ひだまりのこどもたち不思議なことに、ユリウスという男に対する評価は人を真っ二つにする。彼をよく知る者と、そうでない者で極端に意見が対立するのだ。
地方諸侯のある人は言う。あの忌み子は妙に愛想がよくて不気味極まりない。頭が回るのも異様に早いから、きっと生まれ落ちたそのときから人の子などではなかったと。
かつて同じ小隊に属していたという男は言う。彼はあれでいてユーモアに富んでおり、気遣いもできるのにそれをひけらかすこともしない上品さを持っている。皮肉が鋭いのだって愛嬌なのだ、と。
不思議と言ったものの、儂はなるほど確かにと頷かざるを得ない。自分自身、彼を見る目がこの数か月でぐるりと一転してしまったからだ。
「おや、ジェノ殿。書庫でお会いするとは珍しい」
「陛下の使いでな。偶の隙間に本が読みたいからと……。お主は書庫に詳しいか?」
「ええ、何をお探しで?」
「この本だ。歴史書と言っていたが」
「ならば奥の棚です。……ん……? ああ失礼、この本は左だ」
「む。歴史書でまとまっているわけではないのか」
「地図付きの大判なのです。サイズの違うものは壁際に」
「なるほどな」
一度進みかけた足を戻し、反対側へすたすたと歩きだす背についてゆく。窓のない書庫はしかし爽やかに乾いていて居心地がいい。ヒューマンの生活を想定した天井は儂にとってやや低いが、この窮屈さとて慣れたものだ。
あたりを見回しながら足を進める。すると、古ぼけた絵本の背表紙がいくつか並ぶ棚が目に入った。懐かしい、と目を細める。幼い陛下にせがまれ、こっそり地下牢の番を抜け出すときなどは、よくここで絵本を読み聞かせたものだ。
「何かありましたかな」
「いいや。書庫に慣れていると言うわけではないが、絵本の一角だけはよく籠ったものでな」
「ああ、そういえば。昔は陛下と共によくおいでになっていましたね」
「……? なぜ知っている」
「ふふふ、なぜでしょうね」
妖しく笑ったユリウスは、マントを翻しながら角を曲がっていってしまう。慌てて追いかけると、凛と背筋の通った男は壁際の棚の前で止まっていた。
「お探しの本はこちらですよ」
「ふむ。……題もあっているな、助かった。流石は研究者、書庫は庭のようなものか」
「庭どころか、家のようなものですよ。恐らくはあなた方と同じ理由で、ここに籠ってばかりの時期がありました」
この男はよく笑う。誰に対してでも、物腰がいたく柔らかいのだ。実をいうと、彼とは先王が存命していた折にも何度か顔を合わせたことがある。忌み嫌われていた妾の子に対し、あたりに倣って辛辣な態度を取る儂にも、彼は穏やかな微笑みを絶やさず淡々と話かけてきた。今思えば、儂も冷淡なものだ。僻地へ放られ、冷遇を受けていた身であったのなら、もう少し彼に同情の心を持ってやるべきだったと思う。いつだかの酒の席で、アルベールがふと「忠義は時に己を狂わせる」などと後悔めいて語っていたが、儂の眼とてもしや忠義に狂っていたのかもしれない。
少し狂いの冷めた目でユリウスを見る。彼はよく笑うが、その微笑みには多様な感情が隠れているのだ。喜びも、悲しみも、怒りでさえ。大判の本を眺める秀麗に整った瞳には、果てのない寂しさが浮かんでいるような気がした。
「父王にとって、書物とは紙屑のようなものでしたから。当時は騎士団の巡回さえ、ここを覗くことはなかった。隠れ家としては申し分ない。お二人もそのつもりでいらしたのでしょう?」
「もしかして、儂たちと鉢合わせたことがあるのか? ここでほかの誰かに会った覚えなどないが……」
「幼い頃の私は陛下よりひどい引っ込み思案でしたから。息を殺すのは得意でね」
思わず眉を潜めてしまった。幼子にとって、密かに生きるというのがどれだけの苦痛であるかはよくわかる。レヴィオン王国に救われる前、奴隷商に商品として扱われていた頃の儂はまさしく呼吸すら自由にならない生活を強いられていた。彼も、そうだったのだろうと思う。
(いや、それ以上だろう。赤の他人に囲われて味わう絶望と、肉親に囲われて味わう絶望では傷の深さは比べ物にもなるまい)
「失礼。そこまで難しい顔をさせるつもりではなかったのです」
「いや……すまん。儂も顔が素直な質でな」
「この国の力ある騎士は皆そうですよ。雷迅卿しかり、殿下しかりね」
「むぅ、確かに」
この男の口から、素直に殿下の呼称が出るようになったのも最近のことだ。殊更先王の面影を宿すヴィクトル殿下は、同時に父王に最も可愛がられていた存在である。彼が陛下と儂をよく見かけるほどに城に詰めていたのなら、恐らくは殿下もそうなのだ。同じく血を引いた身で、寵愛を引き受けるその姿を、果たして彼は微笑んで見つめていたんだろうか。きっと笑っていたんだろう。生真面目な男だ、他者に感情の責任をおしつけるなどしまい。――まして年下の、仮としたって弟だ。のたうつ憎しみや嫉妬は、須らく彼自身の傷となってしまったに違いない。
ユリウスと言う男を知れば知るほど、感じるのは痛みばかりだ。自ら望んだわけでもない血筋に振り回され、しかし今なお国のためにとあくせく動く。国王を手にかけた大罪は決して赦されるものではない。赦すつもりもなかった。だが、その心情がまったくわからないかと言えば噓になる。それは陛下も、そして真相を少しずつ知りつつある殿下も恐らく同意見だろう。罪は罪。だが、忌み子が歩んできた鋭すぎる棘ばかりの人生を慮れば、こう思ってしまうのだ。狂気に囚われても致し方ないのではないか、と。
