テセウスの船の行き着く先は 5デンジはアキの変化を、静かに受け入れるようになった。
隠れて泣かなくなったし、時折笑うようにもなった。
デンジは幼いなりに精一杯、アキといられる時間を大切にしようとした。
あれからアキは杖を付くようになり、そのうちとうとう歩けなくなった。
だからデンジは、ポチタをアキの膝に乗せ、車椅子を押して散歩をした。季節は巡り、もう桜が咲いている。散歩にはちょうど良い。
貧しい時は桜なんて見もしなかったけれど、アキと一緒に見て初めて、それがとても綺麗なものなんだと気づけた。今のアキと見る桜は二度目だけれど、きっとこれで最後になる。
そよ風が吹き、花びらが舞い散る中でアキが小さく笑っているのをデンジは見ていた。これからは桜が咲くたびにこの光景を思い出すんだろうな、と想像しながら。
長い時間話すのは難しくなったので、二人は文字盤を使って会話をするようになった。ひらがなの書かれた板を指差して、会話するのである。
アキの言いたいことを予測してデンジが文字を書き、どれが近いか選んでもらうこともあった。読み書きを覚えておいて本当に良かったと、デンジは心から思った。
けれどアキは声の出る限り、デンジの名前だけは毎日呼び続けようとした。それから、「おいで」と必ず言うのだ。
例えそれが難しくなっても、腕を小さく広げて笑いかけてくれた。
アキという人間は、自分の死に対する恐怖なんかそっちのけで、いつもデンジを幸せにすることばかり考えていたのだ。彼のそういうところが、やっぱり大きいなと何度も実感した。
未来のアキとデンジは、「こいびと」ってヤツだったらしい。ある日アキはこっそりと、教えてくれた。
「俺も未来のアキと会ったら、こいびとになりたいな……」
デンジが言うと、アキは微笑んで頭をゆっくり撫でた。親指をかすかに動かす。前よりもずっと、その力は弱い。
けれど"運命"を信じているから、デンジは希望を抱くことができた。
『なれるよ』
アキは文字盤をゆっくり指差した。
デンジははにかんで笑う。
信じている。だってそれは、他ならぬアキの言葉だから。
夜はデンジがアキの横に潜り込み、自ら身体を擦り寄せて眠るようになった。アキは力を振り絞って、デンジに腕を乗せる。それだけでも、心はすっかり満たされた。
やがて頭を撫でるのも難しくなったので、デンジはアキの腕を持ち上げ、自ら頭を擦り寄せるようになった。そうすると、アキはとびきり優しい微笑みを見せるのだった。
終わりのときが――音をたてて、近づいて来る。
魔法が解けるときは、もう近い。
ある晩、アキは文字盤を至極ゆっくりと指差して見せた。まるで、最後の力を振り絞るように。
『でんじ だいすきだよ』
デンジは堪らなくなって、アキの頬に自分の頬を擦り付けた。
その翌日からアキは、腕を動かせなくなった。
その次は、指。
その次は、口。
その次は……。
日に日に、動かせない部分が増えていく。
そうして最後には、その世界一綺麗な目だけが残った。
瞬きと僅かな目の動きだけでも、デンジは不思議とアキの気持ちがわかった。
その目がいつも、語りかけてきていた。
愛してると、語りかけてきていた。
だから、デンジはさいごのそのときまで、決して泣かなかった。
さいごには。
ゆっくり、ゆっくりと、目が閉じられていった。
綺麗な青い海が、瞼の地平線の向こうに、消えていく。
デンジはその様子を、朝焼けの瞳に焼き付けるように、間近で見つめていた。
アキのいのちが、消えてゆく瞬間を見つめていた。
♦︎♢♦︎
アキが予め手配していた大人たちによって、彼の死は滞りなく確認され、葬儀までもがつつがなく終わった。
デンジは現実感がなく、終始ぼうっとしていた。軽くなりすぎたアキの遺骨を胸に抱いた時も、あまり驚きはなかった。それがアキだなんて、うまく実感できなかったのだ。
デンジは、ポチタが涙を零しながら足元にくっついてくるのを、ただ見ていた。「なんで、俺は泣いてねえんだろう」と、ぼんやり思っていた。
けれど、アキが亡くなって一週間経った時。
それは突然決壊した。
――布団、つめたいな……。
ぼろり。
デンジの朝焼けの瞳は唐突に、大きな涙を溢した。
それは、彼がとても久しぶりに流す涙だった。
――包まれてないと、くるしいな……。
ぼろり。
ぼろり。
一度溢れた水は、もう戻らない。
まるで壊れた蛇口みたいに、デンジの目からは次々と涙が零れ落ちた。
「ゔ、ゔ……!!……うゔ!!……ゔあぁあ〜〜っ………」
慟哭がこだまする。けれどその涙を指で拭ってくれる存在は、もういないのだ。
叫びながらしゃくり上げ続け、泣き疲れては気を失うように眠って、起きてはまた泣いた。
それでも――デンジは、生きていた。
例えアキがいなくなっても、デンジは変わらず――生きていたのだった。