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    itara_zu

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    itara_zu

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    トワイライト・ワンダー・ラスト・ダンスの続きの冒頭 8月に本になります
    司類
    前あげたやつの校正後です

    透明人間のイデー 今や天馬司の名を聞かない日はない。アメリカを拠点とし、世界をまたにかけて活躍するスターは、数年前、高校生の頃の壮大な夢を見事現実のものとした。
     あの舞台で満員御礼大喝采、追加公演決定かと思えば、コメディ番組で爆笑を掻っ攫ったりもしている。もはや司の活躍の舞台は〝舞台上〟だけではなく、無限にぐんぐん広がっていた。
     類は、すっかり英語が上手くなったと感心しつつも、いったいいつ休んでいるのかとあきれ果ててしまった。司は一人だけ一日が四十八時間の世界線を生きているんじゃなかろうか、なんて冗談がいささか現実味を帯び始めている。それほどまでに司は精力的で時の人だった。
     渡り鳥のようにひとところに留まらない司に対し、類は、日本に軸足をおきつつ徐々に世界に出て行くところだ。演出家メインに絞り、自ら舞台に立つのはめっきり減った。役者として名を轟かせる司に比べれば、表に出ない役回りだ。一般的な知名度も低いだろうが、その道では知らない者はいないだろうと自負している。それなりに好き勝手やったから、比例して悪名もそこそこ轟いているようだが。
     司は、たとえ端であろうと類の名が載っている作品は撮って送ってくれと要求したし、毎度律義に感想を送ってくる。感想の端々に、寂しくないか、なんて気遣いを滲ませて。
     類はなんだかむず痒かった。平気だよ、もうセンチメンタルな年ごろでもないんだし。君が見てくれているのは分かっているし、僕だって君を見ているから。いつもそんなふうにあしらっている。
     たまにふと思うことはある。
     君の大声は、そろそろ聞きたいかもしれない。そんなこと、伝えられるはずもないが。
     司は忙しい身だ。会う暇なんてとてもない。電話だって、たいていどちらかが留守電だ。この時ばかりは時差が憎い。
     けれど、類は司の存在をすぐ側に感じている。
     道行を照らす一等明るい星。まばゆく照らすのは司の役目だ。彼は、いつかの我儘な約束を守り、叶え続けてくれている。きっと自分は司ほどギラギラしていないだろうが、それでよかった。類は、眩しくなくとも、司の道標になりたい。まっすぐ進むための、航海の希望の星。
     自分のショーは。この世のすべての——本当の意味でのすべての人へ贈るもの。そして、自分から目を離さない、司への祝福だ。

    ***

     司の新規の舞台の知らせがふつりと途切れてからしばらくたった。放映中の海外ドラマで顔は毎週見ているが、新規の仕事に関しては全く情報がない。
     何か問題でもあったのだろうか。
     おせっかいかもしれない。しかし、あまりに急に百が零になったのだから気にもなる。類はわざと軽い調子のメッセージを送った。
    『休暇かい? それならいいけれど。あんまりに君が忙しそうだから少し心配していたんだ』
     日本時間は午前一時、アメリカでは丁度昼時。——司が昼時に昼食を食べられる身だったためしはこのところないだろうが、それでも一番迷惑にならなさそうで、かつ類が起きていてもギリギリ叱られなさそうな時間。作業の手を止めて送ったメッセージには存外早く既読がついた。
    『まあ、そんなところだ。心配をかけて悪かった。元気だぞ』
     司の返信は、案外、いつもシンプルだ。対面でのコミュニケーションは大げさ、もとい情熱的な司だが、文章では声量が表現できないため、素っ気なささえ感じさせる。
    『休暇中はなにか予定でもある?』
     ないのならば、久しぶりに顔が見たかった、ちょうど自分が出演する舞台もあることだし日本に来てくれないか。追撃するより先に、通知が光る。
    『一度日本に帰るつもりだ。会えるだろうか』
     類は顔を輝かせた。もとより誘うつもりではあったが、交友関係が広い司から会いたいと言われるのは、優越感に似た喜びがある。
    『勿論! 日付が決まったら教えてくれるかい。君に話したいことが山ほどあるんだ』
    『ああ。オレも楽しみにしている』
     ふふ、と類は吐息を漏らした。実際会うのは何年ぶりだろうか。何から話そうか。
     先ほどまで薄く引き伸ばされた微睡みが霧のように脳を覆っていたが、すっかり冴えてしまった。今なら妙案も浮かびそうだ。行き詰っていた演出案でも練ろうかと机上に築いていたメモの山の天地を逆転させたところで、再度スマホが唸った。
    『ところで日本は今深夜だよな?』
     お説教の気配を感じ、類はスマホをメモの山の中腹に埋葬して、見なかったことにした。

    ***

     司が帰国する旨を聞いてから、類はその日を指折り数えていた。
     多分、少し浮かれていた。稽古に身が入らない、なんて素人臭いことはないが、「神代くん、最近楽しそうだね」なんて共演者から温かい目を向けられてしまう程度には。
     まさか「司くんが帰ってくるんです!」とも言えない。「はい、まあ、少しいいことがありまして」なんて適当に誤魔化すのが上手くなってしまった。
     今日の稽古が終われば、司と待ち合わせだ。時間を教えてくれたら空港に迎えに行くよ、と言ったが、慣れているから平気だと断られてしまった。迎えというか、回収のつもりだったのだが。
     司は目立つ。声の大きさや目を引く容姿は勿論、顔を隠して黙っていようと、香り立つようなオーラがある。そのうえ本人に隠す気がないから、すぐ騒ぎになる。
     本当の本当に大丈夫かい、と念押ししたら、本当の本当に大丈夫だというので信じることにした。今頃ネットニュースに書かれていないだろうか。
    「神代くん、ちょっといいかい」
     いつも落ち着いた調子の監督が、少し焦ったように上擦った声で類を舞台袖に呼んだ。天馬くんが、と興奮気味に続ける。
     ああ、言わんこっちゃない。空港でお手本のような腹式呼吸の大音声で高笑いする司が目に浮かび、類は顔を覆った。
    「天馬くんが辞めるっていうのは、本当⁉」
    「……え?」
     類は顔をあげて監督を見た。
    「司くんが、なんですって?」
     聞こえた音が、信じられない。
     類は声を低くして聞き返した。瞳孔がぐっと開いたように眩しく感じる。世界が嘘みたいだ。
    「だから、役者を辞めるって」
     監督もつられて声を落としたが、今さら手遅れだ。舞台上の全員、スタッフまでもが、息をのんで二人の会話に耳をすませている。
     〝あの天馬司が⁉〟と全員の顔にありありと顔に書かれている。
     類だって全く同じ気持ちだ。あの天馬司が舞台を降りる⁉ スターになるために生まれてきたような彼が⁉ 天地がひっくり返ったって、星が落ちたってなさそうなことなのに。
    「僕は……聞いていませんけど」
     類が言うと、監督とその他大勢が安堵の溜息を吐く。
    「それは、オフレコの話、とかでしょうか」
     情けなくも、少し声が震えた。
     監督は首を横に振る。
    「いや、ただ、本当に、噂程度で。神代くんが聞いていないっていうならデマだろう。……まったく、とんでもない話だよ」
    「そう、ですか」
     どうだろうか。類は目を伏せた。
     司はちっともそんなそぶりはなかったが、火のないところに何とやらと言うし。類が足元の火事にすっかり気づかなかったり、司が巧妙に気取らせなかったりしたわけではないと、断言することはできない。そもそも数年会っていないのだから。
     視線を彷徨わせる類の肩を監督が軽く叩いた。
    「稽古中に悪かったね。本当に、びっくりしてしまって。だって、天馬くんだからさ、そんなことあるわけないと分かっていたんだけれどもね。君のこともびっくりさせてしまって申し訳ない」
    「ああ、いえ、とんでもないです」
     一つ息を吸って、もう全く平気ですよ、というふうに微笑んでみせた。それでも馬鹿になった心臓は未だどくどくと余計に血を送っていて、頭が少しくらくらした。
     「キリがいいし、一度休憩にしようか」と監督は全体に向かって言った。
     次いで、今度こそしっかりと声をひそめて、類にだけ聞こえるように「悪かったね」と眉を下げて言った。年長者には、類の動揺と下手くそな取り繕いはすっかりお見通しらしい。
    「噂だよ。根も葉もない。大丈夫だろう。天馬くんはそんなことあったら、君に一番に言うだろうし。……万が一にもそんなことはないんだから」
    「ええ。大丈夫です」
     なんなら、司本人に連絡して聞いてしまえばいいのだ。類はそれができる仲だ。
     舞台袖でスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。司からの連絡は特にない。ぼんやりと顔を照らす液晶をしばらく眺め、指を空中で彷徨わせた。
     どう切り出すべきか分からない。ストレートに聞くのは、まるで噂を信じてしまっているようで躊躇われた。まるで司を信じていない愚か者、友人の風上にも置けない。
     結局何も送らず、未練を断ち切るように電源も落とした。どうせ顔を合わせたら聞くことになるのだから、焦って確かめることもない、と自分に下手な言い訳をして、納得したふりをした。延命治療にもならない逃げの一手だが。
     よりにもよって今日噂を聞いてしまったのは最悪だった。逃げ道がない。もし噂ではなく本当のことだと言われてしまったら、自分はどんな顔をすればいいのか。どんな顔をしてしまうのか。
     真っ暗な画面にうつる自分は、今にも泣き出しそうな迷子のように顔を歪めていた。

