忘れじの行く末 弱いとは無力であるということだ。
ここしばらく方々に頭を下げ通しになってつくづくそう思わされた。
会社の仕事で向かった取引先社長の本家がある山奥の村。
その村が一夜にして炎に包まれ村人は全員死亡。
村を取り仕切っていた一族の遺体は次男の孝三のみが礫死体で発見され、その孝三を撥ねたのだろう入婿の克典も車の中で死んでいたという。
克典社長と呼びかけた覚えはあれど、しかしどうにも記憶が曖昧で、水木は村の火付の下手人ではないかと入院中に何度も警察からの聴取を受け、それが済めば今度は会社で本当に覚えていないのかと何度も社長に呼び出された。
曰く、水木が自分から志願して件の村に向かったらしいのだが、それについてもとんと覚えがない。
神妙に顔を伏せて申し訳ありませんと何度も繰り返し、やがて水木のデスクは社内の隅の方へと追いやられることとなった。
クビにまでしないのはひとまずの温情らしいが、お茶汲みだの掃除だの社内の華と言える女性社員にさせるような仕事ばかり回すのは明らかに嫌がらせめいていた。
なんならその女性社員からさえも男のくせにでしゃばって来やがってと言わんばかりの眼差しが向けられるものだから肩身が狭い。
しかしながら以前のような活力は少しも湧き上がらず、胸の内の空虚に苛まれながら言われるがままに日々を過ごす。
そうしているとたまにあの南方の熱い日差しを思い出して、どうしてか大義を説いた上官の顔に婀娜っぽい女の見下す眼差しが重なって見えた。
どちらにしても幻覚だが。
そんな調子なものだから全く疲れることもなく、酒を飲んでも妙に不味く思えて酔いきれず寝つきは悪くなっていた。
布団の中で無意味にゴロゴロと寝返りをうっては瞬きばかりを繰り返す。
そんなある晩のことだった。
窓向こうに仄白いモノがよぎって見えて、なんだと身を起こしてじっと見据える。
ざわざわと風の騒がしい秋の夜。
また窓向こうをゆらりと何かが横切って、水木はそっと外を覗き見た。
「アッ」
人魂が、白く尾をたなびかせてスゥっと消えた。
人魂のそれを尾と呼ぶのかはわからないし、あるいは猫の尻尾と見間違えたのかもしれないが、水木は急いで洋箪笥に駆け寄ると寝巻きを脱ぎ捨て馴染んだスーツへ袖を通した。
あんなもの追ってどうするのか。
お前はいよいよ頭までおかしくなったのか。
心の内で黒髪の自分が蔑むように笑ったが、振り払うようにして夜の町へと駆ける。
近所のススキ野っ原の向こうには傾いた瓦屋根が見えた。
廃墟になって久しい寺の門を白と薄水色の人魂が二つ潜り抜ける。
ガサガサと草を踏み分け、息を切らしながら見上げた門は、いかにも何かおぞましいものが飛び出してきそうな雰囲気を漂わせていた。
呼吸を整え足を踏み入れると、水木を待つようにして人魂が一軒のあばら屋の中へと消えていった。
「ごめんください」
障子紙の名残だけが寂しくハタハタと揺れる建具に触れるのはなんとなくおっかないように思え、水木は身を乗り出すようにして中を覗き込んだ。
しんと静かなボロ屋の中からは嗅ぎ覚えのある嫌な匂いがする。
「ごめんください!」
もう少しばかり声を張り上げれば「はぁい」と風鳴りのようにか細い声が帰ってきた。
しかし声はすれども姿は見えず、もう少しだけ身を乗り出してみると、奥の襖の影からぬぅっと覗くものがあった。
「ひぃ!」
女であった。
おそらくは。
まるで幽霊画の掛け軸からそのまま出てきたような、顔の崩れた髪の長い女が水木を見てニタァと笑い、奥に向かって「あなた、あなた」と囁きかける。
目を凝らさずとも闇に慣れてきた目はすぐに動く何かを見つけた。
まるで泥水が形を持って動き出したかのような億劫さで、その何かはズル、ノタと重苦しい音と共に歩いてくる。
そうして月明かりの差すところまでやってきたソレに、水木は堪らず背を向けかけだした。
「まて、まてぇ」
金っけのものを擦り合わせるような悍ましい声だ。
悲鳴すら出せないほど水木は怯えていた。
まるで死体がそのまま歩き出してきたかのようなソレはきっと男だった。