レヴィオンという国の名は、彼が縋っても手に入れることのできない王族の姓だ。民草の目は緩やかになりつつも、そこにはまだ恐れや怒りが滲んでいる。議会の人間とてそうだ。冷遇の日々は、幼い頃からの延長だろう。ならばなぜ、彼はレヴィオンに尽くすのか。純粋な疑問だった。代々の国王に恩義がある儂と違って、彼にとってのこの国は悪夢の象徴でしかないだろう。大きな騎空団に伝手もあるのだ。逃げようと思えばどこへだっていけるだろうに、彼はそうしない。時折青い艇に乗り込んでいっても、必ずここへ戻ってくる。
「不躾な質問をいいか」
「はい」
俄かに心を覗かせてくれた今ならば、答えを聞くことができるかもしれない。自然と零れ落ちた前置きに、ユリウスはやはり笑顔を返してくる。
「貴殿は何のためにレヴィオンに尽くしている? 忠義……ではないだろう。恩義もずれているような気がする。憎悪は勿論だろうが、それを動力とするならこの国は滅びているだろう」
「そうですね。……ジェノ殿は本がお好きですか?」
「……? いや、まぁ……そうだな。陛下にせがまれるうちに、昔よりは」
「それと同じです」
「はぁ」
「親愛ですよ。唯一無二の雷が、ここを宝だというものだから。私も、宝と思うことにしたのです」
「……。己の浴びてきた全ての屈辱を無視してか?」
「はい」
「どこへもいかないのも、そうか」
「轟雷が馴染みすぎてしまっていてね。静かな空はどうも落ち着かない」
「……。……儂が言うのもなんだが、献身がすぎる」
「命を救われた恩義というのは恐ろしく根深く己を動かす。違いますか?」
身に覚えのある問いかけに、再び降参して手を挙げた。彼の言う無二はアルベールだろう。命を救ってくれた誰かのために、なりふり構わず身を捧げる気持ちもまたよく知っている。彼と儂は、よく似た命運を辿っているのかもしれない。
「ふふ、思いがけない長話をしてしまいましたね。陛下がお待ちなのでしょう?」
「む、そうであった。また話そう。互いを知ることはよきことだ。――国を想う者同士、な」
「恐れ入ります」
深々と頭を下げる男に見送られながら、本を抱えて出口を目指す。扉を開き、巨躯を伏せながら廊下を目指したその瞬間。不意に、遠い後ろで小さな雷が弾ける音が聞こえた。
「ふふふ、盗み聞きは感心しないね。どんな顔だい? それ」
「聞かされたの間違いだろ。嬉しいと思ったが縛ってしまったという少しの申し訳なさもあって、いや違う、結局嬉しいんだ」
よく音を拾う耳が、朗らかな声とたじろぐ声を二つ拾う。なるほど、二人で居たらしい。だからあれほど饒舌だったのか、と、納得をもって口角を上げる。
「俺のためにここに居るんだな」
「ほかに何がある」
「葡萄酒」
「……、なるほど、それは天秤にかかるね」
「おいおい、迷うなよ。感動しているんだから」
「冗談さ。こら、ふふっ、擽るのはやめたまえ、書庫で騒ぐやつがあるか」
そうっと閉めた扉の向こう。子供が無邪気にはしゃぐような声が、優しく耳朶を滑っていく。失われた無邪気さをひけらかせる場所を見つけたのなら。彼はきっと、もう大丈夫だ。
「あ! ジェノ様!」
「陛下、殿下。」
「貴様があまりにも遅いものだから自分が行くと言ってきかなかったんだ。一人で出ると言うのをどれだけたしなめたことか……」
「ええ? 様子を見に行こうかって言いだしたのは私だけど、遅い、何かあったのかって先に言い出したのはヴィクトルじゃない」
「それはそれは。ご心配頂きありがとうございます」
「違う! うっかり書庫が壊れていないかという心配だ!」
いいから戻るぞと先導して踵を返した殿下に続き、年若き新たな主と微笑み合う。
「すみません。大判の本はほかの歴史書と違う場所にあると言うのをお伝えし忘れてしまって。探すの大変でしたよね」
「いえ、偶然にも助っ人がおりましてね。立ち話で時間を食ってしまいましたが」
「……ユリウス様ですか?」
「ふ……、書庫と言えば奴になりますか」
「蔵書の場所までしっかりと把握しているのは、この城であの人と私だけですから。それに、確か今日はアルベール様と書架の風通しをしてくださっているはずです。……は、ということはお二人に会えたのかもしれないのか。やっぱり最初から自分でいけばよかったかな」
「ふん。兄上は雷迅卿と会ったところでろくに会話にならんだろうが」
「さ、最近は結構頑張ってるよ!」
「この間の晩餐会では3分だった」
「もう! 何数えてるのさ」
「兄上もジェノと我を揶揄うだろう。仕返しだ」
この兄弟もまた、随分無邪気に戻ったものだ。幼い頃はまだしも、王位の継承が絡みだしてから兄と弟はすっかり関係がこじれていた。それこそ、ただの子供ではいられないのだと言わんばかりに。
「ふ……」
思わず零れ落ちた笑い声は、兄弟の小競り合いに巻き込まれて消えていく。荘厳な城には似つかわしくない騒がしさ。しかしこの賑やかさは、国が和んでいる証でもある。誰の視線も届かぬことをいいことに、ふわふわとした耳が上機嫌に揺れるのを止めることはしなかった。