    ***

     少し押した稽古が終わったのは17時過ぎ。司に待ち合わせに若干遅れる旨を連絡すると、「先に店に入っている。ゆっくりでいいぞ」と返された。
     それでも類は駆け足で店に向かった。春の淡い桃色を帯びた風に綯い交ぜにされた髪を整えるのもそこそこに、店に入る。
     初老の女将に案内された個室の襖を滑らす。
     小さな座敷の真ん中に姿勢よく正座していた懐かしい、されど見慣れた人がパッと顔をあげた。それだけで室内が華やいだ。
     嬉しくてしかたないというふうに蜂蜜色を緩め、口角を擡げた司は、るい、と言って笑った。
     類もつられて微笑む。
    「久しぶり、司くん。本当に」
     ほぼ毎日画面越しに見ていた顔とはいえ、実際は軽く一年以上会っていなかった。
     もう少年の影はすっかり失せ、青年と呼ぶのがふさわしい年齢だ。所作にも、昔はなかった落ち着きがある。けれど、くるくるとよく動く大きな目が、いい意味で年齢を感じさせない。
     司は立ち上がり、瞳いっぱいに喜色を湛えて、腕をがばりと広げて類に抱きついた。
    「会いたかったぞ‼」
     部屋を震わす大音声。
     自分の方が背が高くてよかったとつくづく思う。もし身長が逆だったら、類の鼓膜はここでダメになっていた。
    「わあ、これだ。これぞ、本物の司くんに会ったってかんじだ」
     体幹を鍛えている類でもたたらを踏む勢いに苦笑いしつつ、少しのむず痒い照れを振り切って、類も司の背に手を回す。頬に、陽光のようなやわらかな髪の感触。
    「僕も会いたかった。会えてうれしい」
     司は、自分は躊躇なくやるくせに、少し気恥ずかしそうに身じろいだ。

     この時間はあまりに貴重で美しくて、酒精で馬鹿になってしまうには惜しい。大人になったからといって酒が介在しなければ話せない仲なわけでもない。せっかくの良い店ではあるものの、類も司も素面で話に花を咲かせていた。
     この間、類は大きな舞台の演出補佐に異例の若さで抜擢され、無事その大役を務め終えた。多少のやっかみはあったが、類は年功序列をないがしろにはしないものの、さほど重んじる性質でもないため、気にすることではなかった。
     司はその舞台を見たらしく、引き合いに出した。
    「あの、舞台一面に水を張ったのは凄かったな。よくもやろうと思ったな。びっくりしたぞ、信じられなかった。幻想的というか、〝この世じゃない〟ってかんじがした」
    「水を張るっていう舞台の前例はあるんだ。実際見るとなかなか圧巻だよ。それにプロジェクションマッピングを組み合わせることで、水しぶきの偶然性と水面の揺らめきの偶然性が掛け合わさって、再現性のないくらくらするような美が表現できるんだ。天国、神の国、極楽浄土、ニライカナイ、あるいはファンタジー。使える場面はけっこうあると思うんだ。まあ、予算もくらくらするぐらい喰ったけれどもね。二度目はないかもしれない。……司くんは、早口言葉を言わされていたっけね」
    「しかもフランス語で、だ‼」
    「コミカルな表現としては秀逸だよねえ。だって、たしか、アメリカでの公演だったろう。フランス語だから、聞いている方が内容を理解できるかどうかは勘定に入れず、というか、理解できない前提だろうけれど、でも無条件に笑わせることができる。そいうものはあまりないからね。……ところで僕が見た公演はしっかり言えていたようだけれど、他のときも言えたかい?」
    「勝率は三分程度だったな」
    「劣勢じゃないか! まあトチっても面白いっていうのがまたいいところだよね。今度真似させてもらおうかな」
    「役者が泣くからやめてくれ」
    「司くん、泣いたの」
    「悔しくてめちゃくちゃ練習した」
    「君はそうだろうね」
     類は、いかに練習がつらかったかとか、夢にもフランス語が出てきたのだとか滔々と語る司の表情をちらりとうかがった。
     いつもどおりだ。舞台が大好きで、舞台に愛されていて、スターたる天馬司、類の一等星。
     到底、役者を辞めるなんて噂がたっているとは思えない。
     きっと、少しばかり露出が減ったから、心配性な誰かが言ってみただけにすぎないものだったのだろう。だって、辞めんとしている人がこんなに楽しそうに眼を輝かせて舞台の話をするわけがない。
     ふ、と詰めていた息を吐き、唇を緩めた。
    「類? どうかしたか」
     司が首を傾げる。少し伸びて目にかかる程度になった前髪がさらりと流れた。
     類は、自分を半日悩ませたくだらない噂話を司にも笑い飛ばしてもらおうと口を開いた。
    「ううん、なんでもない。君が舞台を辞めるだなんて噂していた人がいたんだ。まったく、嘘じゃないかって、おかしくなってしまった」
     司はアンバーの大きな瞳を丸くして数度瞬きさせた。
    「なんだ、随分耳が早いな」
    「え、」
     真空に放り出されたように、いきなり世界ごと音が遠くなった。
     少し眉を下げた司は、それでもこともなげに言った。
    「いや、全部本当のことってわけじゃないな。どうしようか考えている。辞めると決めたわけではないんだ、まだ」
     類は二の句が継げなかった。持てる言葉を全て忘れてしまったように、ただ司の顔をじっと見ることしかできなかった。息を吸い込む音に似た小さな悲鳴のようなのが、勝手に喉を鳴らした。
     司が目を伏せ、睫毛の影が頬に落ちる。
    「そうだな……。セカイで、話そうか。オレたちは大切なことはよくセカイで話していただろう」
     セカイ。久しぶりに聞いた。
     卒業してからめっきり行く機会が減った。あくまで司のセカイだったから遠慮もあったし、各自違う方向を向いて、外向きの問題に対処していたからだ。いつしかワンダーランズ×ショウタイムとして一つの問題に全員でかかずらうことはなくなっていた。
     思春期特有の、内側から湧き出る葛藤より、体内を吹き荒れる嵐より、どうしたって飲み下さざるを得ないような、バーチャルシンガーに相談しても仕方のない大人の問題の方が世の中には多かった。
     けれど、司はごく自然に、まるで昨日も行った場所のように提案した。まだ司とセカイの路は繋がり続けていたのかと、類は痺れた脳でぼんやりと考えた。それは類を僅かに安心させた。
     類は小刻みに震える指で音楽アプリを開いた。プレイリストを何度もスクロールする。ずっと下の方から「セカイはまだ始まってすらいない」を見つけ出した。
     司はそれをじっと見ていた。
     何度か爪で画面を引っ掻いて失敗しながら、やっとのことで再生ボタンを押す。
     軽快なイントロ。数年聞いていなくたって、唇は自然にメロディーを紡げる。
     そして、瞼の裏に、淡く、星が散った。

