猫のよう 中天に昇った太陽が春眠の中に微睡む肉体をしゃっきりと目覚めさせる。実に清々しい朝だとベレトは思った。
窓から吹き込んできた爽やかな風に誘われるまま散歩に出て、大修道院の庭園を小一時間ほどかけてゆっくりと一巡りする。そうして自室へ戻ったベレトが扉を開くと部屋の四隅までも明るく照らし出すような白光が室内にある物を輝かせながら広がっていった。
……とふいに差し込んだ光に驚いたのか、ばっと毛むくじゃらの塊が跳ね起きて今し方ベレトが開いた扉の隙間へと突進するように駆けていく。慌ただしく逃走していくそれはキジトラ柄の猫であった。どうやら換気のために開けていた窓から勝手に忍び込んで休んでいたようだ。猫の後ろ姿が木陰に隠れるまで見送ってからベレトは室内へと再び視線を戻す。
するとそこにはもう1匹の大きな猫が我が物顔でベレトのベッドに横たわっていた。
簡素なベッドのわずかに皺の寄ったシーツの上に体を丸めて眠っているのはリンハルトだった。寝返りを打って、ちょうどベレトの方角へ顔を向けるとさらりと長い緑髪が白く柔らかそうな頬に被さってくる。陽光の下で長い睫に縁取られた両眼は安らかに閉じ、薄紅色の唇はわずかにひらいて、すうすうと吐息を漏らしている。
見る者が思わずにっこりしてしまうような微笑ましい光景である……そこがベレトの寝起きするベットの上でなければの話だが。
はてなぜ彼はここにいるのだろうとベレトは首を傾げ、その次にどうしたものかと考える。だが深く考えるまでもなく、とりあえず起きてもらわなければ話を聞くこともできない。
あまりに幸福そうに寝入っているので少し可哀相な気もしたが、ベレトはリンハルトの肩を掴んで軽くゆさぶった。
「リンハルト、起きてくれ」
「ん……んん?」
ベレトの声かけで一瞬目を開けたものの、リンハルトは再びすぐに瞼を閉ざし体の向きを変えてベレトへ背を向けた。ベレトはもう少し強めの声を出した。
「リンハルト!ここは君の部屋じゃない。頼む目を覚ましてくれ」
そこでうっすらと両眼をあけ、上半身をゆっくり起こしたリンハルトだったがまだ半ば眠りの中にいるのかふらふらと重心の定まらない様子でかくりと頭(こうべ)を垂れてベレトの体にもたれかかってきた。ベレトの胸にすっぽりと顔を埋め、ふにゃふにゃと言語の前段階のようなものを発してくる。彼が何かいわんとする度に吐息と体温が衣服ごしの肌にもしっかりと伝わってきてベレトは胸の奥がむずむずした。リンハルトがベレトの体に頼りない手でぎゅっとしがみついてきたので余計に頬が熱くなってくる。焦って自分の体から引き離し、そのまま両手で掴んでもう一度強く揺さぶる。
「リンハルト!」
「ふあっ?!」
ようやく驚きの声とともにリンハルトはぱちりと両眼を開けた。ベレトの顔を見て瞼をしばたたき、小首を傾げてみせる。
「あれ?先生?どうしてここにいるんですか?」
「それはこっちが聞きたいよ……」
呆れた声を漏らすベレトを見て、徐々に自分の置かれている状況を理解し始めたリンハルトはおぼろげな記憶を辿り、順を追って説明する。
「……えーとですね、新しく入荷した紋章学の本を図書館で見つけたので昨日は徹夜で読んでいたんですよ。気がついたら朝になっていたので、そのままベッドに潜り込んで眠ろうと思ってたんですけど……窓から入り込んだ猫にお気に入りのしおりを持っていかれちゃって……長めの紐がついていたからそれにじゃれついているうちに絡まっちゃったみたいなんですよね。取り返そうと思って追いかけていたら、先生の部屋に来てたんです」
時折欠伸を交えながらリンハルトはそう言った。
「それでここで眠ってしまったと?」
「はい……ちょっと限界がきちゃって」
それでリンハルトがベレトの部屋へ来るまでの経緯は把握できた。嘘みたいな話だが部屋に入る時、猫が走り去っていくのを目撃したのでたぶん本当だろう。他の生徒ならともかくリンハルトならさもありなんという展開である。気を取り直したベレトは無駄だと知りつつも軽く注意した。
