屈辱だなんて思わないけど、それでもプライドが許さない「……っぇぇ……っ……ごほっ……っ」
ぼたぼたと目の前に見るにも耐えない嘔吐物が落ちていく。
わりかし清潔感を保っている白くツルツルとした便器に容赦なく叩きつけられていく。
あぁ……汚い。
身体から排出されたものにキレイも汚いもないし、寧ろ一般的にはキレイとは言えないものであろう。要は身体に不要だと判断されたものだからね。
それでも汚いと感じずにはいられない。
たとえ何度見ようとも、何度同じことを体験しようとも、この嫌悪感だけは拭えない。
「はぁ……」
衝動が、吐いてしまいそうな衝動が収まると壁にもたれかかった。
吐いてしまいそうな、なんておかしな表現だ。実際吐いたのだから。
どっと疲労感が襲ってきて思わず蹲りそうになる。
だけどもそんなことをしている場合ではない。
明日もあるのだ。別段休暇というわけでもないありふれた日常が明日も続いていくのだ。少しでもいいから睡眠を取っておきたいと思うのは自然なことだろう。
シューっと備え付けの消臭剤を撒いて丁寧に痕跡を消していく。この動作までがワンセットだ。
トイレの個室から出ると、人影が見えた。
僕はなんとなく身構える。
「誰かいるのかい?」
そして、先手を打つ。虚勢。目の前にいるのは弱り切った皇帝ではないのだという主張。
これが動物ならば真っ先に狩られるべき獲物だ。カモがネギしょってきたと言い換えてもいい。
だから牽制する。
寮生活なのだから誰が通りかかるかわかったものではないのは重々承知しているが、やはりいざ会うと反射的に身構えてしまう。
「天祥院……」
遠慮がちに声をかけてきたのは千秋だった。
僕はほっと胸をなでおろす。
別に千秋だからなんだって話だけど、少なくとも安全地帯の人間でよかったと安堵する。
それに耐性がある。
体調が悪い人間に免疫がある。
これがかわいい桃李だったら無駄に心を痛めさせてしまうけれど、千秋なら大丈夫だ。
何度も見せたから……なんてそれは遠い昔の話ではあって最近の話ではないけれど。
「なんだ千秋か」
「吐いたのか?」
「……どうってことないよ。ところでなんでこんな時間に起きてるんだい? 良い子はもう寝る時間だろう?」
「良い子って。俺たちは同い年だろう。子供扱いするのはどうかと思うぞ」
「子供みたいなもんだろう千秋は。……っ……うっ……!」
「天祥院!」
せりあがってくるものに耐えきれず、咄嗟に手で口を覆う。もう全部……それこそ胃の中が空っぽになるまで戻したはずなんだけどな。
馬鹿みたいに明るい声が僕の耳を突き刺していく。
健全で、健康的な色をしている。
真っ赤なヒーローの色が、僕の顔色の青さを引き立てていくようで考えるだけで嫌になる。
あぁ……君の所の『あお』はこんな色はしていないな。
海のように、彼は大きく包み込む海のように強いから。比べるのも失礼だ。
「天祥院」
千秋は個室のドアを開けて、僕を手招いた。ここへ来いと誘導している。
さっきまで僕が居たところだ。人工的なラベンダーの匂いが色濃く残っている。消臭剤特有の、やたらとフローラルな匂いだ。
「げほげぼッ……っ……ごぼっ……」
その残り香を嫌だと思う前に僕は耐えきれずに落ちていく。
便器のふちをみっともなく掴んで、生理的反応に随順する。
「……はぁーっ……はぁー……っ……うっ……ぉえ……っ」
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
こんな姿を、明らかに弱った姿を千秋に見られていることに次第に意識が耐えきれなくなってくる。
この際誰であろうが関係がない。
見られているという意識が、僕に狂いそうになるほどの屈辱感を与える。
「ちあき……もう、いいから」
「そんなわけにもいかないだろう。無理せず全部吐いちゃった方がいいぞ」
「なんで……通じないかな……」
もういいって言うのは、帰ってほしいってことなんだけど。
これ以上、君がいるのは、君に見られているのはごめんだということなんだけど。
僕は千秋を視界に収め様子を見ようと振り返った。
その瞬間目の前がぐにゃぐにゃと歪んだ。マーブル模様になって輪郭が崩れる。
「あ……れ……?」
重力が狂っているかのように上と下すら、うまく認識できなくなる。
視界がぐるぐると回る。ぐにゃりと歪んで滲んでいく。
これはまずいかもしれない。
「ちあき……悪いけど……。僕のスマートフォンから主治医を呼んでくれないか……」
ポケットに入れていたスマートフォンをなけなしの力で操作し、パスコードを解除する。
画面は視界が歪んでいるためあまりよく見ることはできなかったが、指を記憶に沿って動かす。
「ああ、わかった。すぐ呼ぶからな。だから安心してほしい」
別に千秋がいるかいないかなんて関係ないし、なんなら僕ひとりで対処できる。
だけど、僕は千秋にスマートフォンを手渡すとそのまま意識を手放した。
君がいてよかったなんて言わないけど、目が覚めたらありがとうと言いたいな。
きっと素直には言えないかもしれないだろうけど、つい君の優しさに甘えてしまった。悔しいけどそれはとてもありがたいことだから。