レノックス・ラムは緑の瞳の夢を見る レノックス・ラムがいつも見る夢がある。
ヘーゼルグリーンの菱形の瞳孔に冬の海のような灰色の虹彩をした不思議な瞳の男と、一緒にいる夢。ここではないどこかで、笑ったり、踊ったり、時には喧嘩をして仲直りをしたり。幼い子どもの世話をしていることもあれば、ふたりだけで晩酌をしているときもある。
名前はわからない。夢の中でははっきりその名を呼んでいるにも関わらず、記憶は目が覚めると同時に急速に霧散し、夢の概要と不思議な瞳のことしか覚えていないのである。
不愉快な機械音が目を覚ますべき時間であることを告げ、ディスプレイに今日の天気が示される。本日は終日曇り、桜の時期を過ぎて気温は暑くも寒くもなく。
起き上がり、レノックスは窓の外を見た。わざわざ見なくとも、先ほど見た情報と違わない灰色の曇り空が広がっているのはわかっている。天気予報は正確で、誤報が生じたことは殆どない。だがこの頃は空を、特に曇り空を見上げるようになった。薄曇りの空の灰色は、夢で見る不思議な瞳の虹彩と同じだからだ。
レノックスは着替えながら、今日の夢のことをできる限り反芻する。今日はどこか山の近くの草原が舞台で、レノックスは沢山の羊と共に歩いていた。それらは生きた羊だった。生きた羊は、幼い頃に観光牧場で見たきりで、それ以降は博物館の剝製かホログラムでしか見ていないのだが、それにしては羊の見た目も様子も非常にリアルだった。そして、レノックスが歩く先に白い衣を着た男が立っていて、レノックスを待っていた。背の高い男で、若い見かけにも関わらず老成した振る舞いと広い見識があり、夢の中のレノックスはこの人に恩を感じ、また尊敬し敬いながらも、呆れと哀れみ、そして愛情を持って接していた。レノックスが男の近くまで来た時、男が何かを言って、レノックスはそれに答えた。そしてふたりで笑っていた。幸福な気持ちだった。だが何を話していたのか、目覚めてしまった今ではもう何も思い出せなかった。今日はそれだけの夢だった。
レノックスのアパートは、勤めているラボから少し遠い。毎朝、遠距離通勤のコミューターで満員になっている車両に乗り込んで職場へと向かう。レノックスのようなコミューターは、ラボにはあまり多くない。職員の多くはラボに近い場所へ居住しており、徒歩、あるいは自転車(健康のためにと最近流行っている)やエアロバイクで通勤している。ハイクラスに至っては職場の前にエアーカーの送迎がある。ビル上層に居住している場合、それが最適かつ最短であるからだ。
乗客でみっちり詰まった車両の中でも、レノックスはあまり窮屈ではなかった。彼は非常に背が高く、まわりの人々よりも頭一つ抜けているからだ。そのため視界は開けているし、冷房からも距離が近い。人間と、そしてアシストロイドの色とりどりな頭を眺めながら、レノックスは今日の仕事について思いを馳せながら職場へと向かった。
レノックスの職場は、フォルモーント・ラボラトリー。この街で最も、優れた頭脳が集まる場所だ。最近ではアシストロイドの研究を第一線で行っており、特にレノックスの上司、知能機械情報部の部長であるフィガロ・ガルシア博士が在籍していることでも有名だ。今や街中にある大型モニタを始め、通勤車両に取り付けられた小型長方形モニタ、ホログラム広告、インターネット、その他あらゆるメディア、果ては娯楽雑誌と多岐に渡ってガルシア博士の姿を見ることができる。
ガルシア博士は細身の長身に、白い肌、灰色の瞳、何より人間離れした作り物のような端正な顔立ちが目を引く、美しい人物だ。『セクシーな知的人物』で二位に選ばれているほどで、成程、あの美しい容姿をした彼が作り出したアシストロイドの顔立ちが魅力的なのも頷ける。
インタビュアがガルシア博士に「ご自身の容姿を、アシストロイドを作る際に参考になさったのですか」と尋ねると、彼はその美しいかんばせを穏やかに横に振り、「いえ、まさか。自分と似た顔を作りたいと思ったことはありません。同僚の顔を参考にしたり……、あとは美術館へ行って彫刻や絵画を観察して、皆さまに好まれる顔を研究しました」と答え、にこりと微笑んだ。その微笑みに、インタビュアから感嘆の吐息が漏れた。
ともかく、ガルシア博士はこのような人物であるから、もはやラボに出資しているスポンサーの一部は、ラボの研究そのものではなく、彼の美しい容姿に金を出していると言っても過言ではないほどだった(そして出資の見返りに、ガルシア博士が彼らの会社や商品の宣伝をさせられることも、ざらではなかった)。
レノックスが通勤車両を降りた時、駅の売店に陳列された雑誌の表紙に、ガルシア博士の姿があった。駅を利用しないハイクラスの彼は、きっとその雑誌が飛ぶように売れていることを知らないだろう。
レノックスは、雑誌を求める人々で列ができた売店に並び、朝のコーヒーを買うついでにその雑誌も買った。雑誌の表紙には最新技術が使われており、写真の中の人物は短い動きをループする。表紙の写真のガルシア博士は爽やかな微笑みを浮かべて、時折片目を閉じてウィンクをした。
午前の仕事を順調に終えたレノックスは、所属している部署の主任であるファウスト・ラウィーニアと共に食堂に来ていた。基本的に彼に与えられた個室から出ることがないファウストを、レノックスが無理に食堂へ連れてきた形だ。そうでもしないと、ファウストは休憩も食事も取らずに仕事に没頭してしまうからだ。
