アシンメトリー・メモリーズ 4アキと秘密の夫婦になって転校してから、もう半年が経った。
アキの働いている高校は私立で、比較的ゆるい校風だ。最初に入学したのは偏差値の低い公立高校であったため、そことは大分雰囲気が異なっていた。そのためか今回、デンジは虐めなどに遭うことなく過ごすことができた。相変わらず浮きはしていたが、前ほどではない。
制服の着用に関しても、規則がゆるかった。だから制服の白シャツに赤いリボン、赤のチェックのスカートを履いた上からは、いつも愛用のパーカーを羽織って過ごしている。最初は何も羽織っていなかったのだが、薄着すぎるとアキに注意されたのだ。彼が選んで手渡してきたカーキのパーカーは、施設にいた頃からよく着ていたもので、パワーとお揃いだった。だから、それを着ていると不思議と落ち着いた。
「おはよ〰︎!デンジ君っ」
後ろから声をかけられ振り返ると、可憐な女の子が手を振って近づいて来た。彼女はレゼ。デンジに奇跡的にできた、女友達である。紫を帯びた黒髪を揺らし、大きな緑の目を細めて笑っている様子が愛らしい。
「あららデンジ君、今日も裸足だ〰︎!寒くないの?もう12月ですよ?」
「これくらい寒くねぇ。靴下履くの面倒くせ〰︎んだよな」
「綺麗な足が丸見えですけど?今日もえっちだね!」
つんつん、とレゼがデンジの腰をつつく。楽しそうだ。
「エロ女!つか、俺の足とか見えてても何ともないだろ〰︎がぁ」
「デンジ君は全然わかってないなぁ」
レゼは呆れ顔で両手を上にあげた。
彼女はいつも明るくて愉快だ。レゼと過ごす高校生活は、とても楽しい。男みたいなデンジのことを"デンジ君"と言って面白がり、いつも構ってくれるようになったのが始まりだ。同じクラスなので、大体一緒にいる。
レゼと楽しく話していたら、クラスの他の女子も声をかけてくれるようになった。デンジが学校に馴染めたのは、彼女の影響も大きいだろう。
「デンジ君、今日も目に優しい格好してるね」
「げぇ、ストーカー野郎」
デンジには友達だけでなく、ストーカーもできた。彼は吉田ヒロフミ。変わり者のデンジを面白がってやたらと付きまとってくる、奇特な男である。さらりと流れる黒髪が黒々とした目に落ちかかり、ミステリアスだ。
女子たちは彼のことを「絶世の美貌」だの「イケメンすぎて直視できない」だのと言っているが、デンジにはよく分からない。デンジにとってこの世の男性は、アキとアキ以外に分かれているので。
ただ、男性全般が苦手なデンジでも吉田は割と平気であった。だから例え勝手に付いてきても、放置しているのだ。平気な理由は多分、彼がデンジを性的な目で見ているわけではなく、純粋な興味で観察しているからなのだろう。
♦︎♢♦︎
「お前、男が苦手だろ?吉田のことは平気なのか」
朝、ベランダで一緒にコーヒーを飲んでいると、アキが少し心配そうな顔でそう言ってきた。学校ではほぼ接触せず、必要があり最低限話したとしても他人行儀であるのに、よく見ているものだ。
「なぁんか、割と平気なんだよなぁ〰︎、だから放置してる」
「……そうか、ならいい」
「あっ、アキほどじゃねえよ?」
コーヒーを傾けたアキの動きが、そのまま固まった。何かおかしなことを言っただろうか。
「……そういえば。俺のことは、どうして平気なんだ?」
「?アキだから」
デンジにとっては当たり前のことを答えたが、アキは眉間に皺を寄せて変な顔をしている。
「アキ、疲れてんのかぁ?」
「そうかもな。きっとそうだ」
アキはぐいっとコーヒーを煽った。ビールを飲む時みたいな飲み方だ。上下する喉仏が綺麗だった。
その時、朝日を受けてキラリとピアスが光った。デンジの目は、あっという間にそこに釘付けになった。
「俺も……ピアス開けてえなぁ」
「……吉田の真似か?」
「ハア?あいつピアス開けてたっけ?」
「開けすぎなほど開いてんだろ」
「知らねぇよ。俺はただ、アキみてえなピアスつけたいな〰︎って。アキ似合ってっからさ」
アキは少し目を見開いたあと、小さく笑った。デンジは彼の静かな笑い方が大好きだ。
「勉強、頑張ったらな」
「うぇ〰︎」
口では文句を言いながらも、デンジはもっと頑張ろうと思った。アキの真似をしてピアスを開けて、まるでお揃いみたいなことがしてみたい。前からずっと、そう思っていた。
会話が止むと、また静かに二人でコーヒーを飲む。朝のこの時間は、もう何よりも大切なものだった。
アキとの生活は順調すぎるほど順調だったが、デンジには困っていることがあった。