     ふ、と内臓が浮くような奇妙な感覚は、一瞬。すぐに身体は重力を思い出した。爪先で蹴るようにして、類はセカイに降り立った。
     変わらない景色だ。ファンタジックで、不思議で、無性にワクワクする、子供の無秩序な玩具箱をひっくり返したような、小さな宇宙。その不変さが、やけに類を安心させた。
     辺りを見回すが、司はいない。
     学生時代に、現実世界での距離とセカイに行った際の距離の関係について真面目に考察したことがある。数㎞——おそらく世界の端から端までより離れた距離——からセカイに行ったときはどうなるのか、位相が重なるようなことはあるのか、身体と共にセカイに持ち込めるもの——衣服やアクセサリーなど——の判断は、そもそも一度分解され元素として転送され再構築されているのか、それは元の自分と同一か、などなど、類の底なしの好奇心は満たされることを知らなかった。
     度重なる実験の結果をもとにすると、大体同じ場所からセカイに行ったら5mも離れていないところにいるはずだ。数年のうちにルールが変わったのだろうか。首を捻る類の耳を、懐かしい少女の声が掠めた。
    「あっ! ねえカイト~☆ やっぱり類くんだったよ~!」
     弾む声とともに、劇場のテントから赤い猫耳がぴょこんと飛び出し、次いで、宝石のような瞳を輝かせ、ミクが顔を出した。ミクはぐんと背伸びをして、類に大きく手を振った。
     尻尾を揺らして駆けよったミクは、勢いはそのまま類に飛びついて抱擁した。
    「久しぶりっ☆」
    「……うん、久しぶりだね、ミクくん」
     もう3年程は会っていなかったはずだ。
     けれど、再会を喜ぶ言葉とはうらはらに、まるで昨日も会ったようにミクは笑った。そのギャップに類は少し眩暈がした。
     バーチャルシンガーは歳をとらない。類は相応に歳を重ねたが、ミクはちっとも見た目が変わっていない。もしかすると、時間感覚も人間とは違うのかもしれない。類の不在の数年間は、もしかしてミクにとっては瞬き程度の間だったのだろうか。類は油をさし忘れた機械のようにぎこちなく微笑んだ。
    「……ミク。類くんも困っているよ」
     ゆっくりと歩いてきたカイトがミクを引きはがす。海の一番深いところから汲んだような瞳をゆるやかな弧にする。
    「また会えてよかったよ、類くん」
     カイトは腕を広げ、愛情深く類の肩を軽く抱いた。
     瞬間、類は勘違いを悟った。抱擁の熱が全てを語っていた。
     彼らは時間感覚が違うのではない。信じていたのだ。類たちが再び世界に来る日が訪れることを。そして、きっと同時に、二度とその日が来ない覚悟もしていたのだろう。
     ひどく残酷なことだ。その在り方も、それを当然そうあることだと断じて享受してしまうことも。
    「……カイトさん、僕……」
    「いいんだよ」
     類の言葉をカイトは手で制した。
    「僕たちはそういうものだから、いいんだ。君たちの成長を慶ぶもの、ただそれだけ。……けれど、再び会えたことはとっても嬉しいよ。覚えていてくれて、僕らを必要としてくれてありがとう」
     僕らは記憶に係るものだから、とカイトは微笑んだ。
     類はこのヒトに随分年齢は近づいたはずだが、まだカイトの方が一枚上手らしい。類の謝罪は見事に封じられてしまった。柔く唇を噛む。
     類は再度辺りを見回した。これほど待てば、しかもミクがきゃらきゃら喜んでいれば、いくら司が離れたところに着いてしまったとしても類の場所を悟りそうなものだが、一向に姿が見えない。
    「……あの、司くんは、来ていませんか。一緒のところにいたので、どこかにいると思うんですが」
    「司くんは……」
     ミクは途端に顔を曇らせ、言葉を濁した。消えかけのそれをカイトが引き継ぐ。
    「司くんは、今は来られないんだ」
    「……セカイに、来られない? そんなことがあるんですか」
    「うん、僕らも驚いたよ」
     でも、そうみたいなんだ、とカイトが神妙に溜息をこぼす。
     類はぱちぱちと瞬きをした。セカイの創造主がセカイに入れないなんて、そんな滅茶苦茶があるのか。
     地面を撫でるようにしなやかな尾を揺らしながらミクが言う。
    「類くん、きっと司くんが待っているだろうから、そろそろ戻ってあげて」
     カイトもそれに頷いた。
    「そうだね。またいつでもおいで。そうしたら、僕らの知っている限りを伝えるよ。僕たちが力になれることなら、なんでも手伝いたいんだ。僕らはずっとここにいるから」
     はい、と類は小さく言った。硬質な声は勝手に震えをはらんでいた。
     プレイリストを手繰り、音楽の再生を止めた。
     再び目の裏に星が散った。