「眠くなるのはしかたないが、せめて自室に戻るまでは我慢してほしい」
「すみません。猫を捕まえようとしてベッドへ近づいたら先生の匂いがしたのでなんだか安心しちゃって、そのまま……」
「?自分の匂いがあると君は安心するのか?」
「ええ、陽だまりの中にいるみたいでとてもリラックスします」
眠そうに眼をこすりながらそう言ったリンハルトはまるで本物の猫みたいに見えた。
釣り池のそばに住み着き、ベレトに好意を寄せる猫たちもよく彼の匂いを嗅いでくる。
そうして彼に撫でてくれと頭を擦りつけてくるのだ。思わずベレトはリンハルトに手を伸ばしかけ、躊躇いけっきょく引っ込めた。
だがそんなベレトの動作を見てリンハルトは首を少し下げ、自ら頭を差し出してきた。
「どうぞ」
「!」
「あれ?撫でてくれるんじゃないんですか?」
そのままの姿勢で待っているリンハルトを見て、ベレトはそろりともう一度手を伸ばした。さらさらした長い髪がベレトの指に心地よく絡みついてくる。その間リンハルトは目を細めてベレトの指先の感触を楽しんでいるようだった。2、3度ゆっくりと撫でてからベレトは手を離した。
それにしても栞を追いかけてここまで走って来るとは。リンハルトがそれほど物に執着するとは少し珍しいと思い、ベレトは尋ねた。
「そんなに大切なものなのか。どんな栞なの?」
「どこかに落ちてないかな?……うーん。あっ!あった」
自分の座っているベッドの周辺を探り、リンハルトは一枚の栞を取り出した。
「これです」
それはスミレの押し花を使った手作りの栞だった。リンハルトの言うとおり角には長い紐がくくりつけてある。少し引き裂かれたようになっているのは猫の爪痕だろう。
その花になんとなく見覚えがあるような気がして、ベレトはリンハルトに尋ねる。
「それはもしかして……」
「はい先生がくれたスミレです」
なんのてらいもなくリンハルトは答えた。
「さすがに毎回とってあるわけじゃないんですけど、これは状態が良かったのでベルナデッタに頼んで栞にしてもらいました」
自分で作ったものではないところがいかにもリンハルトらしくてベレトは苦笑する。
だがそれでもこうして自分が贈った花を大事にとっておいてくれているというのは素直に嬉しかった。
その時ベレトは自然とこの花を摘んだ時の事を思い出していた。
あれは確か、この学院に来てから3ヶ月ほど経った頃の事であった。自学級の生徒達と親交を深めるためにベレトはちょっとした贈り物をしていた。温室で採取できる花もその一つで、それゆえリンハルトにスミレの花を贈ったのも特別深い理由があったわけではない。ただこの花の色彩が可愛らしい彼の目を連想させたからであった。
リンハルトのほうも渡した時はさして喜びもせず「ありがとうございます」と実にあっさりした態度で受け取ったものだから、特に思い入れもなかったのだろうと勝手に思っていた。何かの用事で訪室した際、面倒くさがりの彼がわざわざ花瓶に入れて部屋に飾っていた事すら少し意外に思ったくらいだ。
そこである事に思い至りベレトは黙考する。そんなに前からリンハルトは自分のことを意識していたのだろうかと。普段の言動からリンハルトに好意を向けられているのはわかっていた……が彼特有の知的好奇心がない交ぜになったそれは親愛の域を出ないものだと思っていた。しかしこうも彼らしくない行動を見せられると、それ以外の感情(もの)も感じさせられる。
「どうしました?先生?」
思いに打ち沈むベレトをリンハルトが不思議そうに見上げてくる。
「いや、なんでもない……」
そう言って誤魔化すようにまた頭を撫でるとリンハルトは気持ち良さそうに微笑する。ごろごろと喉を鳴らし愛らしく擦り寄る猫のように。
心に兆した淡い春の予感をベレトは口にすることなく、胸の奥に仕舞い込むのだった。