アネモネプール花畑
そこは一面の花畑だった。
***
ヒューッ!
………ドパーン!!!
空気を切り裂いて空から飛来した物体が、大きな水飛沫を上げて湖に落ちた。
それまでさざめき一つなかった水面には、一斉に散ったその辺りに群生する花々の花弁が降り積もる。
「……大丈夫か?ベジータ」
豊かな黒の長髪を靡かせ、湖の真ん中に『降り立った』悟空は浮いたつま先の先にある水面を覗き込んだ。
(しまった……つい尻尾が出ちまった)
うっかり殺してしまわないよう、両手を使わない条件でベジータの「オレと戦え!」という可愛らしいお願いを承諾した悟空は、そこからずっと腕組みしたままだ。最初はヒラヒラと攻撃を避けれていたのだが、流石にいつまでもそれが通用する相手ではない。
悟空の避け方を直ぐに学習したベジータに懐に入られた瞬間、その小さな身体を尻尾で薙ぎ払ってしまったのだ。完全に条件反射だった。修行が足りない。
コポコポ、と上がってくる水泡が段々と小さくまばらになる。
(まさか、水の中で気を失って……?)
「……、…………」
——いや、違う。
悟空の背後へ、静かに忍び寄ってくる気配が微かにあった。
背後というには遥か下の、水の中。
水上からは見えないほど深く——恐らくは、湖底すれすれを移動している。
影も形も見せず、波も立てず、敵に近づくベジータの才覚は並外れている。同じ頃の自分ではその凄さに感心する前に命を落としているだろう。
(そういえば前にもこんな場面があったっけな、……)
ふと、遠い記憶が蘇る。
気が狂うほど果てしなく遠い記憶だ。
悟空は、自分よりもっと鮮やかな赤い毛並みの獣とじゃれ合っていた。上になって下になって、どっちの呼吸か分からないくらいお互いが息を乱して拳をぶつけ合っていた時だ。
あの時も、今日と同じ満月の夜だった。
獣の血が騒いでたまらなかった。
どちらか、或いは両者が動けなくなるまで、二人は本能を剥き出しにして戦い続けるのみだった。
ベジータがいたからそう出来たし、同時にベジータが居なければそうはならなかっただろうと悟空は思う。何とも言えない、魂が沸き立つような興奮をぶつけ合う悦びなんか知らずに済んだに違いない。
兎に角、そうして闘う最中、ベジータが水中に姿を消したのだ。とぷん、とまるでおとぎ話に出てくる人魚のように水に潜って行ってしまったときの事を、悟空は良く憶えている。
だって、とても美しかったのだ。
強烈なボディブローを叩き付けられたベジータは、体勢を立て直す為に距離を取ろうとし、下にプールがある事に気付いた。チラ、と横目でそれを確認し、悟空を見つめてニヤリと笑う。月光を浴びながら口元を拭う仕草は妖艶で、ドクンドクンと鼓動が大きくなった。
そのまま何も言わず、水に飛び込んでいったベジータを見つめることしか出来なかった。
(それであの後、どうしたんだっけな……)
花弁の浮く水面をぼうっと見つめる悟空の足先に、ゆっくりと白い手袋を着けた指が忍び寄る。
さざ波すら立たせることなく背後から近寄っていたベジータは、小さな手を目一杯伸ばして、自分よりひと回りもふた回りも大きな獣を水中に引き摺り込もうとしていた。
「お、…………」
「捕まえたぞ……!カカロット!!!」
ガシッ!と足首を掴まれてやっと現実に返ってきた悟空の耳に、高らかなベジータの声が響く。
「ベジータ、いつの間に」
「俺様があの程度で降参するとでも思ったか!?ボーッと考え事なんぞしやがって……!一体何を考えてたかなんて、別にッ……これっぽっちも興味は無いがな!!簡単に油断する貴様に運の尽きってヤツを教えてやる…!!!!」
水から上半身だけを現したベジータは、ハァハァと息をつきながら一気にそれだけの言葉を紡ぎ出した。あんなに長く潜っていたのによくもまあそんなに口が回るものだ。
心地よく伸びる声はいつも、悟空の魂を強く揺さぶる。気高さを体現する髪は、濡れてもなお天を向いてキラキラと輝いていた。そこに赤い花弁がちょこんと乗っている。本人は気付いていない。
「ベジータ……」
「何だッ!」
「可愛いなお前」
「ぅ、ッ…………!?!?」
——しゅるるるッ!
悟空の長い尾が自身の足を掴むベジータの手に巻き付く。その感覚にビクッと震えたベジータが振り払おうとする前に、触手じみた動きで拘束した尾はギチギチと若い肉に食い込んだ。
「『捕まえた』」
「な、やめ、ッ離せ!」
「おいおい暴れるなよ。痕がついちまうだろ」
「うる、さい!!!離しやがれ!!!くそっ、たれぇえ……っ!!」
勝ち誇って宣言したのに、すぐさま形勢逆転され捕まってしまったベジータは顔を真っ赤にしていた。悟空の尻尾に水から引き上げられ、それでも離されないと分かるとブンブンと拳を振り回し、足蹴にしようとしてくる。そのせいで、悟空はベジータの右手に巻き付けた尻尾をキツくせざるを得ない。
暫くは手首から肘辺りまでグルグルと痕が残ってしまうだろう。
悟空は腕組みしたままベジータの攻撃を躱しつつ、彼の様子を観察した。
(他に怪我は無いみてえだな)
呼吸が荒いのは長く水に潜っていたのと、怒っているせいだろう。尻尾に薙ぎ払われ、戦闘服の肩の部分が割れているが、その下は無事のようだ。
ああ、でも少し首筋にかすり傷がある。よく見たら、アンダースーツも細かく切れ目が入っていた。
「ん〜………」
「っ、おい!いい加減にしろ!!何ジロジロ見てやがる!」
「ああ……、そうだな」
——ガシッ……!!
「ひゃうっ!?」
「ジロジロ見るより直接確認した方が早いし正確だよな」
そうだ。
『あの後』も結局こんな感じだった。
「捕まえたぞ」と言ってニヤリと笑うベジータに引き絞られる心臓を何とか堪えて抱いたのだ。いつもそうだ。そうだった。今も。
「はぁ!?……やだッ、あ!脱がすなッ…!!!」
両手で円を作ったら一周しそうな細腰を掴まれ、ベジータは信じられないような顔で悟空をふり仰ぐ。それに首を傾げながら、指先をプロテクターの内側へ忍び込ませる。
薄い布一枚下にある発達しきらない筋肉。その溝をなぞるとヒクヒクと動く。ちょうど親指の横にあるヘソの辺りをグ、と押しただけで「ひぁ、っあう」と教え込まされた身体が跳ねた。
「なんで、っ、こんな、ッ……!」
腹に腰を押し付ける悟空の硬さに、ベジータは混乱していた。
「だってよ、最高に良かったからな」
「ん、!?ふ……ッ、んン…っ」
がぷりと覆った口に舌を差し込んで舐め回す。小さな口の中はすぐに隅々まで味わい終わってしまうが、後から後からじわじわと滲み出てくる唾液は尽きることがない。
(オレに『捕まえた』なんて言ってくれるお前だから、離したくねえんだ。オレは———)
散々口の中を蹂躙されて次第にとろんとしてくるベジータを、悟空はジッと見つめていた。
自分だけを見てくれる一対の瞳を。
『アネモネプール』