「ふーふーちゃんのばか」
足を抱えて小さく丸まった浮奇の声は、深く潜り込んだベッドの中でくぐもって響いた。ファルガーがドッゴの夜の散歩から帰ってきた直後という、浮奇にとっては有り得ないほど早い時間にベッドへ入っているのは低気圧に負けて痛みを訴える頭のせいだった。
外の雨が強くなるにつれて突き刺すような痛みが徐々に強くなってきたこめかみをさすりながら眉根を寄せていた浮奇は、見兼ねたファルガーに鎮痛薬を飲むよう促された。当然の対応だとは分かっていたが昼前から痛んでいた頭は疲れ切って正常な思考を保てず、浮奇は鎮痛薬を差し出すファルガーの手を拒否した。ふーふーちゃんが抱きしめてくれれば治るだとか、脳みそを取り出して壁に投げたいだとか、キスして甘やかしてよだとか。とにかく悪態をついた覚えはあるが何を口走ったのか記憶にない。ただ、話を受け流しつつ浮奇の手を引いてキッチンへと向かったファルガーが唐突に顎を掴んできて、優しく重なる唇に安心したのと同時にぬるい水と薬が口内へ流れ込んできたことで浮奇はようやく正気を取り戻した。
「強めの薬だからきっと眠くなる」と優しく頭を撫でるファルガーに絆されて、寂しくないようにと連れ込まれた羊のぬいぐるみと一緒に幼な子よろしく寝かしつけられた浮奇は、けれど今すぐには治る気配のない頭痛ばかりに意識が向いて何度も寝返りを打っていた。意識しているせいなのかファルガーの言っていた眠気は一向に訪れず、時計の長い針が一周と半分を過ぎたところで浮奇は羊のぬいぐるみを掴んでベッドを抜け出した。
なるべく音を立てないようにファルガーの部屋のドアを開ける。残っている作業があるからと一緒に寝てくれなかったファルガーは、ディスコードにいたメンバーと通話しながらパソコンへ向かっていた。静かに近づいて丸い後頭部へ羊のぬいぐるみをぽすりとぶつけると、ファルガーが驚いた表情で振り返る。
「どうした、眠れなかったか?」
ヘッドフォンをそのままにマイクもミュートせずに声を発したことから察してはいたが、画面へちらりと目をやると通話の相手は慣れ親しんだいつものメンバーで、浮奇は羊を掴んでいない方の手へそっと触れてくるファルガーへ視線を戻しながら素直に頷いた。
「作業してていいから膝貸して」
「俺の膝じゃ硬いんじゃないか?」
ファルガーが作業している椅子の足元へと座り込みこてりと膝へ頭を預けると、少し焦ったような声が上から降ってくる。確かにサイボーグパーツの部分であるそこは硬くて布越しでも無機質な温度を伝えてくる。それでも浮奇にとっては一人で寝るベッドより遥かにマシだった。
「こら、浮奇、」
悪戯する猫にでも話しかけるような声を掛けられるのをよそに目を閉じれば、少しでも硬さをカバーしようとファルガーが布を探して動いたせいで浮奇の額が金属の脚にぶつかる。小さくうめけば気付いたファルガーが柔らかく頭を撫でた。
「あぁ、ほら。ここじゃ寝にくいだろう?」
『ファルガー?大丈夫?』
そんなに喋ったらみんなに気付かれるんじゃないの、と口にしようとした言葉は音にならなかった。妙な独り言を話していると思われたのか、さすがに気付かれたらしくファルガーのヘッドフォンからシュウの声が聞こえてくる。
「あぁ、浮奇が…話の途中で悪いが少し席を外すぞ」
『ミュートしてね、清楚代表のシュウがいるんだから』
『それってどうゆう意味?』
「おいミリー、違う。浮奇を寝かしつけてくるだけだ」
『だったら通話を切った方がいいよ。一緒に寝ちゃうかもしれないでしょ?』
『シュウがそんなこと言うの!?』
シュウの言葉は確実にミリーが思う意味ではないだろうに、絶妙にすれ違うやりとりに思わず吹き出す。僅かに肩を揺らしていると、ファルガーの手が宥めるようにまた頭を撫でてきた。
「とにかく、俺は抜けるぞ。またな」
『じゃあね』
『おやすみ。ふーちゃん、浮奇』
挨拶を交わしてから通話を切ってヘッドフォンを外したファルガーの腕が優しく浮奇の背中を叩く。見上げた灰色の瞳はどこまでも優しくて、浮奇は伸ばされた手を遠慮なく掴んで立ち上がりながらごめん、と小さく溢した。
「何も謝ることはないだろう」
「だってみんなと話してた」
「ただの雑談だ、いつでもできる」
「でも仕事が残ってた」
「急ぎじゃないから問題ない」
寝付けずに困っていたのは確かだが作業や他のメンバーとの会話を中断させてまでこちらを優先して欲しかったつもりはなくて、浮奇は罪悪感から視線を彷徨わせる。
自分の我儘が通るのはいつだってファルガーが譲って浮奇を優先してくれているからだと分かっているだけに、その優しさに救われると同時に余りにも身勝手な自分自身を強く自覚してしまう。けれど、甘やかし上手なファルガーを前にすればいい子ぶっていることすら直ぐに見破られるから、強がるのも無駄な抵抗でしかない。
「俺が甘やかしたかったんだよ」