    ***

    「おかえり、類」
     司はひどく寂しげに笑み、気まずそうに手元の箸置きを弄った。すらりと伸びて手入れされた爪が机を弾く。
    「類は行けるんだな。よかった。……ミクたちは元気だったか」
     類は首肯だけで応えた。
    「そうか、よかった」
    「……司くんは、行けないの」
     絞り出したそれは、疑問ではなく、ほとんど確認だった。
    「ああ、そうみたいだ。……不思議なんだ。スマホに曲は入っているし、流すこともできる。けれど音が流れるだけ。ただの曲と変わらない。それが〝普通〟なんだろうが、な。何回も試したけれど、それでもだめだった。類が行けるっていうことは、セカイじゃなくてオレに問題があるんだろう。……ともあれ、そうだな、セカイが知らないうちに消えてしまったなんてことじゃなかったのならば、よかった」
     いつから、とか、どうして言ってくれなかったのか、とか、言葉にしようもない怒りにも似た困惑がごうごうと類の中を吹き荒れた。しかし、これをそのまま司にぶつける訳にはいかないと判断がつく冷静さもあった。幸福なことに、セカイに行ってカイトの凪のような姿勢に触れたために思い出していた。
     水滴のついたグラスを傾ける。温くなった水で口を湿らせ、ようやっと平常心を装った言葉を絞り出す。
    「今このタイミングで僕をセカイに行かせた。……文脈から察するに、セカイに行けないことが、君が舞台をやめようってことと関係があるんだね」
    「行けないからやめる、というほど直列に繋がっているわけではないが、そうだな、理由の一つではある」
    「じゃあ、なんでやめるのか、それ以外の理由を聞いてもいいかい。……責めるわけじゃない。納得したいんだ。君の決断を否定したくないから」
     司はすっと類から目を逸らした。小さく、しかし確固たる意志のこもった声で言う。
    「……言えない」
    「……僕が君の道を照らせなかったんだろうか。だって君、僕とどこまでも行くと約束してくれたじゃないか。……僕が後ろでずっと足踏みしているように見えた? それなら、今、一息で君の隣に追いついて、君の隣に立つよ。そのくらいの勇気と覚悟はある」
     司は目を伏せたまま、首を横に振る。
    「違う。ただ、全てオレ自身の問題で、類に失望されたくないんだ。だから、言わせないでほしい。……ちゃんと類は、オレにとって眩しいし、俺の中で炎はごうごうと燃え続けてる。それだけは本当だから」
    「……僕は失望なんかしないよ。君だってそうだったじゃないか。僕の弱さを抱きしめてくれた。君は弱さを僕に見せてくれないの」
    「違う、こんなのは弱さではない。もっとグロテスクで醜い、俺の自意識の末路でしかない。」
     司は申し訳なさそうに、それでもまっすぐに類を見る。ぐ、と膝の上で拳を握りこんでいるのが見えた。
     類はいたたまれなくて目を逸らした。
     司の覚悟は、本物だ。生半可な気持ちでこんなことを決める訳がない。一生を捧げてつかみ取った立場を、輝かしい舞台を、それでも捨てるだなんて。
    「……ショーは、まだ好き?僕の演出は?」
     少しでも縋りたくて、類は言葉を紡いだ。司の覚悟は分かっている。それでも、どうか、変わらない何かはあってくれと、祈りを込めて。
     司は少し表情を和らげ、目を細めた。遥かな過去に思いをはせるように言う。
    「尊敬している。ずっと、憧れだ。類の演出で演るのは、本当に楽しかった」
     はは、と乾いた笑いが漏れた。
    「……嘘でもいいから好きって言ってよ。過去形にするなんておかしいじゃないか」
     俯いて、顔を手で覆う。情けない涙声だ。それでも泣かないのは、せめてもの矜持だった。
    「僕、まだ司くんに演ってほしいよ。まだ舞台の上で輝く司くんを見ていたい。……それでも駄目なんだね」
     無言が全ての答えだった。
     類はもう何も言えなくなってしまった。類が司にしてやれることなんてないのだ。理由も分からず、されど頑なに辞めるという意志を持つ司を、どうすることもできない。
     薄氷のような沈黙を破ったのは、司の小さな謝罪だった。
    「……ごめん」
     類は弾かれたように顔をあげる。
     琥珀の瞳が、少しも揺らがずに類を見ていた。どこまでも誠実であろうとする司らしい。
    「なにに対して謝っているの」
     類は司を睨んだ。
    「君は悪くないんだろう。君の人生における、君の決断だ。僕に謝る必要なんてちっともないはずだし……僕は、なにも知らないんだから、謝られたところでどうしようもないんだ。……それを、軽率に謝らないで。謝るほうがひどいよ。僕が惨めになるだけじゃないか」
     司は低く「ああ」とだけ言った。
     臓腑冷え冷えするような、ぞっとする沈黙だけがそこにあった。
     司が役者を辞めるとなれば。今は辞める「つもり」だが、公に発表し、引き返せなくなってしまったら。類は考える。
     そうしたらその後、類はひとりぼっちで果てない旅を続けなければいけなくなる。灯りも、道標もない道を征くことになる。例え、躓き、膝をつこうとも、四肢が千切れ這いつくばろうとも、類を見ていてくれた司は、もうどこを見てもいないのだ。ねじれの位置に、類の観測できない場所に司はいってしまうのだ。
     自分がひとりぼっちになることも、星を見失い暗闇に落ちることも。それは恐ろしくて、怖くて、寂しいことだ。自分はそれに耐えられるだろうか。
     ——耐えられてしまうのだろう。もう、大人だから。
     その事実が一等つらかった。

     明日も類は稽古がある。満月から少し欠けた月が天頂に至る前に解散となった。ほころび始めた桜の香りがほのかに混ざる風も、夜ともなればさすがに冷たい。司はトレンチコートの前をかき合わせた。
    「司くんは、まだ日本にいる予定?」
    「ああ。期間は決めていないが、少なくともしばらくは」
     月明りを霞ませるまばゆいネオンに、司がぼんやりと照らされている。
     輪郭が色とりどりに曖昧になり、まるで幽霊のようだった。
     類はどうにか司を現世に引き留めなければならなかった。つんのめるように言葉を重ねる。
    「じゃあ、また会おう。今日じゃ足りなかった話したいことは千も万もあるし、それに……」
     言っていいだろうか、と逡巡する。
     これはただのわがままで、エゴで、司の決断を踏みにじるものかもしれない。
     いや、違う。
     それでもこれは、無視してはならない想いだ。言葉にして、掬ってやるべきだ。
     かつての黄昏の下で抱きしめた小さな類だって、きっと背中を押してくれる。
    「それに、悪いけど、僕は納得できていない」
     司は少し驚いたふうに、それでも穏やかに類をじいと見た。
     類は乾いた口内の生唾を飲みこんで続ける。
    「嫌だよ、司くん。辞めないで。置いて行かないで。寂しいよ」
     類はネオンが映りこんだ瞳をキラキラ輝かせ、司の夜風で冷えた手を握った。
    「君を諦めてなんかやれない。スターを、君が輝くのを、僕は特等席で観ていたいから。我儘だろう。ごめんね、それでも、僕は、どうしても。……君がもうショーをやりたくなくて、好きとも言えなくなって、僕の演出がどうでもよくなってしまったのなら、少し悲しいけれども。でも、そうだとしても全然かまわないよ。それなら何度だって恋をさせてやる。焦がれて、手を伸ばさずにはいられないようにする」
    「でも、類」
     すっかり青ざめた司の唇が慄く。
    「きっと、本当に、駄目だ。つらいのは類だ。だって、さんざん期待を持って、それでもどうしようもなかったら、やりきれないだろう」
    「やってみて駄目なら仕方ないって諦めがつくだろうけれど。……司くんだって、決めかねている。そうじゃなきゃ猶予期間なんて設けずスッパリ辞めてしまえばよかったのに。司くんの気持ちがこちらに傾くように働きかけたっていいだろう? 手も足も出さないままで刑の執行を待つなんてほど僕は大人しくない」
     司は観念したようにとうとう頷いた。好きにしろ、ということらしい。
     類は小さく安堵の溜息をついた。ひどくて強引な論理の展開だった自覚はある。司の許しは妥協でしかない。それでも、無理やりにでも掴んだ好機をふいにするつもりはさらさらない。
    「で、しばらく司くんはフリーなんだよね。次はいつ会おうか」
    「……変な気分だな。オレたちはもう、次の約束をしないと会えないのか。前は当然のように毎日会っていたから」
    「……そうだね」
     それが大人であるということなのだ。きっと。
     重力のように茫洋と身に纏わりついて動きを鈍くする、この寂寞を振り切っていくことが。