いや、怪物を男だ女で語れるものだろうか。
わからないが捕まれば何をされるか、と一層駆ける足に力を込めようとしたところではたと蘇る声があった。
『何を見ても逃げるでないぞ』
そう言ったのは誰であったか。
いつだって背を向けることは許されなかった。
上官に打ち据えられても、弾丸が眼前に迫っても爆弾が落ちても、水木に怯むことは許されなかった。
だから逃げたことなど一度もない、今この時をおいて他に、一度も。
どうと大きな音がして、水木はようやく足を止めた。
振り返る。
屍人のような怪物は倒れ伏していて、少しだけ胸が痛んだ。
火に焼かれた仲間を見たことがあるがちょうどあんな具合であった。
包帯濡れで、除く肌は黒く焼け溶けて。
喉の奥に込み上げる酸味を飲み下し、水木は根性だけでその場に縫いつけられたような足を動かし、怪物へと歩み寄る。
「なにものだ、おまえ」
ベタリと乾いた喉からは化け物と変わらない様な掠れた声しか出なかった。
「みず、き、や」
どきりとする。
驚いたことにこの怪物は水木を知っているらしい。
「生き延びた俺を祟りにでも来たか?俺を食おうってか?」
怪物が僅かに首をもたげ、落ち窪んだ眼窩をさらに大きくした。
「おぬし、その、髪は……まさか、」
ああ、と手をやり前髪をつまむ。
例の村から逃げ戻った時に真っ白に色が抜け落ちてしまって、以来戻る気配は少しもない。
水木自身は最近ようやく見慣れてきたが、周囲からの視線はまだまだ煩わしい。
そう尋ねるということは、やはりこの怪物は以前の知り合いの何某かのようだ。
「おぬしを食おうなど、まさかそんな。わしは、わしはただ、お主に会いとうて、それだけだったんじゃ。すまぬ、水木よ。すまぬ、すまんのう」
「……いや、俺の方こそ訪ねておいて挨拶もなしに逃げ出すなんて無粋な真似をした。申し訳ない」
「いや、仕方のないことよ。お主の命があった。それだけでも感謝すべきじゃろう」
口ぶりからすると怪物。否、男は随分と年上であるようだった。
となるとますます心当たりがない。
少なくともかつての上官の中で水木に会いたいなどと言うほど親しくしていた間柄のものはなかった。
ならば幼い頃の知り合いか。
しかしそれならば名前で呼ばれるはずで。
包帯濡れの手を地について身を起こそうとする男へ支えの手を伸ばしながらじっと見つめていると、男は引き連れた目を歪ませ涙を浮かべた。
「わしは、わしはゲゲ郎じゃ」
「げげろう?」
そんな奇妙な名前の知り合いがあっただろうかと訝しくおもう横で、男は深く何度も頷いた。
「そうじゃ、ゲゲ郎じゃ。お主はそう呼んでくれたんじゃ」
*
「お主が、生きておっただけで良いのじゃ。あんなおぞましい記憶など、百害あって一利なし。髪のいろがどうした、わしなど見よ、このとおりじゃ」
再び引き返したあばら家で火のない囲炉裏を囲み、ヒィヒィと掠れた声で喘ぐ男の横で幽霊画の女も啜り泣くような声をこぼす。
これが笑い声だというのだから、水木も頬を引き攣らせて乾いた愛想笑いを浮かべるしかない。
この奇妙な二人はやはり夫婦で、幽霊族という妖怪物の類であることに間違いはないとのことだった。
水木はてっきりゲゲ郎と名乗る男も南方帰りとばかり思っていたが、出会ったのはなんと水木が記憶を失ったあの村で、ごく最近のことなのだという。
そして水木は男の方の命を二度、女の命を一度救った、らしい。
何があったのかと問うてみるも男は首を小さく振って先の通りに答えたというわけだ。
「火事があったとは聞いたが、もしやその姿はその時の」
「そのようなものじゃな。妻の方は、まあ後生じゃ。聞いてやってくれるな」
この通りと頭を下げられては水木もそれ以上深く尋ねることはできなかった。
これで夫婦の方が水木の命を救ったというのであれば、あるいは記憶がないのをいいことにペテンにでもかけようというのかと疑う心も湧くかもしれないが。
二人の暮らしはとてもじゃないがつましいなんて言葉では収まりきりそうには見えなかった。
爪に火を灯すという言葉もあるが、この家には火種すら見当たらない。
