アシンメトリー・メモリーズ 5――涙って、いくらでも流れるんだな。
一晩中嗚咽を殺しながら泣いたデンジは、鏡で真っ赤に腫れた目を見ていた。繰り返し噛んだ下唇は、ボロボロになっている。そしてそんなみっともない姿の自分を見ていると、また涙が溢れてくるのだ。きりがない。
デンジの決死の告白に対して、アキは静かに淡々と答えた。まるで、子供に言い聞かせるように。
「デンジ。お前には、きっと他に似合いのやつがいる。お前は今、視野が狭まってるだけだ。広い世界をちゃんと見ろ。好きな相手ができたら、約束通り離縁する」
はっきりとした拒絶。大好きな声で紡がれるそれを聞きながら、デンジは足元がグラグラと崩れていくような感覚を覚えた。世界が壊れていく。手先が冷たくなり、意識が遠ざかって、自分の身体が自分のものじゃなくなるようだった。
それにどう返事をしたのか、どんな顔でケーキを食べたのか、よく覚えていない。
「これは驚きじゃ!親友が16で人妻になったと思ったら、その夫に振られておる!!一体どういうことじゃあ!!」
パワーは今日もオーバーリアクションだ。驚いた声を出しながら、その中には面白がるような響きもあった。
デンジはアキに振られた翌日、学校を休んだ。目も真っ赤に腫れて、身体にまるで力が入らず、登校できなかったのだ。
そこでパワーに『失恋した』とメッセージを送ったところ、彼女が家まで会いに来てくれた。学校はサボったらしいが、パワーはケロッとしている。アキはとっくに出勤しているので、家には二人だけだ。パワーとデンジはベッドサイドに二人で座って、コーヒーを飲みながら話をしていた。
「仕方ねぇんだよ。俺はそうなるってわかってたのに、言っちまった。馬鹿だよな」
「なんでじゃ!伝えなければ何も始まるまい!!」
「そうなのかな。……アキの答えってさ、遠回しに、お前のことはそういう対象として見れないってことだろ?」
デンジはずっと考えていた。
お前には他に似合いの奴がいるとは、つまり自分はアキに相応しくないということではないか。アキは最後まで、保護者としての立場を崩さなかった。だから結局、デンジのことは恋愛の対象としては見られないということなのだろう。
「ウヌのために、身を引こうとしている可能性もあるぞ」
「……それは都合良すぎねえか?……わかんねぇ。俺さぁ、どうしたらいい……?やっぱ、アキのことが好きなんだよ。アキが……全部なんだ。どうしたら……アキに相手にしてもらえる……?」
デンジは項垂れた。迷惑なのはわかっている。拒絶されたのも理解している。
でも、この膨らみすぎた気持ちはもう抑えられない。
――アキに、女として見られたい。
ずっと女としての自分を忌避し、男ぶって生きてきたデンジがこんなことを思うのは、初めてのことだ。
「聞けデンジ!パワー様にすごいアイディアがある!」
「何だよ」
「…………夜這いじゃ!!」
「ハアアアア!?!?」
デンジは耳から首まで一気に真っ赤になった。
「んななな、何言ってんだパワー!いや大体よぉ、お前は知ってんだろ!俺、そういうこと」がこええんだよ!」
「アキ相手でもか?」
「うっ、そ、そんなんわかんね〰︎よ!いざそう言う目で見られたら、アキ相手でも怖いのかもしんね〰︎。もしその、よ、夜這したらよぉ、自分から襲っといて怖くなるって、そりゃね〰︎だろ」
「ワシは大丈夫じゃと思うがのう…とにかくデンジ、ウヌが引く必要はない!その分からず屋を、押して押して推しまくれ!!」
「ええぇ…………」
デンジは弱り切った様子で、コーヒーのお代わりを入れに行った。だからその後にパワーがひとりごちた言葉は、デンジには届かなかった。
「アキ……あの朴念仁め。……全く、今回も難儀な奴らじゃのお」
♦︎♢♦︎
デンジは朝、アキとコーヒーを飲む時間を「眠いから」と言って断るようになった。夜はなるべく顔を合わせないように、先に夕食をとって休んでしまう。そうすればあっという間に、すれ違い生活だ。
アキと会えない生活は、人生にぽっかりと穴が空いたように虚しかった。彼がデンジの世界の中心で、すべてであるので、無理もない。
でも、アキと会ってどんな顔をしてしまうかわからないのだ。デンジは思っていることがすぐに顔に出てしまうし、すぐにはこの想いを封じ切れそうにない。
こういうことが彼に迷惑をかけるとわかっているのに、デンジはすぐにも泣き出してしまいそうな弱い心をどうにもできなかった。
「あっ早川先生!今日もかっこいい〜♡」
「あ〜でも姫先と一緒にいるじゃん。やっぱお似合いだね〜」
「姫野先生もかっこいい♡でもさあ、あの二人って付き合ってる噂あるけど、本当なのかなぁ」
「いや〜、あの距離感は絶対付き合ってるでしょ」
