群青 始まりは、その時から少し前であった。彼も知らずに。春風も、小雪も、あの古く重いダークウッドの扉の隙間を覗き込んだときからも、ずっと。あの日は、かすかに鳳仙花の香りがし、金木犀の匂いもした。
『結婚以来今はじめて、あなたは正直な私をごらんになっていらっしゃるのね』
黒曜石のような頭髪。丸みを帯びた頬。
『そう申しましょう。お似合いの夫婦でございましたわ。実にお似合いの…』
スラリとした細身の体格で、トールマンにしては小柄でも言える。
『でも良いことは永く続きませんのね』
おそらく、これからもまだ伸びるだろう。トールマンの気まぐれはそういうものだから。その高身長な体格で、そんな簡単に舞台を支配することができ。
腹立たしい。
ズルくて、腹立たしい、と、ほんの一瞬だけの湧いた気持ちがであった。カナリア王立芸術学園は頂点を目指すエリートなエルフに限られた舞台芸術の最高峰であるのに、何故このトールマンごときが?
何故彼はここに立て、息を吸うことができるというのか?
居るわけないはずなところなのに、あの古く重いダークウッドの扉はかつて、たった一度に彼の前で開かれたことがあった。そして、群青を誘いこんだ。たとえその時、舞台袖でうっすらとカーテンの陰に隠れていたとしても。
『今日限りおいとまをいただきます』
フレネルの灯りに染まった群青。
しかし、彼の頭の下げ方に、指先さえにも、やみごもりに引き去る動きの全部、全部、どことなく馴染みがある。見間違えるわけないほど、エルフそのものであった。まぎれもなく、「ミスルン」の面影をうつった。
「今日限りおいとまをいただきます」と、彼も一息を零した。
舞台の上の彼の音律にはミスルンがある。その姿勢、その音色、首の傾き、手首のひねりはミスルンにしか見えない。その完全無欠の模倣はまるでーーー
まるでー
「まぁ、結局彼が追いたかった足跡はあんたのだったのね」ミルシリルは手元に置いた紅茶を口にしたあと、言った。ベルガモットとオレンジの花のブレンドで、ミスルンのカップに入れているのと同じものだ。「あまり認めたくないけど」
指で陶器コップの縁をぐるぐるとなぞるミスルンは紅茶の水面にたどり着いた花びらが出来た波紋で春風を眺めていた。そのまましばらくして鼻歌まじりに、彼はミルシリルの頭から少し後ろ斜めの位置に、クロッカス園のやや先に、藤の茂みに覆われた彼女の息子に視線を向けた。
「それより、よく彼を巣から出したな 」ミルシリルの前では煙や鏡なんか必要なんてない 。墓場まで背負っていくと思っていた影はもうとっくにお見通しだ。良くも悪くも、安らぎと親族関係と共に彼女はそこに救いを見つけてしまった。笑えない話に聞こえるが、二人は高嶺の花と日陰の蘭のようだった。
ミスルンはケレンシル家の者に似つかわしくなく肩を落とし、長く震えたため息をした。
「この世界の片隅に恨みを抱いたんじゃなかったのか?」
私みたいに。
「望んだわけじゃないの!」
いつもなら彼女が頬を膨らませ、口を尖らせる姿は愛おしいものだと思える日もあるが、今日がそのような日なのかどうか、ミスルンにはわからない。
何故なら今日は、
今日は…?
今日はまたあの群青が目に付く。
一瞬ちらついて消える群青色の灯りと、丸みを帯びた耳の先と巻き毛の髪の下のうなじに夕暮れに降り注いだ赤み。
「うちの組の周年メモリアル公演覚えてる?ミスルンの学生デビューが重なってた舞台」
ミルシリルは曇った目でテーブルを睨んでいながら手のひらにつぶやいた。
「連れてきたの、あの子を」
あぁ。
あぁ、そうか。
そういうことだったのか……
『でも良いことは永く続きませんのね』とあまりにもゆっくりと、じっくりと、深く刻み込まれた記憶に動かせるようにミスルンが不意に言う。
「彼の入試のオーディションを見たんでしょう?」自分の指を組んでいるミルシリルの声は辛くて、静か。彼女が浮かべた微笑みのように苦い。
「一目惚れだったのよ」
一目惚れ、か……
「どおりで、トルーマンなんかが合格できるわけか」
一呼吸。そしてまた一呼吸。
「師匠も一流だから当然だがな」
「あんたにも責任がないように言わないで」
憧れでもなく。執着でもなく。
まるで、愛だった。
いや、まぎれもなく、間違いなくーーー
愛、だった。
ガキにしていい度胸だ。
愛を語れると思い込んだ少年なんか。愛を。
笑わせるな。
彼は彼の目に映ったミスルンを見せたくせに。自分でも見ることもなかった、自分では見えなかった姿を見せたくせに、一体何の権利を持ってるというのだ?
今まで輝きのかけらもないと思っていた演技。単に情熱を演じ慣れたのパスティーシュ。舞台の上での演技も。舞台裏での演技も。それは全部、ただの熱狂の操りに過ぎない。
そういうことだったはずなのに、スポットライトと偽りに浴びている世界と一片の繋がりもない少年がミスルンの足取り、ミスルンの声色、ミスルンの表情も身にまとい、鳳仙花と金木犀の匂いを心からの熱意と紡いで彼を、ミスルンを、見つけた。
「ミスルン先輩?」
あれもこれも全部、こうして、ミスルンのカナリア学園での最後の秋、一番近い場所でミスルンが一番輝いてる瞬間を見るためだった。
カーテンが下ろされたあと、制服のスカートの裾がひらりはらりと舞うミスルンの傍に立てるように。
「不思議だな……」と、ミスルンが言い始めた。「この瞬間を想像したとき、ここに立っている自分はきっとほっとして、やっと解放されたかと、いつも思ってた」
ミスルンは投光照明に背を向けてポジションゼロ、いわゆる舞台の真ん中にとどまった。拍手のざわめきが徐々に薄まれ、無数の足音の反響しも静寂の中に遠ざかって。彼は目を閉じ、この感覚を吸い込んだ。
「やっと、ここから離れる」囁くに、慎重に、それと、切なさに満ちた。
「で、次の旅立ちはどこへ向かうんですか?」カブルーの声は身を委ねられる家のように、巣立ちの木のように、柔らかい。
今に至るまでミスルンはもうすっかり根を下ろしてしまった。2年前の夏ですら、この卒業の舞台で超新星を咲かせ、花火のように散ってしまうことしか頭になかったというのに。
辛いだという予想なんて、一切もなかった。
「この世界の片隅に帰る」と、彼は息を切らしながら言う。
「お前がここに居るなら、私はまたここに戻る道へ飛び込む」
ミスルンの舞台への愛は、クロッカスと藤の花に包まれた。彼の演技への愛は、夕暮れに彩られた。
彼の愛は、今に至って耐えられないほど眩しいと思っていた世界の片隅に潜んでいた。
そして、愛とは、閉じたまぶたの裏に隠された群青であり、つま先で立っていないと届かない、ミスルンの肺に命を吹き込むカブルーの息である。