際限なく、どんどんアキを好きになることである。まるで坂道を転げ落ちていくみたいに、デンジの恋は深みにはまっていった。
いけないことだと、わかっている。アキはいつだって、あくまで保護者としてデンジに接しており、そこにはうっすらとした壁が張られていた。
デンジのこの気持ちは、アキにとっては間違いなく迷惑なものだ。デンジを守るために書類上だけ夫婦になってもらっているのに、これは恩を仇で返すような裏切りなのだと思う。
きっと、そもそも好きになってはいけない相手だったのだ。
それなのに――。
夜、勉強を教えてくれるアキの声が好きだった。心地よい声で紡がれれば、まるで歌みたいだと思った。
ぶかぶかで大きい、アキの服の匂いが好きだった。勝手に拝借して着て眠れば、嘘みたいに落ち着いた。
アキの書く、几帳面で綺麗な字が好きだった。書き置きをされれば、こっそりと全部取っておいた。
デンジはアキにもらった綺麗なお菓子の缶に、アキからの新しい書き置きを入れてため息をついた。缶に溜まっていく紙片は、まるで積もり積もっていくデンジの恋心みたいだ。
今日は夜更かしして勉強していたのだが、不意にノック音がした。デンジがドアを開けると、そこには夜食が置いてあった。おにぎりと野菜スープに、「頑張れ」と一言書かれたメモが添えられていたのだ。
デンジはドアを閉めてから、メモを胸元に押し当ててぎゅっと抱き締めた。
好き。
アキが好き。
アキだけが好きだ。
まるでブレーキが壊れて馬鹿になっているみたいに、気持ちが止まらない。だからそれを無理矢理封じるように、デンジは缶の蓋をぴったりと閉じた。
♦︎♢♦︎
「早川さん、ずっと可愛いなって思ってたんだ。俺と付き合ってくれない?」
最悪だ、とデンジは思った。
放課後、デンジは課題のわからない部分を図書館で調べていて、すっかり遅くなってしまった。基礎ができていないため、いつもヒィヒィ言いながら課題をこなしているのだ。少しでもアキに褒められたいというその一心で、いつも何とか頑張っていた。
レゼはとっくに帰ってしまったし、今日に限って吉田もいなかった。頼まなくても大体後ろにいるが、奴は気紛れな男なのだ。
薄暗くなった校舎で、早く帰ろうと廊下を急いで歩いていると、全く知らない男子生徒に呼び止められた。そこで、突然告白されたと言うわけである。
軽薄そうな男子生徒は道を塞ぐようにして校舎の壁に手をつき、デンジに向き合っていた。まるで舐めるように、こちらの身体を上から下まで見ている。
デンジは気持ち悪さと怯えが背中に走るのを感じながら、はっきりと言った。
「断る。どいてくれ」
すると、男子生徒の目にはっきりとした怒りが宿った。まずいと直感するも、遅かった。激昂した男子生徒はデンジにズンズン迫り、手首をぐいと掴んできたのだ。そのまま両手で壁に打ち付けられる。
「人が下手に出てれば調子乗りやがって。せっかくお前みたいな男女に優しくしてやったのに……!」
「!」
怖い。
怖い怖い。
思い出す。
生々しくおぞましい、あの感触を。
デンジが震える身体を叱咤して男子生徒のことを蹴り上げようとした、その時。
「お前、一体何をしてる」
落ち着いたテノールが、廊下に響いた。
次いで男子生徒の手が捻り上げられ、デンジは大きな手に引き寄せられた。
この世で一番、落ち着く匂いがする。
――アキが、助けてくれた。
デンジは自分を引き寄せたアキの姿を見て、涙が溢れるのを堪えた。
「は、早川先生……」
「女子生徒に乱暴しようとしていたな。この件はしっかりと報告させてもらう。お前の処分は追って伝えられるだろう。今日は帰れ」
「ひいっ……!」
男子生徒は顔を真っ青にして、その場から駆け出して居なくなった。
二人で廊下に取り残された後、アキがデンジに目線を合わせて静かに言った。
「……怖かったな」
「……っ」
アキ、怖かった。
アキ、ありがとう。
たくさんの気持ちが駆け巡るのに、言葉が上手く出てこない。先ほどの恐怖がまだ残っているのだ。
しかしアキはまるで、全部わかっているから大丈夫だとでも言うように、デンジの頭をさらりと撫でた。
「仕事を早く切り上げて帰宅しても、お前がいなかったから。心配して探してた。今日は車に乗れ」
「……えっ、車?それはまずいんじゃねぇの……?」
「もう人もほとんどいないし。もし見られたら、あの男子生徒から保護して送ったってことにする」
「なるほどなあ」
