ヴァルハラの少年一瞬、風が止んだような気がした。 直前まで初夏の朝の見慣れた町並みが目の前に広がっていたのに、今、認識できるのは真っ白な空白だけだ。 あまりの明るい光に真っ白に焼けてしまった視界の中に遠近感などあるはずもないのに、この光の源が目の前にあると感じたのは、冷たかった空気が一気に熱を帯びてきたからだろうか。
気配を感じる。 気づかない方が難しいほど巨大であり、同時に絶対に避けられないような俊敏な獣の気配だった。 こちらに向かって獣が振りかざした爪に直撃されると勘違いした瞬間、槍の刃が胸郭を指して止まった。 目に見えない何かに遮られたように見えた槍の先端は、やがて柄を握った誰かが力を込めると、虚空を切り裂き、服の上から心臓のある場所を突き刺す。 その場所から伝わるのは、布を引き裂き、心臓を突き刺すには到底足りない、ぎゅっと押さえる程度の圧力。 ただそれだけの感覚なのに、一瞬後に耳元で鳴り始めた自分の心音を自覚する。
先ほどまで槍の先に掛かっていたはずの透明な障害物は、生々しい、しかしどこか見覚えのある破片となり、一瞬足元に転がっていたが、やがて金色に輝く埃となって散らばっていく。 なんとなくその光の破片が、目の前にある光源の一部に戻るような気がする。
同時に、不意に幻視のような光景が脳裏にフラッシュバックした。

視界に入った手は今の現実よりもはるかに大きく、聞いたことのない言語で呪文を唱える声は低いけれど、脳は身に着けている大人の男の体を自分だと認識する。 そして、降り注ぎ始めた流星群の間から別の男の顔が見える。 三羅漢の星明かりを殺し、最も眩い輝きを放つ瞳は黄金、一撃で燃え尽き、無遠慮に放り投げた有象無象の魂を全て呑み込む怯火のように燃え上がるたてがみも黄金。 自らが生み出した子供であり、生涯唯一、敬意を表する価値を見出した盟友の顔である。 造形主義の最高傑作が今、慈愛に沸き立つ地獄となり、白衣を着て死を強要する。 規模の異なる二つの世界がぶつかり合う総力戦の興奮に、最も親密な間柄同士が遅ればせながら交わす深遠な言葉の激昂に、ハイドリヒの繊細な顔は歓喜で歪んでいた。
その瞳に映る自分が、眩しい光に視線を奪われ、恍惚とした顔をしていることに改めて驚く。 まるで、他のことはすべて手放し、ただひたすら星を見つめるだけの子供のような顔だ。 一瞬そう思ったが、実際にやっていることも大して変わらないことに、思わず笑みがこぼれた。 こうなると思っていたのに、またこの場に戻ってきてしまった。 彼と喰い合ったこの先には未知も弓も何もなく、ただ背後には帰り道だけが広がっていることを誰よりもよく知っていながら。
「お前が私に根ざしているという事実から逃げることはできない。 私が死んだら、お前はそこに無意味に巻き込まれるだけだ」
ふとした瞬間に不平が漏れる。 そんな無駄な死をさせるために、ここまで連れてきたわけではないのだ。 しかし、どんな言葉でも引きずり下ろせなかった黄金は、今回も期待を裏切らない。 「師匠の最後の教えだ、付き合ってあげようか」
ほぼ同時に、ハイドリヒの手の中に聖槍が見えないことに気づく。 空いた手が見えるほど近い距離をいつの間にか許したのか、その意味を十分に考える間もなく、どこからか必中、必殺、最速の気配がこちらを狙う。 ハイドリヒの全軍を乗せた聖遺物、彼と共鳴し、一瞬にして膨れ上がった魂たちの格は以前とは比べものにならない。 魂ひとつひとつが彼と同じで、また魂全体の集合が彼という矛盾した連鎖。 開戦の時、迂闊に振り払った一撃のようにはいかないことを直感し、避けようとした瞬間、殴られた。 なんてことだ、思わず凧の口からは言葉が出なかった。
脳を揺さぶるような衝撃とともに、肉が破裂する音が響いた。
「......」
出血するその瞬間にも、急速に点滅し始めた思考の中で何とか状況を把握する。 聖槍が自分の心臓を突き刺した。 その先は自分の体を貫いた後にも続き、彼の胸ぐらを突き刺す。 ハイドリヒもまた、口から血を流している。 聖槍をわざと見逃して、その中の魂を呼び出して回収したのか。 最後の最後で避けられないようにハイドリヒ自身を使ったのは、まさか私の不平不満に影響されたのだろうか。 言いようのない気持ちを視線に込めて見つめると、彼はいたずらに成功した子供のような笑顔を浮かべた。
二人の体が崩れるのと同時に、その中に収められていた世界が崩壊する。 しかし残念だ、ハイドリッヒ。 これもまだ未知数である。 約束は守れなくなったのだ。 結局、今回も世界は死を目前に控えた神の願いに沿って逆行し始める。
異変を感じたのはその時だった。 自分の体という器の中に収められていた魂が流れ出し、彼と自分を繋いでいる聖遺物を通して彼に入る。 これもきっと自分が聖槍を使った用途の一つだったのだろう、そう思いながら虚しく笑う。 しかし、すでにその聖遺物さえも崩壊しつつある。 ハイドリッヒが担っていた終わりが過ぎれば、世界はすぐに自分が担うべき始まりに戻る。 とんでもない失敗だ、そう思って意識を諦めようとした瞬間、自分の魂が聖槍の方に引きずり込まれるのを感じる。
