テセウスの船が行き着く先は 3――――ガチャンッ!
その破壊音を皮切りに、幸せな日常は壊れ始めた。
「アキ、なんか割った?大丈夫かよ?」
音を聞いたデンジが台所に駆けつけると、アキは粉々になった皿の破片の前で立ち尽くしていた。呆然と自分の手を見つめているアキを、デンジは不思議に思った。
「アキ?怪我した?」
「……してない」
「アキが皿割るなんて、初めてだな〰︎!疲れてんなら休めよ!」
「ごめんな……」
デンジはさっさと割れた破片を片付け始めた。アキはまだ半ば呆然としながら、それを手伝い始める。よほど疲れているのだろうかと思い、デンジはアキの代わりに掃除機もかけてやった。こういうことは全部、アキに教えられたことだ。
日常の、なんてことない一コマだと――――その時は、そう思っていた。
しかしそれから、小さな異変は続いた。
アキが、箸や皿などの物を時々落とすのだ。
急に、ガクンと座り込むこともあった。
そういうことが続いたので、アキは病院にかかることになった。
何か、とても良くないことが起こっている。デビルハンターのアキは怪我も絶えなかったが、そのどれとも違う不穏なものを、幼いデンジも感じ取っていた。
けれどデンジは気丈に振る舞って、怯える心を何とか隠そうとした。アキを励ましたかったのだ。
「アキ、働きすぎで疲れてんだよ!毎日休みなしで悪魔狩ってんじゃん。あっ、この間の怪我、治りきってないんじゃね?」
「……そうだな」
アキは全てを見透かしたように、優しく微笑んだ。だからデンジは、不安を隠しきれなくなった。クンクン鳴いているポチタをぎゅっと抱き締めて、恐る恐る確認する。
「なあ、アキ……帰って、くるよな?」
「帰ってくるよ。必ず、お前のところに」
アキはいつも通り、デンジの頭をふわりと撫でた。親指で額をすりっと触る、いつものアキの撫で方だった。
♦︎♢♦︎
「デンジ、少し話をしよう」
病院での検査の結果が出た日、デンジはアキに呼ばれた。その手には、ホットミルクが二つ。ミルクにはいつも通りはちみつが入っていて、ほっとする味がした。
そうして人心地ついてから、アキは意を決したように話し始めた。
「あのな。俺は……難しい病気だった」
「え……。アキ、どっか、悪いの……?」
「ALSっていう、病気の症状が出てる」
「えーえる、えす……?」
「身体に、力が入らなくなる病気だ。この病気が進むと、だんだん動けなくなっていく。例えば、歩けなくなったり……喋れなくなったりしていく。それで、最後は……呼吸ができなくなって、死ぬんだ」
「……!?」
デンジの世界は、一瞬で真っ暗闇になった。アキの言葉を受け止めきれない。間違いなく、今まで生きてきて一番深いショックを受けていた。実の父親が死んだ時なんかの、比ではない。
「な……なあ、アキ、嘘、だよな……」
「……」
デンジは震えてひくつく口で、何とか言葉を紡いだ。
だってそんなの、信じられない。
だってそんなの、信じたくない。
「嘘だ!嘘に決まってる……!!なあそうだろ!?アキ……!!」
デンジはアキの胸元に縋り付いて、とうとう大粒の涙を零した。けれどアキは沈痛な面持ちで押し黙ったままで、嘘だと言うデンジの言葉を肯定してくれなかった。まっすぐに朝焼けの瞳を見つめ、ただ静かに残酷な事実を告げていく。
「本当のことだ。デンジ、ごめん…………ずっと、黙っていたことがある。俺は悪魔と契約して、寿命を削っているんだ。むしろ、今まで生きられていることの方が不思議な状態だ。だから、俺の死が近づいているのは……確実なことなんだ」
「死……!?ア、ア……アキが?アキが、死ぬって言うのかよ!!」
「病の進行が早くて、余命は1年程度だと医師に宣告された。お前を幸せにしたかったのに、結果的にこんなに傷つけることになって……本当にすまない」
震える手をアキから離して、デンジは呆然と立ち尽くした。
目からは滂沱の涙が流れ落ちていく。
何も、わからない。
アキが、いなくなるなんて。
そんなの、わからない……。
「お金は沢山貯めたんだ。お前が働けるようになるまで不自由しないよう、蓄えがあるから。だから安心して…」
「そんなのいらねえよ!!いらねえ!!」
デンジは噛み付くように叫んだ。アキに八つ当たりするのは正しくないと、頭ではわかっている。でも傷付きすぎた幼い心は止まらず、まるで血を滲ませるような声で叫び続けた。
「アキ……!お、おれを捨てないで!!置いてかないでくれよ……!!俺もっと、良い子にする!!お金なんていらねえ!ご飯もなんもいらねえ……!!アキだけいればいいんだ!!」
「デンジ……ごめんな」
「……!!アキ、おれ……おれ!!どうしたらいいか、わかんねえ……!!」
デンジは耐えきれず、激しく嗚咽して泣きじゃくりながら家を飛び出した。
そのままがむしゃらに走る。
ポチタを抱き締めたまま、デンジは走り続けた。
だけど、一体どこへ行けば良いのか、まるでわからない。
だってデンジの居場所は、アキのところしかないのだ。
――じゃあ、アキが、いなくなったら?