「おれに、会いたいと言っていたな」
「うむ。正直なところわしはお主が生きているとは思わなんだ。あの村で別れ、わしも妻と共に姿を隠し、どうにか動けるようになった頃に、カラスの噂であの村の生き残りが東京におるのだと聞いて、行方を探したというわけじゃ」
「本当にそれだけか?」
一度二度救った命なら、三度目の慈悲に縋ろうというつもりなのか。
村で出会い、少しばかり親しくなって共に過ごした相手の安否や消息を知りたいというところまでは納得できたが、それでこの廃寺にわざわざ居を構えたというのは意図的に思えてならず、無礼不躾を承知で水木は問うた。
仮にそれでこのゲゲ郎なる男が怒りに正体を見せるならそれでよし、ただの善人であるなら詫びればいいだけのこと。
だがゲゲ郎は水木の意に反し穏やかに笑い声を立てて、それからケンケンと咳き込んだ。
「あなた、横になってくださいな。あとは、私から」
「いや、いや、わしから話さねば筋がとおらぬよ。水木、わしは正直おぬしがそのように疑いの気持ちを持っておって、正直安堵した」
「こっちは無礼承知だってのに、ずいぶんと呑気なもんだな」
「あの村で出会った時のお主はもっと野心的であった。上を見据え、決して引かぬのじゃと。それが今はあまりに穏やかで優しいものじゃから、正直お主の心があの時壊されてしまったのやもと、わしはそれが気がかりでならんかった」
「……心当たりはある。会社でも言われるよ、お前は変わったと」
「それが悪いことであると、わしは思わぬ。じゃが、お主の芯にある強さが奪われておらぬことが、わしは嬉しいのじゃ」
ケンケンと咳き込む回数が増え、呼吸に濁りが混ざり始める。
横に座る女が痛ましげに背中をさするがどうにもおさまらない様子で。水木は横にする方が良いと手を貸すことにした。
男は少しばかり抵抗したものの巨体に見合わずその力はか弱く、女が涙声で「大丈夫ですから」と宥めるように男の胸を撫でた。
「無礼はこちらの方です。夫婦揃って命を助けられて、何もお返しすることもできないのに。けれど私たちにはもう、水木さんしか頼れる方がいないのです」
「……正直に言って、あなた方夫婦に助けが必要というのは誰に聞かずともわかります。けれど、僕に何ができるでしょう。申し訳ないが蓄えも僅かで、それも年老いた母の生活を思えばあなた方を支援するほどのことはできません」
「お金ではないのです」
そう言って、女はそっと己の腹へ手を添えて見せた。
決まった相手がいるわけでないにしろ、その仕草の意味が理解できないほど水木も愚鈍ではない。
「まさか、奥さんあなた」
「子どもがおります。実のところ、いつ生まれるかもわからなくて、明日に産まれるか、それとも年が明けてからなのか」
「それは、あなた方が人間ではないからですか? それとも、例の村で何か」
「詳しくお話しすることはできませんが、その両方が理由です。けれど、どうかご心配なさらないでくださいまし。この子は正真正銘、夫の子に違いありませんから」
さっとよぎった想像の、最も悪い部分は外れていたようで少しばかり安堵するものの、しかしそのような事情があるのであれば流石に水木も同情する。
とはいえ同情しかできることはない。
「お気の毒に思います。けれど、先ほども言いましたとおり僕にあなた方を助けられるほどの余裕はない。出来るとすればせいぜい少しばかりの食料をお分けすることはできますが」
「お気遣いありがとうございます。けれど私どもは人間のような飲み食いだけでなく、他の方法でも生き永らえることができるので。お願いしたいのは私どもがいなくなった後のことなのです」
何か言おうとして、言葉を飲む。
そして最初にこの家を覗き込んだ時に感じた嫌なものを思い出した。
近寄ることを戸惑うようなそれは、生き物が死ぬ時の匂いだった。
水木がどんな慰めをかけても、この夫婦の先が長くないであろうことは明らかで、男の方など先ほど駆けてきた勢いはどこへやら、今も何か言おうとして首を動かしていても身を起こすのも難しいようだった。
戦場でも時々そんな仲間がいた。
