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釣り糸を垂らすのが、いつしか二人の会話の終焉になっていた。
僅かに鳴った水の音など、すぐに川のせせらぎが流していく。後に残るのは、木々のざわめきと、鳥が鳴く声、絶え間なく流れる水音。
これがただの遊びならば会話でも何でもしながら和やかに嗜むが、ティア相手ではそういうわけにもいかない。
魚を釣った量で競う──釣り竿を手にしたときには必ず発生する勝負事がある。
ある日、釣りで競争しないかと提案したら、意外にもティアは話に乗ってきたのである。始めの頃は経験があるからとハンデを付けて楽しんでいたこの遊びも、最近は本気で挑まねば負けそうになることすらあった。
ティアは世間知らずな一面もあるが、元々の素質がいいのだろう。テッドが教えたことを幾度か試してみただけである程度身に付けてしまうのだから、末恐ろしいとすら思う。
ティアは岩の上から魚影を狙い済ます作戦に出たらしい。ならばとテッドは急流手前の水深がある部分に狙いを定め、近場の石へと腰掛ける。ここならば、何かがあったときもすぐにティアの元へと駆け付けられる距離だ。そんな言葉すら、今のティアには誘発剤になりかねない。
──今日は、夕飯分すら捕まえるのに苦労しそうだな。
未だに顰めっ面をして水面を見詰めているティアを見上げる。その酷い顔に、思わず吹き出しそうになるのをテッドは腹に力を入れ堪えた。
ティアはやってくるなり、怒濤の勢いでテッドに怒りの感情をぶつけてきた。思えば、家のドアを叩く力が普段よりも強かったような気もする。
今日は普段は誰も連れて行くことのない狩り場にティアを連れて行く予定になっていた。万が一に怪我なんてさせられないと、念入りに弓と矢のコンディションを確認していたのだが、どうにも都合というものは調子よく進まないものらしい。弦に油を塗っていた手を止める。
ティアが声を荒げるほど怒るのは珍しい、なんて悠長なことを言っていられないほどの怒張した様子にテッドは、
「何があった?最初から話してくれよ」
としか言うことができなかった。
ティアの言い分はこうだ。
今日の狩りをとても楽しみにしていたこと。グレミオに猛反対されたこと。行きたいのなら私も着いていくと言われたこと。彼を怒鳴りつけてそのまま屋敷を後にしたこと。
そして、未だに子供扱いされるのが嫌だということ。
元来ティアは育ちが良い。周りの大人が必死に止めるようなことを強行できるはずがない。現に、ティアのその手には見慣れた棍とともに釣り竿も握られている。ここに来た時点で既にテッドとの狩りは半ば諦めているのだ。
グレミオの発言はティアを子供扱いしているわけではない。傍から見ていると単に心配なだけなのだと丸分かりだというのに、当の本人に対してのみ伝わらない。クレオやパーンも同様の感情を抱いているだろうことが簡単に想像できる。
なんとかティアを言い包めて川へと連れ立ってみたものの、未だに機嫌の悪いティアは一切魚を釣り上げていない。同様に、テッドの釣り竿も寸分とも揺れることなく佇んでいる。
「ティア。そんな顔してたら魚もビビって逃げるぞ」
「……魚からは見えないだろ」
「いーや、分かるんだよ。お陰で俺の釣り餌にも全然食いつきがない」
正確に言えば魚が逃げる原因は表情ではなくティアの放つ張り詰めた空気ではあるのだが、この際どちらでもいい。
「俺もお前も釣れませんでしたって言いに行く姿を想像してみろ。それこそ、屋敷で赤っ恥かくぞ。いいのか?」
「……けどさあ」
遂には釣り竿から手を離し、ティアは膝を抱えた。子供呼ばわりを嫌っているのに、その所作はそれを彷彿とさせてくる。
──たかが数十分釣りに専念しなくたって、食い扶持には影響ないだろう。
テッドは釣り糸を水中から切り上げ、地面に置いた。そのままティアの腰掛けている岩へと飛び乗ると、背中合わせに座る。
「なあ、ティア」
返事はない。沈黙が、その先の言葉を待っているのだと言ってくる。
「お前の言い分はとても分かる。鍛錬して棍捌きだってこの町じゃ上に立つヤツがいないくらいには上手くなった──と、思う。でもさ、実力があることと心配する気持ちってのは全くの別物なんだよ。お前だって、百戦百勝のテオ・マクドールって呼ばれてても、遠征するテオ様のことを案じてるだろ?」
「……うん」
つい、口角が上がる。人付き合いなんてまっぴらだと思っていたテッドが、唯一世話を焼きたくなる存在。
人の中に揉まれそうな環境だというのに驕らず、繕わず、素直な感情を大切に抱いているティアだからこそ、傍にいたいと思っているのだから。
「甘えられるうちは甘えておいたほうがいいぞ?大人になったら、甘えたいなって思っても簡単にはできなくなっちまうんだからさ」
「テッドも──」
「え?」
「テッドも、甘えたくなるときってある?」
何気なく口にしただろう問いが、テッドの根底に燻る感情を突いた。
ゆっくり体を倒すと、すぐにティアの背中に触れた。体重をかけても嫌がることもなく、振り払われることもなく、為すがままに受け止めてもらえる。
テッドはそっと目を閉じる。
己を理解してくれる人が一人でもいてくれるだけで心が安らぐと、この数年で思い出してしまった。
「そりゃあ、あるに決まってるだろ?」
ティアが求めていた言葉はその先にあると感付きながらも口にしなかったのは、親友だからこそ己に縛りつけたくはないという三百年生きた人間の矜持だった。