    ***

     すっかり夜が更けた司のセカイは静まり返っていた。イルミネーションも眠りにつき、星と街灯だけがささやかな光源だ。
     類のすぐ隣、ベンチに腰掛けたミクは、浮いた足を揺らしながら落ちてしまいそうなほど澄んだ夜空を見上げた。無数の星が瞬いていて、司のセカイで生きるミクは本物を知らないが、きっとこれは深海に似ている。
    「創造主にとって不要になったセカイは、いずれ壊れるの。バーチャルシンガーたちがいなくなって、崩壊する」
     そのときはすぐに分るよ、とミクは歌うように囁く。なにせ、司のセカイに生きるミクだから。
     落星を閉じ込めた瞳が類に向けられる。
    「このセカイは司くんにとって大切であり続けているってことは、だから、ミクたちはずっと分かっていたよ。まだ不要じゃないんだって! だから、ちょっと寂しくても、それでも大丈夫だったよ」
    「そうか……。まだ司くんは、皆を笑顔にするショーをしたいって思っているんだね」
    「うん、それは、絶対間違いないよ☆ だってそれが司くんの想いでから。その気持ちがなくなったらセカイが在り続けられるわけがないもん」
    「でも司くんは、舞台をもう好きでなくなってしまったようだったけれど」
    「もし嫌いだなんて言っても、口ではセカイ自体が反証になっちゃう。……嘘がつけないって、大変かも~?」
     わざとおどけた調子で、鈴を転がしたようにミクは笑った。類もつられて笑みをこぼした。
    「ショーが嫌いじゃないなら、ひとまずよかったよ。なにせ、大見得をきったけれど、ショーを嫌いになった司くんなんて、それこそアイデアの泉が枯れた僕……いや、一生そんなことはないだろうから、やっぱり全く想像ができない。どう手出しすればいいのか分からないからね。だって、僕の知っている司くんは、ずっとスターだったから。……けれど、それじゃあ、なんで司くんはセカイに来られないんだい?」
    「……このセカイは司くんのもの。望めば司くんの思う通りになるの」
     やおら立ち上がったミクはパニエで膨らませたスカートを揺らしてくるりと回った。青の視線の軌跡が、セカイのあちこちをなぞる。
    「ぬいぐるみは喋るし、雲は綿飴だし、汽車は空を走るし、伸ばせば、星にだって手が届いちゃう!」
     彼女は小さな掌を星空に翳した。
     華奢な指が宙を引っ掻き、何かを掴む仕草をした。類の眼の前で拳が開かれる。空っぽだった。
    「……ミクにはできないんだけどね」
    「……それは、つまり、このセカイは司くんの望み次第でどうとでもなるし、司くんが望んだことであれば、あるいは望まないことであれば、ミクくんたちがどうこうできる話じゃない、ということだね」
     猫耳が小さく揺れ、肯定を示した。
     考えこむ類の細い指が、己の顎先を撫ぜる。
    「……セカイが、司くん自身の望みで、司くんが来ることを拒んでいる?」
    「うん」
    「そんなことができるのかい」
    「できちゃう。できちゃったの。司くんが望んでしまったから」
    「なぜ司くんはそんなことを……? ミクくんはそれも分かるのかい?」
     青い髪が左右に揺れる。
    「ミクは司くんのセカイのミクだから、知っているよ。バーチャルシンガー(ミクたち)は一番心に近いところにいるから、分かっちゃう☆ ……だけど、類くん。ミクはそれを言えないの。司くんが伝えたいと思っていないことを、ミクから類くんに伝えることはできない」
     ごめんね、と小さな謝罪はさざなみのように夜闇に溶かされた。
    「構わないよ」
     類が言う。
    「僕だって、見られたくない心内、隠そうと思っていることを興味本位で暴かれたくないし、司くんのそれを暴こうとも思わない。……ミクくんが話すべきでないと思うことは言わなくていいんだ。それが誠実ということだから」
     ミクは花のように微笑んで、ありがとう、と言った。
    「けどね」とミクが続ける。
    「類くん。このセカイは司くんの想いを反映する。覚えておいてね。……最初の話に戻っちゃうけどね、今この瞬間、セカイが存在しているってことは、司くんが本当はまだショーをしたいってことだよ。ショーをして、見てもらって、皆を笑顔にしたいって、本当に思っているってことだよ。これが一番大事」
    「……もし司くんにとって本当にショーがどうでもよくなってしまったら、どうなるんだい」
    「怖いことになっちゃう! あんまり考えたくないなあ☆」
    「うん、そうだね。僕も、考えたくない。司くんには、ずっとずっと、輝いていてほしいんだ」
     ミクは夜空より静謐な笑みを浮かべた。
    「類くん、それなら、ずっと司くんを見ていてあげてね」