無理だ。 一瞬そう思って目を見開くと、ハイドリヒはまるで今、口から出せなかった言葉を聞いたかのように笑った。
「私の勝利だ」
根を残しておいても宿主が死んだら一緒に死ぬしかなく、切り倒しても枯れるだけなら、丸呑みという賭けしか残されていないのも当然である。 しかし、食べられるかどうかに優先する問題、それはそもそも自滅因子にとって可能な考え方ではない。 究極的に宿主の希望に従うことになる彼としては、前提がずれているので不可能なはずの行動。
そこで気づく。 夜明けの時、彼を壊して黄金の獣に覚醒させた時。 彼が反問した一言の疑問に答えを与えなかった。 人間ラインハルトに残された自由意志を完全に打ち砕くことができなかった。
ㅡカール、最初に卿は私に飢えた目をしていると言った。 ならば、誰を呑み込めばこの空腹は満たされるのか？
ガラスのような青。 その時とは違う金色の瞳の上に重なる残像から目が離せない。 そしてハイドリッヒはふと思い出したように付け加えた。
「残念だったな、卿の願いを叶えてあげられず。 卿の女も欠かさず食べるから、少し待っていてくれ」
ほとんど崩れ落ちた城砦の破片が心臓に突き刺さったまま、世界が停止した瞬間に聞いた最後の言葉である。 赤面したい気持ちと同時に幻想は終わった。 自分は再び少年の体で、光の中に迷い込んだまま立っている。
ふと気づく。 彼は自分の自滅因子であり、自分は彼の宿主であった。 まさに自分が死ねばハイドリヒも死ぬ程度の関係だが、物理的な実体があるわけではない。
ならば今、彼が自分を訪れ、槍の先端で打ち砕く意義があるのは。 先ほどの現実から視界を奪う光の中で彼が目指したのは、果たして旧世界の自分が奉納した聖槍と断言できるだろうか。
そして自分の頭よりずっと高いところから、涼しげな低音が落ちた。
「私と卿を縛っていた束縛はもういない」
その言葉を聞いて、不意に理由もわからない痛みが胸に突き刺さった。 そう思っていたのか、と問い詰めたい気持ちがどこからか湧き上がってきて、虚しく砕ける。 ある時点でこの男にそんなことを言われたとしても、反問する勇気はなかっただろうという苦い確信だけがその場に残る。 この声の主が誰なのかも自分ではわからないはずなのに。
「これが、盟約を貫いた卿に捧げる私の敬意である」
憑かれたように耳を傾けるしかない声で、理解不能な内容ばかりを語る男に、他人の理解を求める気など、そもそもないように見える。 だから解放感でも味わおうということなのだろうか。 解放と言う言葉が担保する喪失、胸に迫る虚無は確かに未知の感覚なのかもしれない。 全てが自分の細胞だった時代に、何かを失うということは不可能だったのだから。
この光が何なのか、その時と同じように目の前に立っているにもかかわらず、今やこの両目で輪郭すら認識できなくなってしまった光の闇は、きっとそんなものなど考えたこともないだろう。 この瞬間こそ、鉄の檻の中で我々があれほど求めた未知の実像なのか、ハイドリヒ。
ああ、そうだった。 そんなことにとらわれる男ではなかった、私とは違って。 お前を探すという宣言すら、お前の前では勇気が出ず、今度はどんなに長く彷徨い続けても見つからないかもしれないという不安にもかかわらず、結局再会できたことに安堵を感じていた私とは違って。 その事実を安堵していた時代はもうない。 この世に生まれてから一度も経験したことのない出来事が頭の中で混在していることすら区別できないのに、口から一言発する余裕のない自分に、何度目かわからないほどうんざりしてしまった。
「せっかく贈り物も用意したのに、そんな顔をするな、友よ」
いたずらっぽい声。 一瞬、その言葉が理解できず戸惑う。 しかし、すぐに彼の意図がわかった。
頭の中に浮かんでいた幻想や独白が消去されていく。 その空いた場所は、ある風景で埋め尽くされた。 まだ一度も見たことがないのに、なぜかそこが手に取るようにわかるような風景。 山の中の村に金髪の少女が立っている。
いつの間にか視界が戻る。 光はどこにもなく、網膜に押し付けられた残像も不思議と早く消えた。 記憶はそれ以上に早く揮発する。 すべてが"正常"に戻る直前に思った。
もう彼女の手で死ぬ必要はないけれど、私の最初のものを見つけて遠くから見守るのはきっと喜びだろう。 あまりに楽しすぎて、観察日記の一つや二つくらい書いてしまうかもしれない。 そうして彼女を見つけたら、次は。
お前の光をまともに見つめることもできなくなった私を、お前がまだ友達と呼んでくれるなら。
「私はお前を見つけ出す」
最後まで変わらない私を見たら、お前もまた、再会の瞬間にあの時のように笑ってくれるだろうか。