生存if 0 神の子羊彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
イザヤ書 53:5
ジーザスがその預言書を読んだのは、9歳の時のことであった。
その日ジーザスたちは、親族の大規模な集まりがあり、親戚の家に来ていた。
両親はまだ幼い妹で手一杯で、その時の母は既に末の妹を妊娠していたこともあり、ジーザスのことはあまり構えなかった。
ジーザスは、会話に妹の世話に忙しい両親から静かに離れ、大人たちの間を縫って歩く。
今度生まれてくる子も、母や妹、そしてここに居る他の親戚の大多数と同じように、きっと金髪だろうと思った。
幼い頃大人しかったジーザスは、元気に遊ぶ親戚の子供達を避け、静かな階段の方へと向かう。
そこに、従兄弟のヨハネが座っていた。
静かに本を読む彼の姿を見たジーザスは、戸惑って立ち止まる。
確かヨハネは母マリアの姉エリザベスの息子で、もちろん以前にも見かけたことはあったが、話したことは無かった。
何せ親戚の数が多く、深い親交がある者たちばかりでもなかったのだ。
ヨハネはジーザスより一つ年上なだけのはずだったが、ジーザスにはひどく大人びて見えた。
ヨハネが何やら真面目な顔をして分厚い本を読んでいたからかもしれない。
綺麗に刈り込まれた金髪と白いシャツが眩しくて、サスペンダー付きの黒い半ズボンは綺麗にプレスされており、ヨハネの家庭は自分のものより裕福なのだなとその時のジーザスは子供ながらに感じた。
ジーザスは迷ったが、なるべく間隔を空けて、ヨハネよりふたつほど下の段に座る。
ヨハネはジーザスをちらりと見たようだったが、すぐに興味を失ったようにまたすぐに本に視線を戻したので、ジーザスはむしろ安心した。
だが、ここで平和にぼんやりと座っていようと思っていたのに、ヨハネの母が暇そうなジーザスを見つけて話しかけてきてしまった。
マリアが同級生の母たちの中でもかなり年若いのと対照的に、ヨハネの母のエリザベスは随分と年嵩に見えた。
実際、ジーザスやヨハネの若い祖母とも言えるくらいの年齢だったのだ。
何度かマリアとエリザベスが一緒にいる様子を見たことがあったが、姉妹というよりは母子に見えた。
そして、二人の態度もどこかよそよそしく、緊張感のあるものであったことも覚えている。
ジーザスは当時その意味をよく分かっておらず、”異母姉妹”の意味を知るのももう少しあとのことだった。
みんなと遊ばないの?大丈夫?と聞かれて、ジーザスは赤面するだけで答えられなかった。
エリザベスはそんなジーザスに微笑みかけ、ヨハネの脇に置かれた数冊の本を指差す。
「ヨハネ。本を貸してあげなさい」
ヨハネは驚いたように顔を上げと、不服そうに黙って母親を見つめる。
そんなヨハネを、母親は腰に両手を当て、顔を少し顰めて見つめ返した。
「聖書はみんなのためのものよ、ヨハネ。貸してあげなさい」
信心深い家庭のようだった。
こんな場に本をニ冊も三冊も持ってきているヨハネも、教育方針通りに信仰熱心な子供に育っているらしい。
ヨハネは渋々ジーザスに本を一冊差し出し、ジーザスが受け取る。
その様子を満足そうに見届けた母親はその場を去った。
どうしよう。
返したほうが良いだろうか。
母親の姿が見えなくなり、ジーザスはヨハネをちらりと見たが、特に取り返したがる様子も見せずヨハネは再び手元の本に視線を落としていた。
ジーザスは仕方なく、本を開いた。
ジーザスの家にも本はあり内容も所々把握はしていたが、特別熱心に読み込んだ経験はない。
特に手元の本は、ジーザスが読んだことがないもののようである。
ジーザスは、ちょうど開いた箇所である、52章を初めから読み始めた。
二人は、しばらく静かに本を読み続けた。
ヨハネは本から目線を上げ、ジーザスの様子を伺った。
先ほどから、本を捲る音がしなくなっていた。
飽きて寝ているのかとも思ったが、目は間いたまま、手元のページを真っ直ぐに見下ろしているようである。
ヨハネが少し身を乗り出しジーザスの横顔を覗き込むと、ヨハネは驚いて目を見開いた。
「どうしたの?」
ジーザスはページの一箇所を見つめて、目に涙を浮かべていた。
話しかけられ、ジーザスは慌てて涙を拭く。
ヨハネはジーザスの隣に移動して本を持った手元を覗き込むと、ますます目を丸くした。
「…この人」
ジーザスは、本を見つめながら呟いた。
「皆を救いたかったんだなって」
何故急に泣けてきたのか、ジーザスにも訳が分からなかった。
ただ、物言わず人々のために苦難を掻い潜るこの者の記述を読んで、胸が張り裂けそうになってしまったのだ。
彼の気持ちが、ジーザスには何故か分かる気がした。
「僕もこの本のここが、一番好きだ」
ジーザスは、優しい声色に驚いてヨハネを見上げた。
先程まではジーザスに一切興味が無かった様子のヨハネは、いまや宝物を見つけたかのように瞳をきらきらさせてジーザスを見つめていた。
「君は…」
ヨハネはどきどきするジーザスに、その日はそれだけを呟いたのだった。
そして時が流れ、30歳になったジーザスはヨルダン川に向かっていた。
必要になりそうなものは全て鞄に詰めて、重たかった。
川に近づくにつれ足元が凸凹と不安定になり、土の上を履き古したスニーカーが滑る。
汚れてもいない黒縁の眼鏡を、ジーザスは白いTシャツの上に羽織ったネルシャツの裾で何度も拭いた。
やがて、大勢の人の気配がした。
軽く傾斜になった地面を登ると、何人かの頭が見えてくる。
陽気な音楽が流れ、がやがやと喋り声がしたが、自分の心臓の音にかき消されてあまりよく聞こえなかった。
人々に囲まれた男性が1人、こちらを正面にして立っている。
その姿に、かつてジーザスが知っていた面影はほとんどない。
色褪せたTシャツに、裾が解けかかったくたびれたジーンズ。
肌も、ドレッドにした金髪も日に焼けて乾き、足は何も履かず、土で薄汚れている。
だがジーザスが手に持った眼鏡をかけると、ほんの少しだけぼやけていた顔の仔細がはっきりとして、懐かしいヨハネの顔がくっきりと浮かび上がった。
ジーザスがいよいよ胸が詰まって足を止めると同時に、ヨハネがこちらを見るのが分かった。
一瞬驚いた表情を浮かべたが、やがてにやりと笑みを浮かべてからジーザスを指差す。
「見よ。神の子羊だ」
思えばジーザスは、とっくの昔から自分の運命がずっと分かっていたのかもしれない。
ヨハネが幼いジーザスに”子羊”とあだ名を与えたその日から、ずっと。