    2章 ゴーストライト1

     類と司の再会は思いのほか早く叶えられることになった。類が性急にそれを望んだからだ。
     一応は休暇という体の司より、舞台を間近に控える類の方が格段に忙しいはずなのに、類は司に遠慮させる隙を与えなかった。司がホテルに戻ってすぐに「次はいつにする?」とスマホを鳴らすほどだ。あれよあれよと日取りが決められた。
     待ち合わせは、渋谷駅から少し離れた、裏路地の大して目印もないところを指定された。「12時ちょうどに、ここで」と地図アプリのリンクが送られてくるほど、目印らしいものもない中途半端で説明のしようがないところ。司は土地勘があるからいいがい、そうでなければ確実に迷う。
     時間より少し早く着いた。
     類は、と辺りを見回すと、裏路地に似つかわしくない人だかり。なんだろう、と覗き込むと、中心は見知った顔だった。
     丁度、類が取り囲む観客に優雅に礼をするところだった。懐かしい紫が基調の派手なパフォーマンス衣装に身を包んでいる。かつてより大人びた顔で、まるきり子供みたいな表情だ。
     路上パフォーマンスをしているなんて聞いていない。万一にも観客に顔を見られないよう、司は帽子を深く被り直した。
     司に気づいた類が、茶目っ気たっぷりにウインクをした。大人しく見ていろということらしい。
     軽快なBGMが流れ出す。周囲で浮いているドローンがスピーカーの役割を果たしている。
     類は右手の人差し指を立てる。指揮棒のごとく空中を滑らせ、魔法をかける仕草をした。腰の高さの折り畳みテーブルに置かれた類のトランクががばりと勝手に開く。
     ——視線誘導だ。
     シルエットの大きい衣装の後ろに回した左手で、何らかの操作をしたらしい。
     片手で何かをやっているときに、もう反対の手で気づかれないよう次のネタをし込んだり、操作したりする。マジックでは基本の動きだ。流れるような類のパフォーマンスのキーなのだと、かつて本人が得意げに言っていた。
     類はトランクから猫のロボットと30センチもない杖二本を取り出し、一本を握る。
     抱えた猫ロボットの背筋を杖でなぞると、ゆっくりと目が開いていく。ふるり、と一度身震いした猫ロボットは、類の持つもう一本の杖を咥え、腕から飛び出した。
     どうやら無言劇のようだ。
     それでもストレスなく、するするとストーリーが頭の中に入ってくる。司はパフォーマンスに見入った。
     類演じる見習いの魔法使いは、どうやら魔法が下手くそらしい。猫のロボット演じる大魔法使いの師匠と共に魔法の練習をして、しかし失敗し続ける。
     猫の大魔法使いの咥える杖から、陽光を受けて輝く人工雪が。見習いがぎこちなく杖を揺らすと、情けなく水がぴゅっと噴き出た。
     ときに猫の大魔法使いが観客に絡みに行って、「やってみるかい」という風に杖を持たせる。
     観客が試しに杖を振ると、杖の先からぽんと花が咲いたり、つむじ風が吹いたり。その度にどっと歓声があがる。
     しかし、見習いの魔法使いはどんな簡単な魔法も上手くいかない。魔法初心者の観客でさえ成功するというのに。大魔法使いは呆れかえる。見習いもどんどん落ち込んでいく。
     ドローンとロボットを駆使するスタイルは高校生のときと変わらない。基本の踏襲だ。けれど、ずっと精度が高くなっている。動きの予想できない観客と、プログラムに沿った動きしかできないロボットを組み合わせ、偶然引き起こされる瞬間全てを、時に瞬時に類がフォローにまわることでエンターテインメントに昇華する。
     舞うように生き生きと演じる類を、司は目を細めて見ていた。
     そろそろ正午になる。司と類の約束の時間だ。
     見習いが腕時計を確かめるような仕草をした。一気に焦った表情になり、急げ急げとドローンやロボットをトランクに追い立てる。見た目の容量以上のものがトランクに吸い込まれる。果ては、まだやりたいとゴネる師匠の猫を持ち上げ、足をばたつかせて抵抗するのをまるっと無視してトランクに放り込んだ。
     かちりと蓋を閉め、一仕事終えた、というふうに汗を拭くマイムをした。
     結局魔法より物理が勝つのか。観客の脱力した笑い声。
     見習い魔法使いは観客に向きなおり、閉幕の礼をした。
     路上のちょっとした劇とは思えないほどの拍手。司も拍手を送りながら、時間を確認する。12時ちょうど。約束の時間だ。
     司は片づけにとりかかる類に近づく。
    「今でも路上パフォーマンス続けていたんだな」
    「まあ趣味というか息抜きみたいなものだけどね。ゲリラでたまに。僕の演出が評価に値するものなのだろうと思いながら見る人と、なんだコイツって思いながら見る人だと、後者の方がシビアで勉強になるからね。……さて、司くん。どうだったろうか、久しぶりに生で見る僕のショーは」
    「ああ、面白かった。観客を巻き込んでいくのはすごいな。いつかの正月のショーでもやったが、観客参加型は予想がつかなくて神経を使うだろう」
     惜しみない賞賛を送る。
     技巧だけではない。緩急のつけ方。魔法は師匠に敵わないが、物理的に師匠には余裕で勝るというオチのつけ方。工夫があちこちに凝らされていた。
    「ふふ、ありがとう。……でも、僕としてはまあまあかな。及第点にも届いていないかもしれない。時間は押してしまうけれど、君さえよければ、また違う演目でもう一公演してもいいかい?」
    「ああ、いいぞ。なにか失敗したのか? ちっとも分からなかったが」
    「失敗じゃないよ」
     類は仕舞いかけた小道具を再び展開する。
    「でも、司くんが笑顔じゃなかったから」
     さらりと返されたそれに、司は言葉に詰まる。
    「僕は皆が笑顔になれるショーがしたい。況や君をや、ってことさ。……まあ、見ていてよ。次のだって自信作だからね」
     類が準備するのを見て、次第にまた観客が集まり始める。
     いざ再び開幕の礼、というところで、類は「おや、いけない!」と声をあげた。
    「司くん! どうやらそういうワケにもいかないようだ。ネコくんとドローン持って!」
    「え⁉」
    「ほらはやく! ではでは皆さま、またの機会に!」
     類は片腕にトランク、片腕に折り畳みテーブルを抱え、律義に観客に礼をしたのち駆け出した。派手な衣装が翻る。
     訳も分からずそれを追う司の視界の端に、呆れ顔の警官が映った。


    「類! お前~! まだ無許可なのか⁉ いい大人なのに!」
    「悪いね。そのスタイル含めて〟僕〝なのさ! あの辺りの署の人はもう慣れてあんまり言わないけれど、君は正体がバレると面倒だろう?」
    「こんなことに慣らすな!」
     足を止めずに器用にコートを脱いで小脇に抱えた類は、裏道をどんどん行く。坂を上がったり下ったりして、司は渋谷にはこんなにも小道が多かったのかと驚きつつも、地図もなしにすいすい歩けてしまうほど追いかけっこを繰り返しただろう類に呆れた。
     五分ばかり行ったところで、類は歩調を緩めた。
    「……もうここまで来たらあちらも諦めてくれるだろう。司くん、ネコくんたちをありがとう」
     息を切らした司は、ネコのロボット(暢気にも司の腕の中で寝るモーションをしていた)とドローンを類に返した。
    「まさかこうなるとは思わなかった……」
    「おや、僕がいるのに何も起きないつまらない日になるとでも思っていたのかい」
    「にしても、最初からフルスロットルだとは思わないだろう。もう少し落ち着いたかと」
    「年相応に? 退屈は僕を殺すよ。なんならこのまま二人で川に飛び込んだっていいくらいの覚悟だよ、僕は」
    「渋谷川に⁉」
    「僕らはさておき、ドローンもネコくんも皆防水仕様だからね」
    「オレと類は?」
    「びしょ濡れさ」
    「駄目だろ」
     じゃあ、仕方ないか、と類は笑った。
    「……でも、君は本当にそうなったら一緒に飛び込んでくれると知っているよ」
    「……どうだろうな」

     類が司を引っ張っていったのはフェニックスワンダーランドだった。逃げながら思いのほか近づいていたらしい。僅かに歩くだけでもう歓声が聞こえてきた。
     休日なこともあり正面ゲートは大盛況だったが、類は人気のない従業員入り口に向かった。
     今も定期的にステージのメンテナンスを担う類は社員証を持っている。司も類の同行者として問題なく入れるだろうが、少し迷って司は警備員に会釈した。数年前から変わっていない警備員は「ああ、天馬くん!」と声をあげた。
    「お久しぶりです」
    「久しぶりだね、本当に! 元気だったかい? よくテレビで見る用になってびっくりしたよ。すっかりウチの出世頭だね。いや、昔から絶対そうなるだろうと思っていたけれど。……今日はステージを見に?」
     「そのつもりです」と類が言う。
    「司くん、今日はオフで。ちょっと改修して変わったでしょう。せっかくだし色々見せようと思って」
    「ああ、確かに。様変わりってほどでもないけれど、綺麗になったからね。じゃあ、おかえり、天馬くん。今日は楽しんでおいでね」