ひどい傷でもう死ぬだろうと思っていれば急に元気になって故郷のことを語りだしたり、痛みもないのだと浮かれた様子だったりして、ぽっくりと行く。
蝋燭が最後に激しく燃えるようにして、ふっと消え失せてしまう。
明日の朝急にと言うことはないと思いたいが、我が子を見るより先に男が力尽きるだろうことは目に見えている。
それに出産というのはひどく消耗するのだという。
子を産み落として、その時はたして女は生きていられるのか。
「僕に、あなた方の子どもを育てろと?」
「まさか。そこまでの迷惑はかけられません。幸い長く生きてきたこともあって、子どもを預けられる知り合いもあるのです。水木さん、あなたにお願いしたいのは、生まれたこの子を養護院へ連れて行き、迎えが来るその日までそれとなく見守ってやってほしいということなのです」
その時水木は、正面から見据えてくる女がひどく美しいものに思えた。
それから「綺麗な女だったんじゃ」と夢現のような泣き声が脳裏をよぎって、捉える前に霞の如く消え失せる。
途端、水木の胸の内に吐き気にも似たムカムカとした苛立ちが込み上げた。
それぐらいならまあ、と請け負うには容易い願い事であるのに口を突いて飛び出したのは「いやだね」という憎まれ口。
恐れる気持ちと共にあった病人だからという気遣いもどうでも良くなって、慣れた手つきで取り出した煙草に火をつけ肺を巡らせた煙を一気に吐き出す。
思い出すのは、ようやっとの思いで母の元へ帰った日のこと。
帰還を喜ぶとともにすまないすまないと泣きじゃくり腹に抱きついて来た母に、水木は何もしてやれることはなかった。
ただ先に逝ってしまった父を恨み、母を食い物とした親類縁者を呪い、息をつく間も無くくたびれ切った母のため南方の森林を駆け巡ったその足で、今度は闇市を練り歩く日々。
「あんたら自身は、どうにもならんのか。人間じゃない化け物夫婦だというなら、河童の妙薬や天狗の丸薬だとかいう特効薬でもあるんじゃないのか。身なりに驚いて逃げ出した俺の言えることじゃないが、俺ですらギリギリ生き延びたってのに、大火事で丸焼きにされて死んで何が妖怪だ。それじゃあ、ただの人間と何ら変わりないじゃないか」
言ったところでそれが八つ当たりに過ぎないことは分かっていても、水木の口は止まらなかった。
だが水木の胸からはどうにもあの青空の下で押し寄せた空虚が消えないのだ。
弱さゆえに踏みつけにされ、守る手もなく自らで降りかかる災禍を払い除けるより他にないのだと痛感したあの瞬間が。
「手きびしい、ことをいう」
横たわったことで少し呼吸が楽になったか、男の方が掠れ声でしょんぼりとこぼす。
しかし現実は現実だ、水木がここで憐れんだところでこの妖怪夫婦の赤ん坊を引き取って養ってやれるほどのゆとりはない。
「お主の言うように、妖怪にも医者はある。病も傷もたちどころに癒す妙薬や湯治場も」
「だったら」
「じゃが、もはやわしらにはそこを訪ねる程の、ちからもないのじゃ」
「なら、お前はなにか。俺が生きていることを確かめたいなどと言って力を使い果たして、会いたいと言ったその口で俺に」
グ、とその先の言葉を煙とともに飲み込んで、ぷぁと吐き出しずいぶん短くなった煙草を使われなくなって久しいだろう囲炉裏の中へと投げ捨てる。
「邪魔をしたな」
「水木、水木よ……」
「すまんが、病人相手とはいえ冷静に話せそうもない。今夜はこれで失礼する」
待ってくれとか細い声がして、板間にどぅと重い物を落とす音がした。
身を起こそうとした男が倒れ込んだに違いなかったが、水木は構わず足を進めた。
*
あぁクソッタレめと煙草の煙を吐き出す。
見上げる先のあばら家は昨夜と変わった様子もないが、しかしすっかり不気味に静まり返っている。
くたばっちゃいないだろうなと口から離した煙草を靴裏でもみ消し、ごめんくださいと昨夜の繰り返しのように呼びかけた。
数秒の静寂。
ガタガタと何かの物音がして、少し慌ただしく顔を覗かせたのは昨夜に別れたっきりの幽霊女。