女子生徒たちの声に反応して、デンジは思わずその方向を見てしまった。
中庭にアキの姿が見えた。特徴的な髪型をしているし、背が高いのでわかりやすい。その隣には、姫野先生。二人はほとんど顔を近づけ、お互いのタバコに火をつけるところだった。
――お似合いだな。
自分とは何もかも違うな、とデンジは思った。姫野は美人で、綺麗で女らしくて、年頃もアキと釣り合っている。二人が並んでいる姿は、一対の絵のようだ。
姫野はアキの大学の先輩らしく、とても仲良しというか、距離が異常に近いのだ。デンジはそれを見ると、いつも胸がズキズキと痛むのであった。
一度冗談混じりに付き合っているのかと聞いたことがあるが、「あの人はそういうんじゃねえ」とアキは言っていた。でも、あれは一応妻であるデンジのためについた嘘だったのかもしれない。
デンジはその場から、一目散に逃げ出した。
苦しい。
胸が、馬鹿みたいに痛い。
全身につきんと痺れが走るのがわかった。
唇をぎゅっと噛み締める。
また血の味がした。
「デンジ君探したよ……ってうわあああ!泣いてるーー!!!」
「大丈夫?」
レゼと吉田にハンカチを差し出されて初めて、デンジは自分がぼろぼろと涙を零していることに気がついた。
迷わずレゼに差し出されたハンカチを受け取り、涙を拭かせてもらう。吉田はやれやれと言った顔でハンカチをポケットにしまった。
「ゔ、ゔ、ゔあ……っ!!なんで、おれじゃだめなのかなあ……?おれが、おとこおんなだから?とりがらで、まな板だから?それとも、ガキだから……!?ゔ、ゔ、うえぇええ……っ!!」
デンジは大声を上げて泣き、その場に蹲った。レゼと吉田は顔を見合わせてから、デンジにそっと寄り添った。
「デンジ君、何があったの?私達に教えてよ」
「僕も心配だな」
デンジはしゃくり上げながら、最低限秘密にしていること以外を洗いざらい、話してしまった。
事情があってアキと同居していること。アキだけが好きなこと。アキに振られてしまったこと。多分、恋愛対象として見られていないことを。
「も〰︎!!早川先生見る目なさすぎ!!あっでも先生って立場だから仕方なくじゃない!?デンジ君、そんな悲観することないよ〰︎!」
「相応しい人がいる…………ね。はあ……。あの人、僕をあれだけ威嚇しておいて……」
吉田が何かぶつぶつ言っているが無視して、デンジはレゼに縋りついた。
「レゼ。おれ、変わりてえ……!姫野先生みてえに、もっと女らしくなりてえ……アキに見てもらえんなら、何でもする……!」
「デンジ君は、可愛い女の子だよ」
レゼはデンジの肩を掴んで顔を覗き込み、真っ直ぐな目で言った。その緑の目はまるで、翡翠みたいに神秘的な輝きをしていた。
「デンジ君はそのまんまで、可愛い女の子。口調とか振る舞いは、それがデンジ君らしさなんだから、無理に変える必要ない。顔はノーメイクでもすごく可愛くて、ちゃんと女の子らしい。痩せ気味だけど抜群のスタイルだし、脚が綺麗で胸だってちゃんとある。年齢差は仕方ないけど、これから歳を重ねて絶対もっともっと良い女になるよ。姫野先生になる必要なんてない。デンジ君は、デンジ君のままで良いの」
「レゼ……」
レゼが本気で言っていることが伝わってきたので、デンジは胸を打たれた。
涙が引いていく。嬉しかった。
「ありがとなあ……レゼ」
「ううん、良いの。本当に思ってることだから」
「僕もそう思うな。デンジ君が魅了的だから、僕もこうして付いてきているんだよ」
「吉田……一応、ありがとなあ」
デンジが細目になって答えると、吉田も目を細めてフフっと笑った。彼も彼なりに心配してくれているのだろう。
「でもねデンジ君!」
レゼはデンジの両手を包み込むように持って、目を輝かせて言った。
「デンジ君がデンジ君らしいまま、もっと可愛くなりたいって言うなら、できる手伝いはするよ!例えば少しお化粧したり!可愛い服でお洒落したり!!」
「ええ……俺みたいなのに、そんなの似合っかなぁ」
「もう、相変わらず全然自分の魅力をわかってないんだから!このレゼちゃんに任せなさい!」
「面白そうだね。僕も手伝うよ」
自分の魅力。
そう言われても、デンジは全くピンとこなかった。彼女は自己評価が底辺なのである。昔貧しすぎて汚い格好をしていた頃、男の子たちに「トリガラ女」と言われて石を投げられて以来、自分はトリガラでまな板で、女としての価値がないのだとずっと思い込んできた。
でも、大切な友達のレゼと、ついでに吉田がそう言ってくれるなら、信じてみても良いのかもしれない。
「わかった……!俺、頑張ってみる。もっと良い女になって、アキを見返してやるかあ!!」
「その意気だよ!腕がなるね!」
「ふふ、楽しくなってきたね」
三人は頷き合って、必要な物を買いに町へ繰り出したのであった。