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    めんつゆ

    @mentu_yu

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    めんつゆ

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    【サーカス】蛸と烏と少女と
    (お題は手下ワンドロ2022様より)

    #手下
    underOnesControl

    サーカス それは不思議な音色だった。
     奇妙と言っても良い。
    演奏しているのは色が剥げ、端がささくれ立ったようなアップライトピアノの前に座った男。青と黄色のテントとテントの間。そこは少し広くなっており、ピアノはそこに置かれていた。午後七時少し前。既に暗闇に包まれた辺りには一面無数の電飾がぶら下がり、夏の空気の中で悪夢のように短く息をしている。
     海みたいだ。
     その人が弾くピアノを何故そう思ったのかはよくわからない。でも私はここから立ち去る事が出来ずにいて、もう何分もピンク色のテントの影から彼の奏でる音を聴いていた。
     白く細い手首が甘く回転しながら鍵盤を這っている。下へと沈み込むようなパッセージをこなすと、背中でゆるく結われた長い銀髪が電飾を反射して光った。
    「綺麗」
    「……そりゃどうも」
     ごくごく小さな独り言に数メートル先から返事が来たので、私は息が止まりそうになった。ここはサーカスの裏の立ち入り禁止区域で、私は言うなれば侵入者だからだ。
    「気付いてねぇと思ったか?」
     演奏を止める事なくそう続ける彼の声色にしかし怒りの色は見えなかったので、私は心から安堵した。本来であればつまみ出されても仕方がない。でもそんなつもりは無さそうだと判断した私は、もっと近くで彼のピアノを聴こうと近寄る事にした。
     間近で聴く彼のピアノは本当に美しかった。驚くほど華奢な腕であるのにも関わらず、暗く深い低音を持ち、煌めく高音は波頭で弾ける光の様なのだ。
    「ここからじゃサーカスは見えないぜ?」
     私は内心舌を巻く。テントの隙間から中を覗き見出来ないかと裏へと回ってきた事をわかっているのだ。
    「もう良いんです、どうせ見られないし」
    「どうせ見られないのに何で来た?」
    「それは……」
     本当はちゃんと見られる予定だったからだ。チケットも持っていたし、今日のために新しい靴も買った。白く滑らかなストラップシューズ。十日間程滞在したこのサーカスの最後の夜である今日の公演は特別なもので、終演後には花火も上がる予定だ。
     素晴らしい夜になる筈だった。昨日の晩から雨なんか降らなければ。
    「当ててやろうか、ママに何か言われたんだろ?」
     図星。母は特別な夜に、特別な靴を履く事を許してくれなかった。確かに白の靴は汚れるだろう。でもこの靴はサーカスに行くために私の元にやってきたのだ。今日履けなければ、この靴の存在意義は無いに等しい。
    「わかるぜぇ、親っていう生き物はな、子供気持ちなんてこれっぽちも考えちゃいねぇんだ」
     可哀想になァ。
     その人は器用にピアノを弾きながら、流れる様にお喋りを続ける。
    「チビ、名前は?」
    「私は」
     しかし私は一瞬躊躇った。見知らずの人だ。
    「賢いなァお前は」
     何故か彼が満足気に笑うので、私は不思議な気持ちになった。テントの間に風が抜け、頭上の電飾がチリチリと震えながら地面にまだら模様を落とす。
    「賢いお前に良い事を教えてやろう」
     流れ出るメロディがゆらりと転調した。奇妙だ。私はまたそう思う。何故こんなにこの音色に惹きつけられるのだろう。彼の薄い唇の端が持ち上がるのをぼんやりと眺める。
    「思い通りにならないのが人生だ。だがな、いつだって例外はある」
    「そう……貴方に会えたものね」
    「はい?」
    「確かにサーカスが見られなくてがっかりしていたけれど。代わりに貴方のこんな素晴らしいピアノが聴けたんですもの。確かに悪い夜では無いわ」