腫れぼったく細い目をいっぱいに見開いて、女は忙しなく「あなた、あなた」と奥へ向けて呼びかけ、玄関というには隙間風の入り放題な扉まで小走りにやってきた。
「まさか、おいでになっていただけるとは。てっきり昨夜のあれっきりと」
「言ったでしょう。今夜は失礼すると。それに奥さん、あなた妖怪とはいえ身重ならあまりそう走ったりするもんじゃない。それで、こんな事を聞くのは申し訳ありませんけども、ご主人は」
「昨夜はすっかり気落ちしてふて寝しておりましたけれども、きっと水木さんのお顔をみれば元気になりますわ。今日は蛇と蛙が取れましたので。水木さんも、目玉のスープはいかがです?」
「……いえ、僕は結構。それとこれを、妖怪にとっちゃ大したものでもないかもしれませんが、昨夜のお詫びに鶏卵を少々。人間なんかはこれで滋養をつけるものですが」
「まあまあ、卵! ええ、ええ、もちろん妖怪にとっても卵はご馳走です。サ、どうぞ。ご存知の通りお客様をお招きできるような家でもございませんけども上がってくださいな」
女の案内で昨夜と同じ囲炉裏の前に腰を下ろす。
そうしてしばらく待っていれば、奥の間から包帯まみれの亭主が妻に支えられて姿を見せた。
「みずき、みずきや。まさか、再び会いにきてくれるとは。わしは、てっきりあれきりでもう二度とお主に会えんのではないかと」
「病人相手に怒鳴りつけるのも悪いと思って辞したまでだ」
「いや、お主の憤りも尤もよ。すがる身でありながら虫の良い事ばかりを言うた。お主の言うとおり、明日の見えぬ身とはいえ我が子の事じゃ、わしら自身でどうにかしようと思う」
「その事で、俺も話にきたんだ」
あいにくこの夫婦の家で茶が出ることは期待できず、出たところでそれが人間である水木の口に合うかもわからない以上、緊張に乾く口を潤すのは己の唾のみ。
ごくりと喉を鳴らし、水木は男の方へと向き直った。
「お前は昨夜、治療に当てはあれど訪ねる力がないという風に俺に言ったが、それはお前や奥さんが自力で向かわねばならないもんなのか?」
「水木、まさかお主が代わりに行くなどと言うつもりではなかろうな」
「そいつが俺でも辿り着けるようなところにあるならな」
「ならぬならぬ、妖怪の世界に立ち入った人間がどのような目に合うか、寝物語の一つも聞いたことがあるじゃろう。絶対にならぬ!」
急に語気を荒げたせいか、激しく咳き込む男の背を女が慌ててさする。
もちろん水木とて妖怪の出入りするような秘境に安易に足を踏み入れるつもりは微塵もない。
それこそ童話に出てきた山猫の料理店のように騙されてペロリと頭から美味しく食べられると言うのが定石だ。
「興奮するんじゃねえよ」
「誰のせいじゃと」
「あなた、水木さんのおっしゃるとおりですよ。ほら、少し横になって」
女に宥めすかされ、ケンケンと繰り返す空咳に苦しげにしながら男は半目になって渋々身を横たえた。
「俺が言いたいのは、子どもを任せるアテとやらに頼んじゃどうなんだって事だ。そいつも妖怪なんだろう。妖怪の世界の人情がどんなもんかは知らんが、子どもを任せても良いというぐらいの知り合いなら、せめてお前自身のことも知らせにゃ、死ぬから子どもをよろしくなんて話で終わりじゃ言われた方も堪らんだろう」
水木としては悪い考えではないと思ったが、しかし妖怪夫婦は困ったように眉を下げた。
「真っ当な、人間の考えじゃな」
「どう言う意味だ、そりゃ」
「わしらが最近になって、この廃寺に住み着いたように、妖怪というのはどこにでもいるが、しかし常に人間のそばにいるとも、限らんのじゃ。まして街灯が増え、開発だなんだと街並みが変わりゆく今、妖怪たちの多くは、山奥に姿を隠しておる」
「不思議なものですね。空を見ればカラスはあんなにいるのに、化けガラスはとんと見かけなくなりました」
「そいつは、つまり連絡を取るのは難しいって事か」
「そうさな……。しかし、気を落としてくれるな。お主がそうやって悩んでくれるだけで十分なんじゃ」
「なら、じゃあお前たちの子どもの迎えとやらは、一体いつになるんだ」
沈黙、それが答えだった。
