テセウスの船が行き着く先は 4あれから何度眠っても、幸せなばかりの夢は覚めたままだった。
当たり前じゃなくなると、幸せは重たくなった。
抱き締められるたびに思う。……一体、いつまで?
頭を撫でられるたびに思う。……あと、何回?
実感もわかない。想像もできない。けれど幸せの裏に、漠然とした不安がこびりつくようになった。
「なあポチタ……世の中、不公平だな。どうして俺ばっかり、こんな目にあうんだ?」
「アキはあんなに優しくてすごい奴なのに、どうして病気になるんだよ……おかしいよな……」
「また、ダメだった。アキの前で泣きたくないのに、どうして俺は上手くできないんだろ…………」
デンジは毎日、やり場のない気持ちをポチタに聞いてもらうようになった。
「ワンワン!」
「ポチタ……ポチタに聞いてもらって、いつもごめんな」
あれからアキとは、『未来』の話をできていない。
アキは、極力それまで通りに振る舞うことにしたようだった。
デンジが少しのきっかけでパニックを起こし、泣き喚いてしまうせいだ。
「デンジ、今日はハンバーグだ」
「やったぁ!!」
一見、今まで通りの日常。
けれどよく見れば、アキは箸を使うのを止め、スプーンでご飯を食べるようになっていた。
見ないふりをして表面上を取り繕っても、時間は止まってくれない。
現実は、いつも残酷だ。
医師の診断通り、アキの症状の進行は速かった。
物を落とすことが、どんどん増えていった。何かが落ちる音を、デンジは過剰に恐がるようになった。
やがて重いものが持てなくなっていき、アキは戦うことを止めてしまった。
それから、大好きなアキの声にまで影響が出てきた。時々、アキの呂律が回らないときが生じ始めたのだ。
そこまできてやっと、デンジはアキの死期に向き合い始めた。
このままだと大切なことを聞けないまま、アキが言葉を話せなくなってしまうと理解したからだ。
アキの身体に異変が出始めてから、もう三ヶ月が経とうとしていた。
「……アキ。俺さぁ、ずっと、ごめん……」
その日、大きな腕に抱きしめられながら、デンジは布団の中でアキを真っ直ぐに見た。その途端、綺麗な青い瞳は痛ましげに細められる。海の水面がゆらゆらと揺れていた。
「謝るのは、俺の方だろ……。俺が家に迎えたことで、お前にこんな……辛い思いをさせてるんだ」
「んなことねぇよ!俺、アキに会ったことを後悔なんてしねえ。……絶対、しねえ」
「……デンジ」
それは間違いなく、デンジの本心だった。今がどんなに辛くても、アキに出会う前に戻りたいとは思わない。
「アキ、たくさん話せるうちに、教えてくれよ。未来のこと。ちゃんと俺とアキが、また会えるようにさ」
「……わかった。そうしような」
「俺さぁ!もっともっと、もーっと!良い子にするぜ!頑張るよ!!そしたら……そしたらさぁ、アキがちょっとでも、長生きできるかもしんねぇだろ……だから、もー決めたんだ!」
気丈に振る舞うデンジを見て、アキはとても眩しそうな顔をした。それから――まるで神様に祈るみたいに、デンジの両手を包み込んで、目を閉じて言った。
「デンジ、ありがとな。でも、頑張りすぎなくていい。甘えられるうちに、たくさん俺に甘えてくれ」
こういうアキの言葉を、もう一つも聞き漏らしたくないとデンジは思った。
そのためには、辛いことに向き合わなければならない。
そうして二人は、これからのことを話し合って決めた。
アキは、可能な限り最期まで家で過ごすこと。
人口呼吸器を使った延命は、しないこと。
夜間以外は、交代でヘルパーを雇うこと。
そういった、細々としたことを決めていった。
「入院治療しても、多分意味がない……俺の寿命には、限りがあるんだ。それなら、お前と過ごせる時間を少しでも増やそうと思う」
「……わかった」
「でも、病気が進んでいく俺のそばにいるのが怖いなら、止める。デンジは……平気か?」
「そんなん!アキと一緒にいる方が、絶対いい!!」
「そうか。まあ金はいっぱいあるから、心配するな」
口を開けて子どもみたいに笑うアキを見て、デンジはふと気がついた。
――アキは俺の知らない間に、どんだけ無茶して金を稼いだんだろ……。
デンジは気がついてしまった。
アキはもしかしたら、予め準備していたのかもしれないと。自分が早く死ぬ可能性を考えて、デンジのために無理をしていたのかもしれないと……。
その愛の大きさを思い知って、小さなデンジはただ、泣くのを必死に堪えることしかできなかった。
♦︎♢♦︎
それから毎日聞いた未来の話は、とても楽しかった。
デンジとパワーが暴走してアキをげっそりとさせる様子は愉快で笑ったし、パワーという面白い女の子に早く会いたいとデンジは思った。そして、未来のデンジとアキは最初こそ仲が悪かったけれど、結局はとても仲良しだったのだと思う。
だって未来のデンジの話をするアキは、見たことがない種類の優しい顔をしていたから。今の幼い自分に向けるのとはまた別の情があることを、デンジはその表情から悟っていた。
大切な話もまた、たくさん聞いた。
未来でやって来る最悪の結末を回避するために、デンジは考えて行動しなければならない。
