの子が声を聞いて欲しかったのは誰かを知ってしまえば。
「ヒデェ顔だな」
「………放っておいてくれ、寝てないんだ……」
「なら吐けば」
「は?」
「どうせこのままでもグルグルしたまんまだろ、一度吐き出してアウトプットしちまえよ」
時間はまだあるんだ。
謎めいた台詞を吐くと、ロングブーツをゴツンと鳴らし両手を広げて男は笑って見せた。
…………一応、年長者はわたしなんだが。
パンクロッカーという人種、ギタリストという人種はこういうものなのか……? 少なくとも喧嘩別れしてきた過去の子供達にはいなかったはずだ。
グウェンに兄貴分がいるならこういう存在なのだろう、とぼんやりと思いながら、わたしは唇を開いていた。
「スピーチを聞いて、考えたんだ。あの子に対して、仕事に対して、このままでいいのかと」
「ほぉ」
「そうやって真面目に考えていた側から、あんな事が起きて、グウェンは」
「ふぅん」
「驚いたのも事実だ。怒りが湧いたのも。そもそもあの子は大事なことを言わなさすぎる」
「へぇ」
「勿論、言えないのは分かる! 分かるが、だが!」
「んー」
「そもそもプロムの時も………」
「ぉお」
「おい」
「なに」
「『なに』じゃない。ひとの話を聞く時に、その態度はどうなんだ。テーブルに寝そべるな。靴裏を乗せるな。野良猫じゃないんだ。最低限の礼儀、マナーというものが……」
「マナーってなに」
「親や家族、学校から学び教わるものだ。社会で生きていく上で——」
「あぁ、それなら持ち合わせねぇな。家族もとっくに居ねぇもん」
「家出か、よくある話だ」
「ああ、よくある話だ。親父は物心付くか付かないかの頃にヤク欲しさに俺達をぶん殴った挙句売人に突き出して出てったし、お袋もダチも殺された。クソファシスト共の手で見せしめ同然に」
「 」
「こっちでも首吊り死体やリンチ死体に会うなんざ珍しくもないだろ? ポリ公のあんたなら」
「………それは」
「昔の話だ」
淡々と流す顔は、凪いでいる。
理不尽への憎しみも、踏みつけ押し付ける者への怒りも忘れたわけではない。『なかったこと』にもしていない。むしろ逆だ。けして忘れるものかと己の中へと刻みつけ、己を燃やす炎として己だけの中に納めた者の顔だ。
「………………すまん」
出で立ちや態度で勝手にイメージを作り上げ、決めつけていた。
彼もまた、本来ならば《護られるべき》者、《傷を抱えた》者であったというのに。
「あんた『いい警官』だな」
「え?」
予想外の評価に伏せた顔を上げれば、皮肉げではない笑みがわたしと対峙している。
「大概の奴らは『すまん』なんて言わねぇ。『そういう人達ばかりじゃない』『運が悪かった』『お前らの事件にだけかかり切りになれない』。傑作なのは『君達にも原因が』『その通りを歩かなきゃいい』『そこに住むからだ』『国から出て行け』。末端だけじゃなくお偉方でも言うぜ? 入植者はテメェらだってのに」
「それは………ナンセンスだ、あってはならない、人道にあるまじき暴論だ。警官である前にひととして」
「だから『いい警官』だって言ったんだ。…………グウェンが憧れるわけだ」
「グウェンが!?」
「言ってたぜ、あんたみてぇになりたい、ってな。正しく人を救えるヒーローに」
「正しく………人を………」
受け止めきれずに呟くわたしを見つめる男の瞳は年相応に柔らかく。彼自身もヒーローの存在を否定していないこと、彼からのグウェンからの言葉も嘘ではないことが分かる。
彼には明かしていたあの子の願い。
わたしはあの子の声をどれほど聞けていたのだろうか……?
もし、また再会できたとして、あの子の声を今度こそ聞けるのだろうか………?
——————と。
長い足をぶらぶらと揺らし寝転がっていた痩躯が、バネ仕掛けのように起き上がる。
「!? どうした」
「時間だ」
思わず身構えたわたしに反し、男の口元には笑み。何も聞こえなかったが、合図かなにか来たのだろうか。
ブーツの紐を結び、ギターケースを背負い、マスクを被り直す男が小さな箱を渡してきた。
「これは」
「手土産。アイツに会ったら渡しといてくれ」
「!? 帰ってくるのか!?」
「そいつはアイツ次第だろ」
「………?」
まともに訊ねても答えてくれそうにないことだけは察した。
どこまでも謎めいた発言が好きな男だ。
ただ男が言っていることも今なら受け止められる。
グウェンが、あの子自身が此処へ帰りたいと思うことから始め直さなければならない。
たとえ元通りにできなかったとしても。
「あと、一個忠告」
「?」
「何話すか話さねぇかはあんたらの勝手だが、押さえつけて息を奪う真似だけはすんなよ。俺もアイツも動物でも玩具でもねぇんだからな」
「………分かった」
こればかりは神妙に受けるしかない。
正直、親の身としても、警官職としても『息ができない』の忠告は痛烈すぎる。
まったく、なんて奴と知り合ったんだ、グウェンよ………。
「情けねぇ台詞だな、ミスターパパ」
「君にパパと呼ばれる覚えはない」
「そりゃそうだ」
「一応有難うと言っておく。重ねて訊くが、グウェンとは……」
「バンド仲間。パンクロッカーはバンド仲間とは簡単に寝ねぇよ。雨宿りくらいはさせるがな」
「その言葉、信じよう」
「侵入者の言葉を簡単に信じちまっていいのかよ」
「わたしを『いい警官』だという奇特な青年の言葉だ」
「うわ、撤回してぇ………」
「諦めろ、こっちは覚えている」
「そういうところはマジで『クソ警官』だ」
「大人をからかうからだ」
マスクの下ではげぇーっと舌を出しているのだろう。
やられてばかりでは面目が立たんのでな。
しかし、もしまたグウェンに会えるとしてどう向き合うべき………
「————なぁ、服とかヒトんちにちょくちょく忘れもんすんの、あんたとママさん、どっち譲り?」
「なんだって!?」
ティーンの子を持つ親として聞き捨てならない爆弾を残され、廊下に飛び出すもそこには誰もいない。
階下へ降りる足音も気配もなく、ただわたしの怒号の反響音だけが返るだけ。窓を開けた形跡もない。
一旦閉めたドアを開けてのあの一瞬で、どこへ。
「まさか………幽霊か………?」
自信なく呟くも、手に残る箱は確かに残っている。
兎に角、短時間で様々な事が起きすぎた。受け止めきれない事も、その上で受け止めなければならない事も。
「………まずは仮眠だな」
気疲れと疲労とそれとほんのすこしの。
ネクタイを解きながら、扉を閉め直す。夜明けまではまだ間がある。
あの子に再び会えるのは、今日ではないかもしれない。明日ではないかもしれない。
それでも。
もはや寝床となったソファーに横になり、瞼を閉じる。
再び出会えたあの子が、今でなくとも写真のように笑える日が来ることを願いながら。