     私がそう言い切ると、彼は何故か驚いたように目を開き、指を止めた。
    「何の話だ?」
    「え?世の中悪い事ばかりではないと……励ましてくれたんですよね?あれ……違いました?」
     段々と不安になった私が尻窄みに声を小さくすると、反して彼は堪えきれないといった様子でついに声を上げて笑いはじめた。
    「こりゃあ見どころのあるお嬢ちゃんだ」
    「あ……私の名前は」
    「いや、良い。俺は気が変わった」
     気が変わったとはどういう事だろう。私はもう14で、お嬢ちゃんと呼ばれる程チビではないと訂正したかっただけだ。しかし彼は大きく息を吐き出すと私の頭を幼い子にする様にポンポンと叩いた。
    「さて、今ならまだ間に合う。お前は表へ戻れ」
    「でも、もう公演は始まってしまっているし。まだ貴方のピアノを聴いていてはだめ?」
    「まだ始まってないと思うぜ?」
     そんなはずは無い、私がこっそりとここへ忍び込む時点で開演直前だったのだ。しかし彼がおもむろに取り出した懐中時計はまだ午後七時少し前をさしていた。
    「嘘、なんで」
    「ほら、面倒な事になる前に早く行け」
    「面倒な事とは、どういう事だろうね?」
     私はまた息の根が止まりそうになる。誰もいなかったはずのアップライトピアノの奥に、また別の男が立っていた。赤紫の開襟シャツに黒のピッタリとしたパンツ。頭の上には風変わりな帽子を乗せている。
    「ほぉら来やがった、面倒事がよ」
    「何を言っているんだジョー。見て、彼女怖がっているじゃないか」
    「お前が怖ぇんだよ」
    「おやおや、それは失礼した」
     帽子の男は彼の友人のようだ。私がまた安堵したのも束の間、私を捉えたその人の瞳を見つけてまた息を呑む。
    「で、このお嬢さんはご案内するのかな?」
    全ての光を飲み込んでしまったような漆黒の瞳。私は思わず後退りした。
    「生憎、お帰りだ」
    「おや、それは残念」
     ジョーは優しいからなぁ。帽子の男がその縁を長い指でなぞると、一転その瞳はにこやかに閉じられた。今のは一体何だったのだろう。『ジョー』と呼ばれた彼をちらりと伺う。
    「おら、もう行け」
     小さなため息と一緒に彼に肩を軽く叩かれた。すると、どこからか小さく声が聞こえてくる。もしかして。私は耳を澄ました。
    「……お母様だわ」
    「良かったじゃねぇか」
     私は短くお礼を言うと走り出そうとして、振り返った。
    「あの、また会えますか?」
    「お前が本当に望んだその時には」
     そう言う彼は笑っているのか、困っているのかわからないような顔をしていた。私はまだ言いたい事があったのだが、すぐ近くで母が呼ぶ声がしたのでそちらに気を取られた。一瞬。しかしもう一度振り返った時にはピアノの周りには誰も居なくなっていた。
    「嗚呼!やっと見つけた!」
     そのすぐ後、駆け寄ってきた母はさぞや怒っていると思っていたのに、実際は泣いて心配したと私を抱きしめた。髪の毛をぐしゃぐしゃにされながら、私は泥まみれになった母の靴を信じられない気持ちで見下ろした。
     そうして私の特別で不思議な夜は終わった。
     翌朝、私は出発準備をするサーカス団を訪ねた。もう一度あの人にお礼が言いたかったのだ。しかし誰に聞いてもそんな奴は知らないと言う。
    「うちには今ピアノ弾きはいねぇよ、誰かが気まぐれで弾いてたんじゃねぇか?名前はきいたか」
    しかし私は答えられなかった。あの帽子の男は彼を何と呼んでいたのだったか。どうしても思い出せなかったのだ。私は仕方なく真新しい朝に畳まれていくサーカスのテントをいつまでも眺めていた。

     あれからいくつものサーカスがこの街へ来た。夏の度に。鮮明な赤と白の腕を広げて。
     私は毎回必ず白い靴を履いて出掛けたが、それでも、あの人に会う事はもう二度と無かった。
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