巧右ショート1、巧 が こちら を 見ている▼(1)
「おい」
然程大きな声でもないのに、その呼び掛けだけは真っ直ぐ豪に届いた。思えばいつだってそうだ。巧の声は、巧が投げる球のように真っ直ぐ、豪へ向かって飛んでくる。うん、そっくりだ。それが受け止められるのかどうかはさもありなん、というところまで。
巧の視線が豪の手元に下る。先程買ったばかりのペットボトルは一口だけ飲んでそのままだ。汗をかいているみたいに湿っていて、少しぬるい。
「全然水減ってねーじゃん」
ちゃんと飲めよ。
そう言って巧はそっぽを向いた。先程までぴったり首に張り付いていたインナーを少しずらしている。扇いだ隙間から見える日に焼けた肌、桃色と白のコントラストを描く皮膚の上を、玉のような汗が伝った。豪は目を逸らした。何となく見ていられなかった。そう思った自分も馬鹿みたいだった。
油蝉は相変わらずミンミンと喧しい。しかし、騒音のカーテンによって、木漏れ日の下、豪はそこだけ周りの空間から切り取られているような気がしていた。巧と二人、目の先にグラウンドがあるのに、それもどこか遠いような心地だった。
豪はマウンドを眺めていた。いや、マウンドの上に立つ己のバッテリーの姿を幻視していた。
視線の先、燦々と焼き尽くすような太陽があらゆるものの色を奪っている。そこにただ、ぽつんと、中央に巧がいるのだ。まるで白い絵の具を垂らしたかのように、清潔なユニフォームが何よりも目に痛かった。おかげで豪の瞼には巧が焼き付いている。目を閉じるだけで巧の投球が一から十まで…直立し、構え、しなやかに振りかぶるところまで、全てがコマ送りで再生された。
瞬きして、横を見る。巧が此方を訝しむように見詰めていた。豪と目が合ったことで、何か言おうとするみたいに口を開き、視線をふらつかせ、また黙った。言葉を探しあぐねているようで、巧には珍しい姿だった。そんな素振りは豪には面白く感じたし、同時に言いようのない苛立ちを感じた。
「いけるか?」
聞いたのはどちらだったか。どちらでもいいが、そのあとの二人の間に言葉はなかった。豪は立ち上がって腕を回した。向かいで招集するコーチの声がする。
ちらりとマウンドを見遣ったが、そこにはもう誰もいなかった。
2、巧 が こちら を 見ている▼(2)
給水塔の影に集まって、いつもの面子で弁当を食べる。
巧が鮭を解す様に、豪は自然と目がいった。器用に骨を外す箸使いは美しい。
巧はいつもしゃんとしている。思えば、食事の前には手を合わせるだとか、人の家に上がるとき靴を揃えるだとか。日常の一コマ、ほんのささいな素振りに彼は、所謂育ちの良さというものが滲み出ていた。普段家族を疎ましがってはいても、結局は骨の髄まで染み付いている。それは擽ったいことでもあり、やるせないことでもあった。
自分も、そうなのだろうか。母のことは好きだ。感謝だってしている。でも、どうしようもなく逃げ出したくなることがあった。あの眼鏡の奥、縋るような視線に叫び出したくなることがあった。おれも母に似ているのだろうか。母を煩わしく思う一方で、無意識の内に…家族との、縁、というか、繋がりのような何か。そんなものが、おれを構成する一部として表に顕れてしまっているのだろうか。
そう思うと、妙にバツが悪かった。
「…なに?めっちゃ見てくるじゃん」
「ん、いや、巧が食べてるものって美味そうに見えるな、って」
「なんだよそれ」
憮然とした表情で、巧は漬け物を口に入れた。薄い唇が開き、真珠のような歯がちらりと見えた。
「あー、それわかるわ。原田がイチゴ食っとると俺ももう一粒!、ってなるなる」
「まあ普通にサワんとこのイチゴは滅茶苦茶上手いけどな」
「普通と滅茶苦茶って、どっちだよ」
ふふ、と鼻から抜けるような笑い声をヒガシが立てる。空気が弛緩したような気がした。口許が緩む。尤も、変に強張っていたのはおれだけだっただろう。
視線を感じて向かいを見れば、巧と目が合う。おれは何か冗談でも言いたくなって口を開いたが、結局何も思いつかず白米をかき込んだ。ただ、悪い気はしなかった。
3、白い風(色々と注意)
「ボールが、」
「え?」
「ボールが、右手にあるんだ。おれは、確かに今、ボールを…握ってるんだ」