     従業員用の地下通路を使うこともできたが、類はあえて地上を選んだ。司は帽子を深く被りなおして、マスクもつけようとしたが、類が「それは逆に目立つんじゃないかい」と止めた。
    「ゲストは皆、眼の前に夢中さ。そういう魔法がかかった場所だからね。君もいちゲストとして眼の前のことを楽しめばいい。僕は案内人だ。なにせ、色んなところが新しくなっている。やはり老朽化はあるからね。例えば……」
     噴水広場の中央の絡繰り時計を指す。
    「柱が緑から黄色に変わった」
    「マイナーチェンジにも程がないか⁉」
    「間違い探し程度でも、積もり積もれば違和感さ」
     類は、やれアトラクションのスタンバイの列の並び方が効率的になっただの、カチューシャワゴンがバルーンワゴンに変わっただのとあちこちを指した。
     なるほど、確かに何百回と見て脳裏に刻まれた風景が僅かに違うのは、ふわふわと夢の中を歩くような感覚がする。司はあちこちを眺めまわしながら園内を歩いた。
     「あ」と子供の小さな声がした。
     パッと現実に引き戻され反射的にそちらを見る。空に飛んでいくヘリウム風船に手を伸ばす少女。風船はぐんぐん高度を上げ、あっという間に色も分からないほどの点と化した。
     少女はそれをぽかんと見ていたが、みるみるうちに顔をくしゃくしゃにして泣き出した。家族が宥めるも、空を指してわあわあと泣く。
     司がぽつりと言う。
    「……類、バルーンは持っているか」
     たったそれだけで大方察したらしい類は、悪戯っ子のように目を細めた。
    「勿論。さすがにヘリウムはないけれど。バルーンアートならなんでも作れるよ。オープンカーに乗ったカブトムシとかね」
    「どういう状況だ⁉」
     だが、まあ、良さげなのを頼むぞ。
     司は呟き、類が差し出したパフォーマンス衣装を羽織った。中が私服だろうが、奇抜で派手な配色なため、それだけで一気にパフォーマーに変身できる。代わりに、目元を隠していた帽子を類に渡した。
     司は少女に近寄り、おどけた仕草をする。
     即興だから、真実、タネも仕掛けもないショーだ。身一つで彼女を笑顔にしなければいけない。
     こういう時は言葉のない道化が一番確実だ。先ほどの類のパフォーマンスに似たもの、しかし小道具なしで全て司の表現力で〝ある〟ように見せる。
     軽快にスキップ。左手は胸の前で握りしめ、たまに視線を空中に遣る。〝そこに風船がある〟。〝風船に繋がる紐を握っている〟。
     しかし道化は少女のように紐を手放し、風船を飛ばしてしまう。大げさに驚き、じたばたして焦りながら追いかけるが、蹴躓いて転んでしまう。
     ばっと顔をあげ、空高くを見て、顔を歪める。無言のまま嘆く。
     ああ、どうしよう、もう届かない。悲嘆にくれ顔を覆う。肩を小刻みに揺らし、まるで泣いている風に。
     唐突に現れた司に少女は驚いたようで、口を開けて司を見ていた。涙は止まっているが、笑顔ではない。
     当然だ。まだ何も起きていない。
     けれどこれで、道化と少女は「同じ」になった。
     司がやったのは「風船をなくす」状況の再演。
     少女と司演じる道化はもう同じ悲しみを共有している。少女の、驚きも混じった激しい悲しみを、道化の静かなそれへとすり替えたから。あとは笑顔になるスイッチを押すだけだ。
     指の隙間から類を見遣る。
     さて、何の説明もなしに任せてしまったが、果たして。
     準備はできたようだった。司の帽子を深めに被り、何でもない風に、通りすがりを装って近づいてくる。
     司は少女に向きなおり、目線を合わせてしゃがんだ。
     先ほどの類の路上パフォーマンスを思い出す。魔法をかける時は、仕掛けから目を逸らすため、他のところで何かアクションを起こさなければいけない。そして、自分はこういうことについては素人だから、大げさにやった方がいいはずだ。
     わざとらしく右手の人差し指を立てる。左手はそっと背に回し、掌を開く。
     類と司の距離は、あと僅か3メートル。
     少女は次は何が起こるのだろうと司の右手に注目している。近づく類にも、不自然に後ろに回った司の左手にも注意は向いていない。上出来だ。
     背後を掠めるように通った類が、司の左手にこっそりバルーンアートを落とした。少女は気づいていない。
     魔法をかけるように左右に大きく指を揺らし。
     3,2,1!
     左手のバルーンアートをぱっと差し出した。
    「え!?」
     少女はたちまち顔を輝かせた。頬を真っ赤にして、まほうつかいだ、と舌足らずに呟く。
     スタンダードなプードルのバルーン(類は妙なところでウケを狙うのはやめたらしい)を抱え、少女はぴょんぴょんと跳ねまわって喜んだ。
    「ありがとう、お兄ちゃん!」
     すっかり空に飛ばした風船のことは忘れたように夢中になっている。少女の家族は、司の一連のパフォーマンスをフェニックスワンダーランドの演出だと思ったらしい。しきりに頭を下げている。
     少女は、立ち上がって去ろうとする司の服の裾をくいっと引っ張った。
    「このこにお兄ちゃんのお名前つけたいな! 教えてください!」
     オレは天馬司だ! と朗々と答えようとして、しかし言葉に詰まった。
     休暇中で、近い未来きっと舞台を降りる。自分は果たして〝天馬司〟だろうか。
     ——スターでない自分は、果たして〝天馬司(スター)〟を名乗っていいのか。
     薄ぼんやりと脳裏にあって、しかし目を逸らしてきたこと。曖昧なアイデンティティーが、ぐらりと揺らいだ気がした。心臓が不気味にざわついた。
     結局、道化だから喋れないのだ、と口の前で指でバツマークを作り、類の後を追った。

     少し先で待っていた類に衣装を返す。ワンダーステージはもう近い。
    「名乗らなかったんだね、天馬司だぞ! って。君ならそうしそうなものだけれど」
    「あんな人込みで名乗ったらたまらないだろう」
    「まあ、それもそうだ。……ところで、あの即興はすごく面白かったよ。アイデアがいい」
    「ありがとう。類がそういうのなら、間違いないな」
    「君は、まだ全然やれると思うよ」
     言外に類は、また舞台に立とうという気はないのかと問うている。穏やかな口調で、しかし、瞳だけは凛々としている、まるで司を睨むようだ。
     司を舞台に引き戻すと宣言したのだから当然か、と司は苦笑した。
     
