恋の終わり その恋がはじまったのは、中学のとき。それからずっと、私はその人を見てきた。本当に、ずっと。
だから、言われなくたって知っていた。彼には私と出会う前から、心の中に一人、決めた人がいる。その子と再会して、あっという間に燃え上がったのだって、見ていたら分かった。
その途端、私は理解する。あの熱が、私に向けられることは、ないのだと。
「オレにしとけよ」
彩子ちゃんを家まで送っていくのだと、足取り軽く体育館を出ていった彼を見送った私の頭上から、そんな言葉が降ってきた。思わず「は?」とこぼしつつ見上げると、そこには耳を赤くした三井先輩がいる。
「『は?』ってお前、そりゃねーだろ……」
「だっていきなり……なんなんですか」
意味分からないんですけど、と続けると、先輩はわざとらしく咳ばらいをした。拳を口元に当てて、視線は明後日の方向へ。それからほんの一瞬こちらへ視線を向けて、また逸らす。
「……分かんねーって……そのままの、意味だろーが」
分かれよ、と先輩はさらに顔を赤くして言った。そこまできて、私は急に合点がいって、「は⁉」とひときわ大きな声をあげた。
この人は、つまり、宮城じゃなくてオレにしておけよと言ったのだ。恋愛的な意味で。
顔が熱くなる。これはたぶん、目の前のこの人につられたのだ。だから、けっして、どこか捻くれてるのにまっすぐな想いのせいで、照れているわけじゃない。そうは、思うのだけれど。
「……顔、赤ぇけど」
「夕日のせいじゃないですか」
「もう陽は沈んでるぞ」
「うるさい」
言葉の応酬をする間、私は先輩の方を見られなかった。先輩からの視線は痛いほど感じていて、余計に振り向くことなんてできなかったのである。
言葉が途切れ、私たちの間には気まずい沈黙が横たわった。その気が無いならさっさと立ち去ってしまえばよかったのにできなかったのは、こんなふうに人の想いをぶつけられたことがなかったからだ。長いこと不毛な片想いを続けていた私にとって、私のことだけを見てくれている人がいるという事実は、抗いがたい魅力があった。
そうしてどれくらいの時間が経っただろう。大きく息を吐き出して、おもむろに、先輩が立ち上がった。
「十本だ」
「え、何がですか。意味分からないです」
「オレが十本、連続でスリー決めたら、オレと付き合え」
「はあ⁉」
何を勝手に、と言いかけた私は、しかしあんまり真剣に先輩がこちらを見つめるので口を噤んでしまった。私の意思はどうなるのとか、こんなの圧倒的に私が不利じゃないかとか、言いたいことはたくさんある。が、私はどうしてか、ボールを持ってコートへ向かう先輩を眺めることしかできなかった。
「一本目」
先輩は、いつもどおりのお手本のような綺麗なフォームで、気持ちのいい音を響かせた。もはやその瞳には、リングの奥しか映っていない。
二本目も、三本目も、先輩は危なげなく決めた。当然だ。この人は、三井寿なのだから。
私は、そんな先輩の姿を見ながら、どうしてこの人はいきなりこんなことを言い出したのだろうと考えていた。いつから? 何がきっかけで、オレにしておけなんて言うに至ったのか。
リョータを通じて、バスケ部の面々とはそれなりに仲良くしてきた。正式なマネージャーというわけではなかったけれど、彩子ちゃんの仕事を手伝って練習に顔を出すことだってあった。
部活中は、仕事と割り切って、特定の誰かに肩入れしないよう心掛けていて。しかしその最中で、奴の彩子ちゃんへの思慕に気付くたび、心は疼いた。あんな顔を、あんな瞳を、向けられたことは、一度もない。
「四本目。…………五本目」
パスッ、という小気味いい音が、人気のない体育館に響く。すっかり聞きなれたバッシュが床を擦る音が、心地いい。
私は、ちらりともこちらを見なくなった先輩を眺める。六本目。リングにぶつかる音なんて、するわけがない。
先輩がバスケ部に戻ってくるまでには、いろいろあったらしい。私は人が増えたから手伝ってくれと言われてここへ来たので、当時のごたごたには詳しくないのだ。だから、私が先輩について知っているのは、前は不良めいていたらしいということと、今は一途にバスケをやっているということだけだ。
「七本目」