巧が言った。おれに話しかけるというより、胸の裡からぽとりぽとりと零れ落ちた言葉のようだった。
おれは何も言えなかった。何か言ってやりたい、と思ったけれど、開いた口から出たのは呼吸一つ分の空気、それだけだった。
巧は宙を見ていた。いや、何も見ていないのかもしれない。
巧の目は、かつて猛禽の目だった。人を射抜くような、突き刺すような、心の奥まで届いてドキリとさせるような、あの眼光。捕食者の、狩人の、鷹の、キツい眼差し。
その面影を微塵も遺さぬ目で、いま、巧は何処かに視線をやっていた。つるりとした眼球は硝子のように見える。無機質な照明を反射し、青白く光っていた。
微かに開いた窓から、ふわ、と湿った風が入ってくる。一雨降るのだろうか。コンクリートが濡れたような、そんな匂いがした。
病室は嘘みたいに静かだった。巧の纏う素っ気ない貫頭衣も、その不自然な凹みも、風に揺れる真っ白なカーテンも、なにもかも全部嘘みたいだった。
4、晴天の下で手を翳す
「兄ちゃんより伸びるかなあ」
そう言ってあいつが笑ったのはいつだったか。澄み切った空気、青々とした緑の中、これまでの遅れを取り戻すように、弟はぐんぐんと背を伸ばした。
雨後の筍のような、という表現は背丈には使えないんだったか。兎も角、周りの大人たちもびっくりするような速度で丈夫になっていく青波。あんなに小さかったのにな。嬉しそうに背丈を柱に刻む姿を尻目におれは生まれたばかりの青波に引き合わされたのを思い出した。
「かわいいでしょう」
母は疲れた顔で、しかしどこか楽しそうにそう言った。おれは初対面たる弟の顔を覗き込んだ。…正直、猿にしか見えない。弟だというそれは、しわしわで、ふにゃふにゃだった。頬をつつくと、今度は猫の子のようにむずがる。ちいさい、と言ったおれに母は、巧もその内この子に追い越されちゃうかもよ?と笑った。それにおれはムッとして、「絶対うそ」とだけ言って黙り込んだ。はっきり思い出せはしないが、確かにそうした気がする。
そんな、小さくて柔らかくて壊れそうだった弟は、今こうして自らの傷の一つ一つを嬉しそうに数えていた。
流石に、まだ背を追い越されはしないだろうけれど。それでもそんな青波を見ていると、「それでもいいか」なんて思った。思ってしまった。自分でも不思議なほど穏やかな気持ちだった。
考えてみれば、随分前から青波の咳を聞いていない。静脈の透けて見える青白い肌も、翼を踠れた痕のような背骨も、微かに滲ませていた諦念の色も何もかもを道連れに、弟にへばりついていた翳りは面影さえ残さず消えていった。
吹けば倒れてしまいそうな少年はもういない。唯一、穏やかな気性をよく反映した優しい眦だけを遺して、今、青波は健やかに歳を重ねていた。同級生と白球を投げ交わし、太陽の下、子犬のようにじゃれあって、笑っている。薄らと日焼けした頬を紅潮させ、楽しそうに目を細めている。
(下書きでてきたけど続きが全く思い出せない。弟の成長に柄じゃなく感慨深くなってたのに、時折知らない男に見える青波に戸惑ってる巧くんがいた気がする。えっちだね)
5、おまえのそういうとこおれマジでわからん
えろトラップに引っかかった巧(は?)を救出した豪、その帰り道の会話
「……にしても、あんな変な生き物野放しにされとるのってヤバいと思うんじゃが」
「…」
「タコなのかヒルなのかよくわからんけど……ともかくあとで大人たちに言わなきゃだめだな」
「…おう」
「…」
「…」
「…というか、なんで巧はあんな辺鄙なところにいたんじゃ?確か○○町の方に行くって言ってたじゃろ」
「…ょ…」
「ん?」
「……道に、迷ったんだよ……」
「……おお、…」
「……」
「そっか…」
「…」
「…この辺、細かい道が多いから初めてならそんなもんじゃ」
「…」
「…目印になる建物もないし…」
「…ん……」
「…」
「…」
「…どうした?そんな黙りこくって。…もしかして、照れとんのか、ははは」
「……」
「…え?」
「……」
「え?!?!?おま、照れとんのか?!?!?」
「……」
「は?!?!?」
「…」
「イッてるの見られたときは平然としたツラしてたのに?!??!」
「…擦られたら、ほら、……出るだろ」
「いや、そうじゃなくて、ンンン!!」