死の匂いが強くなったような気がして、水木は口を覆った。
男は我が子のことは自分たちでどうにかしようと笑っていたが、どうにもならないのは明らかだ。
「何か、本人でなくていい。手近に言付けでも託せるような適当な妖怪はいないのか」
「少なくとも、東京近郊にはなかなかおらんかもしれぬな。この墓場など、一昔前なら夜中に駆け事や相撲でも取るのに良さそうじゃが」
それはそれで近所迷惑のように思うが、しかしこの妖怪夫婦がそのように言うのであれば、妖怪の伝手を辿ることさえ難しいのだろうと水木も認めるしかなかった。
考えてみれば水木とて妖怪の話は子守から聞かされたことはあれど実際に目にしたことはこの夫婦との邂逅を除いて一度もないのだ。
「医者とやらは、どうなんだ。妖怪の医者も居ると言っただろう」
「それこそ、難しい話じゃな。在所はわかっておるが、いかんせん遠すぎる」
「妖怪が遠いなんて、それじゃああの世にでもあるのか」
「まだ地獄の方が、近いわい」
乾いた呼吸で喘ぎながら笑う男に、女も口元に手を添えて金切り声を立てた。
「水木さんは、恐山をご存知ですか?」
「おそれざん、というと、あの奥羽の山のさらに奥にあるっていう、北海道の方がいっそ近いあの恐山の事ですか?」
「ええ。どんな傷も病も、それこそ死者さえ蘇ると評判のお医者様が居るそうで。と言っても、私も噂ばかりしか知らないのですけれど」
「わしもじゃ。腕利の評判もじゃが、治療費には、千両箱を持ってこいと、もっぱらの噂じゃった」
「っせ?!」
「あるいは、とれたてのイワナや、アユであったという、話もある」
それならまあと思いそうになるが、恐山のどこにあるかもわからないような妖怪の根城へ生きたイワナやアユを運ぶのもなかなかの難行だ。
しかし千両箱となると今の価格に直せば一千万円ぐらいになりそうだ。
金の価値として考えればもっと値が吊り上がるかもしれない。
だが一方で、それが命の値段と言われれば安いようにも思える。
水木にそんな金はないがこの国の欲深かな老獪共なら、喜んで「その医者をここへ連れてこい」などと呼びつけそうだ。
それで妖怪がのこのこ姿を見せるかといえば話は別だろうが。
結局この夜も水木は何もいえないまま妖怪夫婦の前を去った。
帰るよと言えば男の方が少し寂しげに肩を丸めたが、明日の晩まで死ぬなよと付け加えれば瞼もなくなってしまったような目を見開いて「気をつけて帰るのじゃぞ」と手を振っていた。
玄関先まで見送りにこようとした女に断りを入れて、ススキのさざめきに項垂れる。
自分でもおかしいと思うほどに水木はあの夫婦に入れ込んでいた。
無論それでも赤ん坊を引き取ってやることは難しいが、しかしいざあの夫婦がいなくなってしまって、そこに寄るべない赤ん坊だけが残されていたら、果たしてその子を養護院の庭先に捨てていけるかどうか。
取り出した煙草をくわえ、先をしがんで考え込みながらとぼとぼと歩く。
その足元はほの明るく、なるほどこれじゃあ妖怪が隠れるのも難しいだろう。
マッチを取り出そうとポケットを探っていると足元が一層明るくなった。
ついにここいらにも文明の灯り様がお出ましかと何気なく見上げ、はと開けた口からポロリと煙草が落ちる。
何もない空から目の覚めるような青い炎が黄色い火花を散らしながら垂れ下がっていた。
目も口も目一杯に開けた水木の前でくぅるりとそれが回って、見えたのは翁面のような顔。
「つる、べ、火……か?」
炎は何も語らず水木をじっと見下ろしている。
それこそ子守から聞かされた妖怪のうちの一つだ。
夜道にフイと降りてきて、何か悪さをするわけでもなくそこにあるだけの。
本物か、と手を伸ばしたが届くより先に遠のいて、横にゆらゆらと揺れる。
まるで子供が拒絶を示すようなしぐさで、はたと気づき水木も慌てて手を引っ込めた。
「あ、ああ、そうか、つるべ火だもんな。焼けちまうか」
今度は炎が縦に揺れる。
どうやら肯定を示しているようだ。
動揺を隠すようにしながら落とした煙草を拾い砂を払う、とその手元を照らすようにつるべ火が近いてきた。