「…でも、」
「ほら、おいで」
「わっ、ちょっと!」
繋がれた手がゆるく解かれたかと思えばふわりと体が宙に浮いて、ぐっと近づく距離に正面から抱き上げられていることに気付いた浮奇は、咄嗟に目の前の首へとしがみついた。満足そうに口の端を持ち上げたファルガーの端正な顔が近づいて、こつりと額同士を合わせられる。
「いいか、浮奇。ちゃんと聞け」
「…なぁに」
「俺にはお前より優先するものなんて無いんだよ」
真っ直ぐに届く言葉にどきりと心臓が跳ねて、早まる鼓動がファルガーにも聞こえてしまいそうだった。
「…ばか、」
赤くなった顔を羊のぬいぐるみで隠して、照れ隠しに吐いた悪態を笑われる。何も言えなくなった浮奇を器用に抱えたまま、ファルガーは先ほど浮奇が抜け出したばかりの寝室へと向かう。優しくベッドへ降ろされた浮奇は、隣へ潜り込むファルガーへ場所を空けるように身体をずらした。
「ずっと眠れなかったのか?」
「…うん、痛みが気になって」
「様子を見に来ればよかったな」
「俺が気にしすぎただけ。大丈夫」
心配そうな顔をしたファルガーの寄せた眉根をほぐすように、指先でそっと触れて優しく押す。他人の痛みを自分のことのように感じてくれるから心配はかけたくないが、ファルガーに甘やかされて寄り掛からずにいられる人がいるとは思えなかった。
「まだ痛む?」
「少し。でもだいぶマシになった」
「それなら良かった」
労わるように優しく髪を梳かれて、心地良さに自然と肩の力が抜けていく。無意識に隣の体温へ擦り寄れば当然のように胸元へと抱き寄せられて、規則的な鼓動が浮奇の耳へ届いた。ファルガーが此処にいることを感じて目の奥が熱くなるのを誤魔化すように額を擦り付ける。
「ふーふーちゃんがいないと眠れないのは困る」
「今日は珍しく浮奇が先だったから、いつもと違ったのも影響してるんじゃないか?」
「…それもあるかも知れないけど」
それだけではないことは、自分が一番分かっていた。きっと、自分自身を愛せない浮奇に根気強く大切だと伝えて温かく包み込んでくれたファルガーの愛が、浮奇の心の奥深いところに根付いているせいだ。大切にされることを知ってしまったから、寂しさを感じる。
「それが悪いとは思わないけどな」
「ふーふーちゃんに甘えてばっかりいられないでしょ」
「…俺が甘やかしたいのに?」
「それが、納得できない日もあるの」
見返りを求められているならよかったのに、とは何度も思った。どこまでも深く愛されて、優しく包み込まれて、堕ちていくのが怖かった。いつか離れる日が来たら、もう息すらできない気がしたから。けれど浮奇と同じように自分を愛せないファルガーが、浮奇の愛に触れて少しずつ自分を大切にし始めているのを知っているから、きっとお互い様なのだとも思っている。
「…じゃあ、どうしようかな」
とんとん、とリズムよく浮奇の背中を叩きながら考え込んだファルガーを見上げると、優しさを堪えた灰色の瞳と視線が交わって赤い指先が浮奇の瞳にかかる前髪を優しく払う。
「そうだ、良い睡眠導入の方法を知ってるぞ」
「睡眠導入?」
「あぁ、簡単なやつだから覚えておけば眠れない日にきっと役に立つ」
「どんなの?」
「試しにやってみるか」
こくりと頷けば、胸の前に抱えた羊のぬいぐるみが取り上げられて浮奇の枕元に移動され、ファルガーに隙間なく引っ付いていた身体をそっと仰向けに誘導される。
「戦地に出向く兵士にも有効な方法らしいから、きっと浮奇にも効く」
「…それってレガトゥスのこと言ってる?」
「いいや。あいつは兵士じゃなく刑事だぞ」
「あ、そうだった」
「ほら、浮奇。…静かに」
柔らかく笑ったファルガーの人差し指が浮奇の唇へと触れる。されるがままに黙ってファルガーを見上げる浮奇の瞳の上に掌が乗せられた。
「目を閉じて、俺の声を聞いて」
浮奇は静かな部屋に響く心地良いファルガーの声に従った。
まずは深呼吸して。指先まで届くように深く
ゆっくり繰り返せば自然と深まるはずだ
オーケー、上手くできてるぞ
次は身体中の力を抜いていく
まずは顔。温かいタオルを想像して
額…目…頬…ゆっくり緩めて
続けて左腕。肩から順番にゆっくりと
腕、肘、手の指先まで重さを感じて
反対側へ、もう一度
肩から腕、肘から指先までゆっくりと
腕がベッドに沈む感覚がするだろう
今度は少し下がって、身体の中心
胸、それから腹に意識を向けて
温かいのを感じて、自然に力を抜く
最後は脚。太腿からふくらはぎ、足の指まで
身体が温かくなってベッドに沈んできたな
そのまま、今から言うことを想像して
今、広い湖に浮かぶボートに寝そべって
穏やかな波に揺られている
目の前に広がる空を見て、波の音を聞いて、
頬に触れる風と、心地良い揺れを感じて
そう、そのまま身を任せて
よく頑張ったな、もう大丈夫
ゆっくりおやすみ、いい夢を