百聞は一味にしかず 二月に入ると影山家では甘い匂いが漂い始める。夕飯を食べ終えて、キッチンに立つ律の背中を見ながら、茂夫はもうこの時期になったんだなぁと思った。
律が菓子作りを始めたのは中学二年の頃からである。しかもその時期は二月一日から十四日までの二週間きっかり。その間は毎日甘い匂いが漂い、夕飯と次の日の朝食のデザートがついてくる。
中学二年で初めて作ったお菓子はチョコレートクッキーだった。
中学三年はチョコレートブラウニー。高校一年になると家にオーブンが導入されてガトーショコラを作った。ちなみにその年のクリスマスも律がケーキを焼いたのだった。
そして今年、高校二年になった律が作るお菓子はガナッシュだった。今までは市販の板チョコを使っていたが、今年からは通販で業務用のチョコレートを買ったらしい。年々豪華になっていく菓子は、それに比例して味も質も良くなっている。
二週間限定の菓子作りだが、味は市販の菓子に引けを取らないものに仕上がっていた。さすが律だなぁと茂夫は感心する。菓子作りは律の趣味でもないのを知っているから余計にそう思う。彼はやれば何でも出来るが、それは出来るようになるまで何度も試し、努力するからだ。
「今年のチョコは毎日食ってても飽きねぇなあ」と喜ぶ父親と、「律の方がお菓子作り上手くなっちゃったわね」とどこか嬉しそうな母親も、律の努力に嫌な顔ひとつ見せずに付き合っている。茂夫も「おいしいよ」と毎日食べてコメントを寄せていた。ニキビはいくつか出来たものの、前髪に隠れる額にほとんど集中していたので特に気にしなかった。それぐらいは律の努力に比べれば瑣末なことだと思った。
そして、二月十四日。
早朝の六時、茂夫が早朝のランニングから戻ってくると、ちょうど律がガナッシュを百均で買った市松模様のトリュフボックスに詰め込んで、学生鞄に入れるところだった。
「今日は早いんだね」
「うん、学校に行く前に寄るところがあるから」
「そっか、そうだよね」
律の言葉に、今日がバレンタインなのだと茂夫は思い出した。明日から律の作ったチョコが食べられないのだと思うと少しだけ名残惜しい。だがそれを軽はずみに言うと、律は気遣って作ろうかと聞いてくれるようになる。それはかつて、調理実習で習ったと言って作ってくれたオムライスで学習済みなので、胸の内に留めておいた。
折り畳んだ紙袋とエコバッグも鞄に入れた律が「行って来ます」と出ていくと、茂夫も風呂場へと向かった。
早朝の六時半、何度もインターホンを鳴らされて霊幻は無理やり起こされた。
「んだようっせーなぁ」
時計を確認するとまだ朝の六時半だ。普段起きる時間よりも一時間早く起こされたことに、不機嫌を隠さずに玄関に向かう。その間も鳴らされ続けるインターホンがいかれてしまわないか少し心配になる。その焦りからドアスコープを覗くより先に開けて、早朝の冷え切った空気に一気に目が覚めた。
「おはようございます、霊幻さん」
「ん、ああ、おはよう。っていうかお前何度も鳴らすなよ近所迷惑」
「今年の分です」
「え、おう」
霊幻の言葉に聞く耳は持たないと言わんばかりに文句は遮られ、あっという間に律のペースに持っていかれる。
出会った頃は頭ひとつ分小さかった彼も、今や目線が同じになった。身体付きも日に日にしっかりしていき、食べる量も倍以上に増えてたまに仕事の手伝いをするときには霊幻の財布にダメージを与えてくる。
どこか詰めの甘いところだったり隠しきれない素直さといった可愛げはどんどん無くなり、大人びた雰囲気もたまに出して来る生意気な律に対して、どう接すれば良いのかいまだに考えあぐねてしまう。
そういう思考の隙が出来て霊幻がぼんやりと待つ間、律は鞄を開けて手際よく小箱を取り出した。鞄の中にあった紙袋とエコバッグが見えて、難儀だなあとつい同情した。これから彼にチョコレートを渡す女子と、もしかしたら男子に対してだ。
「今年は小さいんだな」
去年もらったケーキはワンホールだった。それに比べると手に収まるサイズになっていて、小さく感じてしまう。
「そろそろ年だからきついかなと思って」
「そんなことねぇよ、ラーメン替え玉もしてるわ」
「野菜も食べてますか? 胃が丈夫なのはいいことですけど健康管理はちゃんとしてください」
正論で殴られて、霊幻はぐうの音も出なかった。去年の健康診断では内臓脂肪がやや高くなっていたからだ。
「じゃ、用事は済んだんで、失礼します」
「ありがとな。大事に食べるよ」
「……そうですか」
律の瞬きが増える。目線が近いと些細な変化も見逃さなくなるものだ。
本音を言おうとしないのに態度や顔に出ているところとか、子どもの頃の自分が大人にはこう見えていたんだろうなというノイズが思考に混ざって、何を言えばいいのか分からなくなる。
ただ眺めていると、律の視線が逸された。踵を返して去って行くのを見送って、霊幻は扉を閉める。
「はー、まだ、なんだなぁ」
去年よりも小さい筈の箱が重たく感じる。好悪の感情と言うのは思いのほか伝わりやすい。何かしら思うところがあるのはずっと感じていたが、それが好意だと気付いたのは三年前のこの日に渡された菓子が切っ掛けだった。
それ以来毎年、伝わってくる彼の感情が明確な形として手渡されてきた。年々クオリティが上がり、味もおいしくなっていくそれは、感情の形がどんどんと洗練されていく過程をたどっているようだった。研ぎ澄まされて、誤魔化したり疑いようのないところまで来ている。それは律自身も、霊幻にとってもそうだ。
部屋に戻って暖房をつけた。二度寝を諦めてインスタントコーヒーを入れる。
覚悟を決めて箱を開けて、うわあ、と声が漏れた。
六個入りのトリュフボックスに鎮座するおいしそうなチョコレート菓子は、もう店で出せるんじゃないかと言うレベルだ。いや、去年のケーキもそうだったが、まだ手作り感があって可愛かったように思う。
来月のホワイトデーの焼肉は叙々苑に連れていかないと釣り合いが取れないかもしれない。
どんな気持ちでこのチョコレートを律は作ったのだろうか。霊幻は震える指でチョコレートをつまんで口に含んだ。どんな言葉よりも雄弁に語るチョコは、滑らかな舌触りを残し、口の中で甘く溶けていった。