「……もしや、お前さん俺に火をくれようってのか」
また縦に揺れる炎に、ならば遠慮なくと咥え煙草のまま顔を近づける。
眩しいほどの明るさだと言うのに顔に熱さは感じず、しかしチリチリと葉っぱの焦げる匂いはして。
息を深く吸い込めば馴染んだ煙が肺へと行き渡った。
夜空へ向けて吐き出す。
「街中にゃ、もう妖怪はいないと聞いていたが」
つるべ火がゆらゆら横に縦に複雑に揺れる。
言葉を話すタイプではないのが、その意図は読みづらい。
「ここいらに住んでるのか?」
横に揺れる。
「最近になって移り住んだのか?」
横に揺れ、それから縦に揺れる。
どうやらこれは否定と肯定のどちらも示したい時の仕草らしい。
フイにピンと閃き、水木はハッとつるべ火を見た。
「お前さん、あの妖怪夫婦の知り合いか!」
炎は揺れず、ただ水木を訝しげに見ていた。
どうやら違っていたようだ。
ズバリ判じ絵の答えを言い当てたつもりのような気持ちであったため、水木は込み上げる羞恥になんでもねえよとたばこをふかしてそっぽ向く。
ぷかぷかと水木が煙を吐き出す間、つるべ火はどこへ行く様子もなくあたりを照らしていた。
あの妖怪夫婦もそうだが、人に危害を加える類ではない妖怪というのは存外人懐こいらしい。
「つるべ火、お前俺だから良いようなものの、あまり人にちょっかいかけるんじゃないぞ。怖いもの知らずってのがいるからな」
それこそ瓶詰めにでもして消えない不思議な炎だのと言って子ども騙しに売り捌く連中が出てきそうだと忠告すれば、つるべ火が馬鹿にするなとでもいうように火力を上げた。
その時は少し顔に熱も飛んできたので、なるほど自分の体だけあって熱さも明るさも自在らしい。
ならばと水木はもののついでと再びつるべ火へ向き直る。
「行くあてがないんなら親切ついでにちょっと頼まれてくれないか?」
ゆらりとつるべ火が顔をこちらへ向けたので、水木は煙草をつまみ、その先端で来た道を示した。
「このススキ野の先を行くと荒れた廃寺があってな、そこにさっき言ったように妖怪の夫婦が住み着いているんだ。よけりゃちょいと見舞いでもしてやってくれ」
この寡黙な炎に言伝を任せられるかどうかはさておき、人間の見舞いより妖怪が顔をのぞかせる方が少しなりと気がまぎれるかもしれないという、単なる思いつきだった。
うまくすればあの夫婦の知り合いとやらにも連絡がつくようになるかもしれない。
幸いこのつるべ火は善人ならぬ善妖怪のようである。
水木の思いつきに何度か明滅しながら縦に揺れたので、おそらくは引き受けてくれたということで良いのだろう。
「とはいえ河童ならきゅうり、狐なら油揚げだが、つるべ火に礼をとなると薪か炭でも用意した方がいいか?灯油という手もあるが」
水木の問いかけにつるべ火はしばらく考え込むようにあたりをくるくると周り、やがて炎の一筋を手のように伸ばしてくるとその先端は水木のポケットを示した。
「ん、ああマッチ……なに、違う?」
ならばと引っ張り出したのは潰れかけの煙草の箱。
もしやこれかと残り少ない中身を見せればつるべ火が火花を散らして揺れる。
「そりゃこれで良いんなら構わないが、お前さん吸えるのか?」
ひとまず一本取り出して見せると、つるべ火は口らしき部分をぱかんと開けてみせた。
炎の塊に煙の素のようなものを投げ込んで、果たして本当に大丈夫なんだろうかと疑いつつポイと一本投げ込んでやる。
するとつるべ火はまるでチュウイングガムでも楽しむかのように口と思しき部分を動かし、ぽぽと煙を吐き出して目を細める。
どうやら気に入ったらしい。
「だったら全部やるよって言いたいが、お前さんの体じゃ今やっちまっても燃えちまうだろうな。俺が吸ってる時なら分けてやるから、俺が一人の時にでもまた出てきてくれよ」
縦に揺れたつるべ火はそのまま上の方へスルスルと上っていき、やがてフイと消えてあたりは闇に包まれた。
なんだか夢でも見ていたような心地でほうと煙を吐き出す。
けれども隣家に妖怪夫婦が住んでいるぐらいなのだ、つるべ火とて夢ではなかろうとのったりした足取りで家路に着いた。