辛い話がとても多かったが、デンジは一生懸命それを覚えた。マキマを警戒して、未来の情報を書き留めておくことも控えねばならなかったのだ。
一方で、アキの症状は目に見えて進行していった。
運動機能が格段に落ちていく。
早く歩くのが、難しくなった。そのうち立ち上がるのにも、介助が必要になっていった。幸いマンションの部屋は一階だったが、杖歩行や車椅子でも生活できるように、部屋を直さねばならなかった。
舌を動かしにくいから、アキはゆっくりとしか話せなくなってきた。食事は柔らかいものを、少しずつ食べるようになっていった。
デンジはがむしゃらに頑張った。それまでの何倍も勉強をしたし、自分でできる家事は全部こなそうとした。ヘルパーに頼り切らずに、アキの手を取って歩いたり、食事を助けてやったりした。
けれどその頑張りとは裏腹に、アキの病はどんどん進行していく。
だから――デンジは、実感した。
もう何をしても、アキの死は避けられないことなのだと。それは音を立てて、すぐそこまで近づいてきていたからだ。
そうすると改めて、幼い心は深い絶望と悲しみに襲われた。アキの前ではつとめて泣かないようにしたけれど、デンジは時々衝動的に外に飛び出して、ポチタを抱き締めながら啜り泣いた。デンジは次第に、笑うことが少なくなっていった。
♦︎♢♦︎
「デンジ……おいで」
アキが腕を広げる。デンジはすぐに抱きついた。でも今は、アキがバランスを崩さないように、そっと抱きつくようにしている。
もう以前とは、何もかもが違うように感じられた。
「今日は、俺が読むよ」
「アキ、辛くねえ……?」
「ゆっくりなら、大丈夫だ」
最近はデンジがアキに本を読んであげるようになっていたけれど、その日は違った。
デンジはアキの膝の上に乗り、すっぽりと包まれて絵本を読んでもらった。
――病気になってたって、やっぱりアキは大きいんだな。
デンジは、久しぶりにそのことを思い出した。
ここが世界一安心する場所なのも、変わらない。アキのそばが一番幸せであるのも、変わっていなかった。
心地よい低い声が、詰まらないようにゆっくりと物語を読み上げていく。
アキがその日読んでくれたのは、童話の絵本だった。
運命の恋に落ちる王子様と、虐げられてきたシンデレラ。彼女の魔法は解けてしまうけれど、ガラスの靴を頼りに、無事に発見される。最後は二人が幸せなキスをするシーンで、物語は終わっていた。
デンジは、この王子様はまるでアキみたいだな、と思った。底から自分をすくい上げて、いとも容易く幸福にしてしまったアキ。
もうすぐ自分の魔法は解けるけれど、二人は未来でまた出会える。そんなところも似ているなと思った。
だから、最後のキスシーンを見つめながら、デンジはぽつりと言った。
「俺……キスすんならアキがいー」
「は……?」
言葉にしてみたら、余計にしっくりきた。だから驚愕に染まるアキに構わず、デンジは久しぶりに嬉しそうな声を出して続けた。
「俺はアキがいいんだ。いまわかった。俺……アキが大好き!」
デンジは子どもらしく、くしゃりと解けるような微笑みを浮かべた。久しぶりの笑顔だった。朝焼けの瞳はきらきら輝いている。
アキは口元を覆って驚愕していたが、やがて観念したとでもいう風に、大きく息を吐き出してから言った。
「……俺も、お前が好きだよ。デンジ」
デンジは喜びのあまりアキの膝の上で飛び跳ねて、くるりと身体の向きを変えた。向かい合う形になり、アキの綺麗な青い目を覗き込む。
「ほんと!?ほんとか?アキ!!じゃあさぁ……キスしてくれよ!!」
だが、アキは慈愛に満ちた顔でデンジの口元に人差し指を当ててこう言った。
「それは、まだ駄目だ。デンジ」
「えっ…………どうしてだよ…………」
「未来の俺と出会って、デンジがまた俺のことを好きになったら……その時は、キスしよう」
デンジは一瞬で、ぐっと喉を詰まらせた。泣き出す寸前の衝動に襲われる。
だって。
だって、その『アキ』は……今のアキでは、ないじゃないか。
「な、なんで…?だって、俺が大きくなって会うアキはさぁ……今のアキと、違うじゃん。そのアキは……俺のこと、好きじゃねえじゃん……」
「デンジ、大丈夫だ」
アキははっきりと断言した。確信に満ちた声で、ゆっくりと告げていく。
「どんな形で出会っても、俺はお前を好きになるし、お前も……きっと、俺を好きになる。俺は、そういう"運命"なんだと思ってる」
「……"運命"?」
「そうだ」
「王子様が、シンデレラを見つけてくれたみたいに……未来のアキも、俺のことを見つけてくれるってこと……?」
「うん。よくわかってるな」
アキが柔らかく笑う。デンジはその胸に、小さな手を当てた。
"運命"という言葉は、デンジの心にとても強く残った。
未来で出会うアキを好きになって、そのアキにも自分を好きになってもらいたいなと、その時初めて希望を抱けたのだ。
それはデンジが長らく感じられずにいた、未来に対する希望だった。
「デンジ。信じてくれ。俺はずっと、ずっと――――お前のことが、大好きだよ」
「……わかった。信じる」
デンジはもう一度、にっこりと笑った。
「だって、アキの言葉だもんな。だから、俺も信じる。その……"運命"ってやつを」
その日を境にして。
デンジにようやく、笑顔が戻ったのだった。