食堂は、トレイを持って列に並び、配膳係から食事を提供されるという旧式なシステムだ。所内にあらゆる最新機器が導入されても、なぜかこれだけは進歩がない。大学の食堂でさえ、今は各テーブルに書かれたコードを端末で読み取って注文を行い、ドローン、あるいはロボットが配膳するというのに。
レノックスとファウストはそれぞれ定食を受け取り、席についた。食事は、職員ならば無料で提供される。その上味も良いので、三食をここで済ます職員がいるほどだ。
「それは?」
ファウストが、レノックスがテーブルに置いた雑誌を指して言う。裏表紙に、新しい栄養補助食品の写真が載っている。
「サプリメント? 君が?」
「いえ」レノックスは雑誌を裏返した。ガルシア博士が微笑む、例の表紙だ。
「君もあの人のファンなのか」
「ファンではありませんが、いい写真だなと思ったので」
それに、夢に出てくる男をどこか彷彿とさせる微笑みでもあった。
ふたりが皿の半分を空にした頃、食堂の入り口のほうが騒がしくなった。
「何事だ?」
ファウストが顔を上げて、そちらを見る。食堂の入り口はレノックスの背面にあったので、体を捻ってそちらを見た。
食堂にいる職員たちの視線が、ほぼ全て、そちらに集まっていた。
「スノウ様、ホワイト様、本当に、本当に放してください!」
悲壮な響きの声が、ざわめきの向こうから聞こえてくる。
「ダメじゃ! 今日もまたゼリーで済まそうとして。我らもう看過できぬ」
「たまには栄養のある温かい食事を取るのじゃ」
「栄養なら取れてますから……」
「我は栄養のある温かい食事と言ったのじゃ」
三人組の騒がしい声。その主は、フィガロ・ガルシアと彼のアシストロイドであるスノウとホワイトだった。ガルシア博士はその端正な顔を歪ませ、自身を引きずるアシストロイド二体に抵抗を試みるも、メカニズムでできた重量のある彼らに敵うはずもなく、ずるずると食堂まで引きずられて来たのだろう。所内よりもメディアでその姿を見る頻度の方が高い有名人の登場に、人々の注目が集まっていたのである。
レノックスはちらりと雑誌の表紙を見た。柔和な笑みを浮かべて品よく微笑む写真の姿と比べて、肉眼で初めて見る現実のガルシア博士は情けない表情を浮かべ、アシストロイドに無様に引きずられている。
「わかりましたから、もう放して……。視線が集まっているので……」
「わかればよろしい」
「ほら、トレイを持つのじゃ」
仕草も見かけも瓜ふたつな双子のアシストロイドは、降参したガルシア博士を列に並ばせると、嬉々として彼にトレイを渡す。
「注文は我がしよう」
「スムージーだけでいいです」
「温かい食事」
「ならスープも」
「もっと栄養を取るのじゃ。お魚の定食が良いじゃろう」
「そんなに沢山、食べられませんよ……」
「しょうがないのう。ご飯は小盛りにしてもらうかの」
賑やかな三人組は賑やかに注文を済ませると、丁度レノックスとファウストの隣のテーブルに座った。
「あ、」
驚いて、レノックスは思わず声が出た。それに反応して、ガルシア博士がこちらを見た。モニタで見るよりも痩せていて、色が白い。色付きのゴーグルをしていた。
「やあ、ファウスト。それに、君はレノックス・ラムだね」
彼はメディアに出る時用の、よそ行きな笑顔を浮かべて挨拶をする。
レノックスはガルシア博士の部署に所属しているが直に会ったことはなかった。仕事の指示はいつも直属の上司であるファウストからされている。だから、ガルシア博士に名前を呼ばれて思わず目を見開いた。
「あれ、違った? 自分の部下の名前は覚えているつもりだったんだけど……」
「いえ、ラムです。申し訳ありません、覚えていただけているとは思わず、驚いてしまいました」
「よかった。いつも助かってるよ」
彼はトレイに乗った定食のスープに口をつける。ファウストと同じ定食だったが、皿に盛り付けられている量は、少食のファウストよりも更に少ない。それを非常にゆっくりとしたペースで口に運ぶ。咀嚼が長い。その様子を、アシストロイドたちが対面で見守っていた。
ガルシア博士のアシストロイドは、彼の手製だ。プロトタイプであり、それでいて最新の研究成果が反映された、最新型でもある。子どもの姿をした双子のアシストロイドは、そんな、ある意味『親』である博士の様子を、まるで我が子を見守るように見つめていた。
フィガロ先生を育てたのは彼らだ。見かけは逆転しているが、何も不思議なことはない——いや、違う、それは……、あれ、何の記憶だ?
レノックスは思わず、片手で額を押さえた。耳鳴りがしていた。
「どうした?」
ファウストが、レノックスの様子に気づいて声をかける。
「いえ、なんでもありません」
「彼、具合悪いの?」幽霊みたいに青白い顔色をしたガルシア博士が言う。彼の方がよっぽど具合が悪そうだ。
「大丈夫です」
耳鳴りは、既に治まっていた。
「僅かな不調でもそれを見逃すと、後に響く。午後は休みにするといい。ファウスト、あとで彼の代わりに早退の申請をしておいてもらえる?」
医者のように、ガルシア博士が指示をする。その的確で簡素な物言いが、なぜか懐かしかった。