    ***

    「ワンダーステージはね」
     と類が言う。腰かける客席のベンチは真新しいペンキでつややかな空色に塗られている。
    「今はえむくんの管轄だ。少しわがままを言って、昼公演から夜公演までの間だけ入らせてもらえることになったよ。……あいにくえむくんは外せない打ち合わせがあるみたいだけれど、司くんに会いたがっていたよ。だって、君、スーツのえむくん見たことないだろう」
    「スーツ姿の、えむ……?」
     司の脳裏に浮かぶのは、あちこち飛び跳ねて駆け回る高校生のえむ。無邪気で奔放な彼女と、かっちりしたスーツのイメージは、到底結び付かない。
    「……スーツで走りまわっているのか。すごいな」
    「いいや、彼女はもう走らないんだよ。大人だからね」
    「それ、は……」
     そうか、と司はひとりごちた。
     スーツを着るえむのイメージより、走らないえむの衝撃の方が大きかった。小さく息を吐いた。
     たかが5年。されど5年だ。それほどの時が経てば、その程度の落ち着きを獲得し、変わるのだ。それは必定であり、悲しむ必要はないことだろう。
     司だって当然、変わらないわけにはいかなかった。高校生の無邪気な皮を脱ぎ捨てたからこそ、皆、今の場所に立っている。
     だから、うっすらと纏わりつくような寂寥は勘違いであるべきだ。
     ワンダーステージは、若干綺麗になってはいるものの、そこまで変化した様子はなかった。できる限り風合いを残そうとえむが苦心したのだと言う。
    「もっと現代的にする案もあったのだけどね。そっちの方ができるショーの幅も広がるし。けれど、そういう技術面は僕が外付けでどうにでもできるから、箱は古き良きままにしようってなったんだ」
     類は曇りなくつるりとした座面を撫ぜた。
    「だから、僕はたまにメンテナンスを兼ねてここに来るよ。舞台装置のメンテは業者でもできるようにしたけれど、やっぱりネネロボは僕が見たいし、ネネロボも僕に会いたがるからね」
    「ネネロボは何か新機能でも増えたか?」
    「うーん……。昔から大概のことはできたから、司くんが知らないアップデートだと……米粒に般若心経を書けるようになった話はしたっけ?」
    「されていないな」
    「すごいだろう」
    「すごいけども」
    「……ああ、ネネロボといえば、司くんは寧々とは連絡をとってるかい?」
    「ああ。どこで公演をやるかとかは律義に教えてくれるぞ。忙しくて結局生で観ることはできなかったから、申し訳ないな」
    「まあ、寧々と君は同じくらいあちこち飛び回って忙しいからね。……寧々は、本当に滅多にないけれど、帰省ついでにここの様子を見に来るよ」
     こんなこと言うとロマンチストにもほどがあると言われそうだけど、と類は前置きした。
     ふ、とステージに流された視線が、次いで司を捉えた。切れ長の、ともすれば冷たい印象のそれが、特別柔らかく細められた。
    「このステージも久しぶりに司くんに会えて嬉しいんじゃないかな、なんてね。……どうだい、僕らの座長。立ってみられては」
     殊更冗談めかして、しかし類の目は真剣だった。立て、と言っていた。
    「まあ、そうだな。立つだけなら」
     司は立ち上がり、客席の中央を貫く通路を抜け、舞台に上がった。
     まさか卒業してから再びここに立つとは思わなかった。
     ぐるりと客席を見渡す。高校生の時より、低く、狭く感じる。
     上演中独特の、臓腑がふっと浮き上がるような、視界の端に星がちらつくような、脳を灼く熱はない。頭が隅々まで冴えわたって心臓が震えるような全能感もない。客席は空っぽで、中央あたりにぽつんと類が立っているだけだ。
     それでも、なにか懐かしい景色を幻視した。あの、轟く雷鳴のような拍手が、はるか遠くに微かに聞こえた。司がとっくの昔に通り過ぎた道に置き去りにされた音だ。
     どうやら、自分はまだワンダーステージ(ここ)が、大好きらしい。舞台(ここ)が、まだ。
     いつだったか類が、舞台の神様がいるんだ、と話していた。舞台人はそれに熱烈に焦がれていて、自分の居場所は舞台上にしかないのだと、信仰してしまうのだと。
     きっと本当にそうだ。
     司だってそれに恋をして、だから十数年がむしゃらに走ってきた。
     今だってそうだ。嫌いになれるわけがない。大好きだ。太陽に焦がれるが如く。
     けれど。
    「類」
     思っていたよりずっと固い声が出た。僅かに震えが滲んでいる。類の瞳が揺れたのが見えた。
     太陽に近づけば近づくほど、苦しいのは当然だ。
     その光は目を潰し。その熱は喉を焼き、肺を燃やし、翼を融かす。
     そして決して届くことはない。
     司が舞台を降りるのは、そう決意してしまうのは、きっと運命だった。
     太陽に近づきすぎてしまった。そして、太陽と己が未だどれほど離れているのかも知ってしまった。
     もう駄目なんだ、オレはどうしたってもうこの世界にいられないのだと言えたらよかった。類がどうやったって覆せないほど司の覚悟は決まっている。迷っているなんて言わずに、変に期待を持たせたりなんかしなければよかった。
     けれど、まだ言えない。かつての類との約束が司を縛っている。類の道行を照らすとかつて誓ったから。
     司としては、あの、影さえも焼き尽くすほど眩しい世界に戻る気も、戻れる気もない。
     辞めるつもりだ、と、愚かにも保険のような言い回しをして、猶予期間を設けてしまったことを、今さらながら後悔した。仕方のないことだったとはいえ。
     だって、司は、全ての舞台から降りても、人生を賭けた類との二人芝居からは、まだ降りてはいけないから。
     たとえ無様でも、息が切れて、足が縺れようとも、類が司の手を離さないならば。司の延命を請うのならば。
     己の血で染められた赤い靴でくるくると踊り続けなければならない。それすら放棄するのは、司の矜持が許さない。それが唯一司を舞台に結び付けている細く儚い縁だ。
     類は本当は、もう、司なしでだって歩いて行ける。二人はもう寂しい子供ではないのだから。
     それに気づいていないだけだ。
     司は自分で命綱を千切ることができず、端を類が手放すことを期待しているようなものだ。残酷だ。ひどいことをしていると思う。
     それか、きっと、告げてしまえばいいのだろう。司の苦しみを引き延ばしているのは類に他ならないのだと。
     そうすれば、類は、司を赦してくれる。
     けれど、そんな非道をする勇気は司にはない。
     時間がただ過ぎるのを呆然として見ている司は、蓋し臆病者だ。もういっそ、決定的に類が傷つく前に自分で命綱を絶ってしまうべきなのだろう。それが一番優しくて、臆病者の誹りも免れることができる選択だから。
    「……司くん」
     滲む司の絶望を感得したにも関わらず、類はギラギラと不敵に瞳を輝かせて言った。
    「僕の次の舞台、知っているよね」
    「——ああ。二週間後の」
    「観に来てくれるだろう?」
    「勿論、そのつもりだ」
    「よかった。ねえ、君を楽しませるよ。君にそんな顔はさせない。僕、いつだって君に見せたいって思ってやっているんだ。期待していてほしい。絶対に、まだショーが好きだって、演りたいって、君に思わせるよ」
     まだ諦めてたまるか、と全身で主張している。さながら駄々をこねる幼児だ。けれどそれが煩わしくないのは、類がまだ司を必要としているのを心地よく思っているからだ。不要とされたがっているにも関わらず。盛大に矛盾している。
     類が司のスター性を、たとえそれが既にまやかしになっていても見ている限りは、司は僅かにまだスターでいることができる。
     類の司への憧れは、今や司の存在証明と等しかった。
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