デンジはそう考えて、足元がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。
――そうなったら俺は……どこで生きればいいんだ?
走り続けるうち、小雨が降ってきた。どんよりした空が、デンジの恐れと不安をいっそう増長させていく。
公園の大きな木の下で、小さなデンジはうずくまった。
「ひっぐ。うゔ。うゔ〜〜っ……!!」
息がうまくできないほどの嗚咽が溢れる。デンジは、まるで叫ぶように泣いた。今まで辛いことが沢山あったはずなのに、こんなに泣くのは生まれて初めてだった。
「クゥン」
ポチタは慌てて、デンジの涙をペロペロと舐め続ける。だけど涙は次から次へと溢れるので、全然間に合わない。
「ポチタ……っ!ひっく、ど、どーしてっ……!?ひっ、ぅ、おれがっ、アキに、慣れてっ、甘せた、せい……?バチがっ、ひぅ、当たったの……?わがんね……っ!!ゔゔ〜〜っ……」
泣いても泣いても、心の底から嗚咽が上がってくる。デンジが激しく泣きじゃくるうちに、雨もどんどんその勢いを増して行った。木なんかじゃ防ぎきれなくなって、葉と葉の間をすり抜けた大粒の水滴が、ぼたぼたとデンジの身体を打った。
「デンジ!!」
どのくらいの時間が経ったのだろう。
デンジがその声にびくりと震えた時には、身体はもうびしょ濡れで、すっかり冷たくなっていた。
「悪い、探すのに、はぁっ、時間、かかって……!!そのままじゃ、風邪、引くぞ……っ!!」
走ってきたらしいアキは傘を差していたけれど、やっぱりびしょ濡れになっていた。それに、息がとても上がっていた。デンジにゆっくり近づきながら、両手を広げる。
「おいで……」
そう言ったアキが今にも泣き出しそうな顔だったから、デンジは逡巡した後に、その腕に飛び込んだ。――いや、もしかしたら彼は、もう泣いていたのかもしれない。雨のせいで、どちらなのかデンジにはわからなかった。
「ごめん……っ!ごめん、アキ…………!ひっぐ、おれ、わかんなぐ、なっ……ぅゔ〜〜っ!!」
アキは強くデンジを抱き締め、その大きな手で彼の頭を撫でた。その手も冷え切っていて、デンジは余計に激しく嗚咽してしまう。もう言葉が、うまく出てこない。
「こんなに泣かせて、ごめんな。時間はまだあるから、ゆっくりでいい。今日はもう、帰って寝よう」
こくりと小さく頷いたデンジを、アキは抱いて連れ帰った。ポチタはとても辛そうな顔で、腕の中からデンジを見上げていた。濡れた身体をタオルで拭いてから急いで風呂に入れる間も、アキはほとんど言葉を発しなかった。デンジは時々発作のように泣きじゃくってしまったが、アキは下手な慰めの言葉なんかかけずに、静かにその涙を拭っていた。
そうして温かな布団に入って抱き締められた頃には、デンジはすっかり泣き疲れてしまっていた。すんすんと鼻を啜りながら、アキの胸に顔を押し付ける。
「デンジ」
アキが呼びかけたので、のろのろと顔を上げて目を合わせた。暗闇の中でも、その瞳は海みたいに綺麗な光を湛えている。
「お前に黙っていたことが、まだあるんだ。聞いてくれるか?」
「……うん」
デンジは朝焼けの瞳を潤ませながら、必死にアキの目を見つめた。聞くのがどんなに怖くても、アキの伝えたいことをなかったことになんてしたくない。
「あのな。例え、俺が死んでも……俺たちは、また出会える」
「しんでも、であえる……?」
「俺はな……本当は、未来から来たんだ。未来で一度死んで、気づいたらこの時代にいた。だからこそ、自分の死期を見定められなかった。ええと……最初に言った、お前の親戚だっていうのは、お前を保護するための嘘で……未来で、俺たちは一緒に暮らしていた。嘘みたいな話だけど、本当のことなんだ。信じてくれるか?」
「うん」
デンジはこくりと頷いた。腕の中のポチタも、一緒に頷いた。
だって、ふたりは知っている。アキは、意味のない嘘を吐いたりする人間じゃない。
「お前が俺と出会うのは、お前が十六歳になった時。その時出会う俺は、きっとお前のことを知らないし、最初はお前に……とても、ひどい態度を取るはずだ。だけどな、俺たちはちゃんと分かり合える」
「……うん」
「だから、例え今の俺が死んでも……本当のお別れじゃないんだよ」
デンジの両目からは、またポロポロと涙が零れた。
デンジのことを、知らないアキ。
デンジに、ひどい態度を取るアキ。
そのアキを、果たしてデンジは『アキ』だと思えるのだろうか……?
考えても、わからない。
ただ、ただ、寂しい。
アキが死んだ後のことを、想像するだけで辛かった。
「余計に混乱させることを言って、すまない……。この話は、これから少しずつしよう。今日はもう、寝た方が良い。おやすみ……」
アキはデンジの涙を指で拭ってから、ポチタごとしっかりと抱き締め直した。
大きくて温かい身体。
世界一安心する場所。
一番失いたくない場所。
デンジはただ、その温もりを享受しながら、まるで気を失うように眠ってしまったのだった。