そういうことなら問題ないかと思い、デンジは大人しく従った。アキの車に乗るのは初めてだ。彼らしいシンプルな黒の車に、整然とした車内。
アキは恐らくデンジを気遣って、車内では何も言わなかった。安心できるアキの空間でほっと息を吐きながら、デンジの心に蔓延っていた恐怖はすっかり消えていった。
家に着くとアキは車のバックドアを開けて、比較的大きな白い箱を取り出した。
「それ何?」
「ケーキ」
「けーき?なんでぇ……?」
「お前、今日誕生日だろ?」
デンジは言葉を失った。
誕生日。誕生日……多分この日だと思われる日を、施設に入所する時に記入した気がする。
「あ……たぶん……?正確には、わかんねぇけど」
「……多分でも良い。今年から、今日がお前の誕生日だ」
アキはもう一度、さらりとデンジの頭を撫でた。デンジはそれだけでもう、景色がぼやけて見えてきた。
誕生日なんて、誰かにちゃんと祝われたことは一度もない。こんなに大きなケーキの箱を見るのも、初めてのことだった。アキが決めてくれたなら、今年から今日が自分の誕生日なのだろう。デンジはこの日を一生忘れないだろうと確信した。
「これを受け取って帰ったら、家の電気が付いてなかったから。心配した」
「あ、ありがとな、アキ……」
「ん」
デンジはやっとアキにお礼を言えて、心からホッとした。さっきからずっと、それだけが気掛かりだったのだ。
家に入るとアキは既に下準備された材料を取り出し、てきぱきと夕食を作ってくれた。いつもはアキの帰りが遅く、夕食は作り置きを一人で食べることも多い。今日はわざわざ早く上がったと言っていたから、誕生日のために随分と準備をしてくれていたようだ。
メニューは、デンジの一番大好きなハンバーグがメイン。それにバターライスとかぼちゃのポタージュ、彩りの豊かなサラダだ。二人でできたての温かい食事を共にした。
その後アキは、先ほどの白い箱から大きなホールケーキを取り出し、ろうそくに火をつけた。そして部屋の電気を消し、少し照れ臭そうに、バースデーソングを歌ってくれた。絵本やテレビで見たことがある光景だ。デンジはこんなことをしてもらうのは初めてだったので、こわごわとろうそくに息を吹いて火を消した。
暗闇に包まれた次の瞬間に、家の電気が付く。アキを見ると、すっと何かを差し出してきた。それは美しい群青の包み紙でラッピングされた、小箱だった。
「誕生日プレゼントだ」
「えっ!!」
まさかそこまでしてもらえるとは思わなかったので、デンジはぎょっとした。
でもアキが黙って差し出し続けているので、受け取らないわけにはいかない。震える手でそれを手に取り、包み紙を開ける。中に入っていたのは、ピアスだった。
アキが付けているピアスに似ている。――いや、ほとんど同じかもしれない。黒い石のついた、シンプルなピアスだ。
「……え"っ、ゔぇっ……ゔえぇ〰︎〰︎っ……!!」
デンジがとうとう声を上げてしゃくり上げ始めたので、今度はアキがぎょっとする番だった。この反応は予想していなかったらしく、珍しく狼狽している。
アキはデンジに一度手を伸ばしそうとし、しかし顔を顰 めてその手を下ろしてから、拳をぎゅっと握り込んだ。
「デンジ、大丈夫か」
「だいじょうぶじゃ、ねえ"よお……っ、ゔえぇ〰︎〰︎っ……」
デンジは下手くそな泣き声を上げながら、両腕でごしごしと目を拭った。唇をぎゅっと噛み締める。
行き過ぎた幸せは、恐ろしく感じるものだ。デンジの幸せのキャパシティは、もう溢れかえって確実にオーバーしていた。
「アギがっ……こんな、ゔれしいこと、すっから……!!おれを、ごんな、よころばせっから……!!」
「そ、そうか……。すまない」
「なんであやまんだよぉ!!」
デンジが理不尽に怒ると、アキはふっと小さく笑った。
「そんなに、嬉しかったのか?」
「嬉しいに、決まってんだろオ……こんなの、初めてだ……それに、アキが。アキがやってくれたから、俺は、こんなに嬉しいんだ…………」
デンジはアキのタンザナイトの青い目を、真っ直ぐに射抜いた。
まるで、睨みつけるように。責任を取れと、言わんばかりに。
「俺、アキが好きだよ」
アキはその宝石のような目を、これでもかと言わんばかりに見開いた。
――言って、しまった。
多分、言ってはいけないことだった。
これは、二人の穏やかな関係を壊す言葉だ。
けれどデンジは、言わずにはいられなかった。
気持ちが膨らみ過ぎて、とうとう溢れ出てしまったから。
「俺は、アキが好き。……アキだけが、大好きなんだ」