私には、バスケの知識がない。いつも練習を見ていて思うのは、速いなとか、高いなとか、シュート決まったなとか、パスかっこよかったなとかその程度。今のドリブルがものすごい高等技術なのだと熱弁されても、分かってあげられない。ただ――。
――三井先輩の、シュートするときのフォームは、綺麗。
どんなに激しくプッシュされても、マークにつかれていても、先輩がシュートを放つ瞬間、音が消えるような感覚に陥る。ボールが手を離れてから残る右手まで含めて、一つの芸術作品みたいだと思う。
「八本目。………………九本目」
あと一本、というところで、はじめて先輩がこちらを見た。視線が絡み、どきりとする。
「次決めたら、付き合えよ」
「だから、なんでそんなこと、勝手に――」
「十本目」
私の抗議の声はまったく聞き届けられることなく、先輩の手からは綺麗な放物線を描いたボールが放たれた。それは淀みなく、いつもどおりの様子で、リングの中央へ吸い込まれていく。
よしっ、と先輩がガッツポーズをするのを、私はどこか他人事のように眺めていた。先輩は私の目の前まで来ると、座ったままの私の傍でしゃがんで視線を合わせる。
「見てたか?」
に、と先輩は笑った。私は、「見てましたけど」と不満げな声をあげる。
「そもそも、なんで勝手に全部決めるんですか」
「お前に決めさせたら、いつまで経っても決まらないだろ」
「なにそれ。……だいたい、先輩、私のこと好きなんですか?」
言ってしまってから、私は慌てて口を押さえた。つい。思わず。無意識に。
目が泳ぐ。いたたまれなくなって、「やっぱ今のなし」と続けようとする。が、その試みは、先輩が私の口を覆った手を掴んだことで、立ち消えとなった。
ずいと顔を近づけられ、たじろぐ。傍から見たら、今の私たちは、いったいどう見えているのだろう。
「お前、オレが、好きでもないやつにこんなこと言うと思ってんのか?」
「だ、って」
「好きに決まってんだろ。好きだよ」
「っ、」
初めてもらったストレートな愛の言葉は、恐らく先輩の想定以上の威力を持って、私の胸に突き刺さった。聞こえたのではと心配になるくらいに胸が高鳴って、顔に熱が集まる。
先輩は、そんな私をじっと見つめたまま、続けて口を開いた。
「……なんでかって、聞くなよ。オレもわかんねーんだからよ」
「……なにそれ」
「うるせェな。気付いたら気になっちまってたんだから、仕方ねーだろ? お前にだって、つい、目で追っちまうってことがあんだろーが」
オレにとってお前はそれだ、と先輩は続けた。そしてさらに、「もう、傷つき続けるのを放っておけねぇんだよ」と言う。
なんだそれ、と私は思った。私は、傷ついてなんかない。リョータが彩子ちゃんを想っていることは、リョータと出会ったときから、決まっていたことだった。最初から分かっていたことに、私は、いちいち傷ついたりしない。
そりゃあ、多少心は動く。当然だ。好きな人が、私以外の誰かを見ている。その事実に心が疼かなくなったとき、恋は終わっているのだと思う。
私の恋は未だ終わってなんかいないのだから、当たり前のことだ。
でも、それを、この人は『傷つき続ける』なんて言う。ざくざくと、鋭利なナイフを突き立てるみたいな言葉だった。
「わ、私は、傷ついてなんか……」
はっとする。同時に、頬を伝っていくものがあった。それは私の顎先から滴り、Tシャツの上に染みをつくる。
なんで泣いているのか、私は分からなかった。しいて言えば、私を泣かせたのはリョータの存在ではなく、目の前の私のことを好きだと宣った男だ。
私が泣いたことで、先輩は目に見えて狼狽えた。けれど、何か覚悟を決めたような顔をした途端、ぐいと掴まれていた腕が引かれ、私の身体は前に傾いで先輩の腕の中に納まった。
無遠慮に、ぶっきらぼうに、抱き締められる。熱い身体と、汗のにおい。ばくばくとうるさい心臓の音。
「……オレと付き合えよ」
耳元で、絞り出すような声がした。
私は、息をするのも忘れて、その声に聞き入った。
「オレが、忘れさせてやるから」
心臓の音が大きくなる。これが私のものなのか、それとも先輩のものなのか、今の私には判断できそうにない。
そうして、私が先輩の背に腕を回したとき、私の恋は終わりを告げたのだ。