かわいい 自分の名を呼ぶ声で、ヒカリは顔を上げた。
海風の影響だろうか、クチバシティの朝は涼やかであった。周囲には、彼女と同じように人待ち顔の男女が数人、簡易ベンチにもたれながらそれぞれのスマホを覗き込んでいる。
ヒカリが声のした方向に視線を巡らせると、あずき色の髪の三つ編みを揺らしながら、待ち合わせの相手が小走りにやって来た。
「ごめーんヒカリ、遅くなった」
「コハル。大丈夫大丈夫、あたしもさっき着いたとこ」
二人の足許では、それぞれのパートナーであるポッチャマとイーブイが再会を喜んでじゃれあった。
「ありがとヒカリ。今日は遠くから……」
「だってコハルのリサーチフェローデビューを飾る第一歩でしょ。行かないわけにはいかないでしょ」
「ありがとう。じゃ行こうか」
二人の少女は肩を並べ、軽やかな足取りで目的の店に向かって歩き始めた。
WCSの直後、サトシとゴウが旅に出たこと、そして彼らの務めていたリサーチフェローの仕事をコハルが引き継ぐことになったことは、ヒカリも聞いていた。というより、コハルがそのことをいの一番に報告した相手は、ヒカリだったのである。なにしろ気が置けず、旅慣れていているヒカリは、コハルにとって絶好の相談相手なのであった。
リサーチフェローを始めるにあたってさまざまなことを相談する中で、これまでの旅の話やサトシとのエピソードをコハルは面白がって聞き、話すヒカリも新鮮な感動をもって聞いてくれる彼女の姿勢が気持ちよくて、このところ連絡を取り合えばその話ばかりしていた。
コハルがいよいよ一発目のリサーチに出かけることになったとき、いつになく真剣な面持ちで彼女はヒカリに訊いたのである。
「服ってどんな感じにすればいいかな」
「えっ、服?なんでもいいんじゃない?動きやすい恰好なら」
「そうなんだけど、ヒカリもサトシもゴウも、旅に出るときの恰好って決まってるでしょ。勝負服っていうのかな。形から入るってわけでもないんだけど、そういうのがビシッと決まってると、モチベ上がるかなって」
「なるほどね。そういうことなら、私と同じ恰好にすればいいじゃん」
たいして何も考えずに言ったヒカリであったが、画面通話中のスマホ越しに、コハルの顔がみるみるうちに赤らんでいく。
「えぇ……それはちょっと……」
「えー、なんでよ」
「だって、み、見えちゃうよ……」
「ダイジョブダイジョブゥ」
「いやさすがにダイジョびません」
ヒカリは眉根を寄せてコハルをにらんだ。
「じゃぁどんな恰好がいいの。女子力無視の作業服とかにする?」
「うーん、それもちょっと…出来る範囲でオシャレはしたい」
「わがままだなぁ」
呆れたように頭を掻きながら、ヒカリはしばし考え込んだが、すぐに閃いた。
「わかったよコハル。一緒に買いに行こう」
コハルの表情が輝いた。
「えっ、いいの?」
「うん。久しぶりに会おう」
「ありがとう助かる。じつは行きたいお店はいくつか目星つけてるんだけど、一人で行きづらくて…ゴウがいたらついてきてもらうんだけど」
「……へぇ~ゴウね」
芝居じみたしぐさで口許に手を当てるヒカリを、コハルは怪訝そうに見つめた。
「……なによそのコダックみたいな目」
「べつにぃ。とにかくわかった。じゃ一週間後。クチバまで行くね」
「うん。楽しみ」
通話を切ると、ヒカリはそばにいたポッチャマに話しかけた。
「久しぶりにコハルに会うよ。イーブイにも。楽しみだね、ポッチャマ」
ポチャ~と、ポッチャマはデレっと声を出した。どうにもポッチャマはコハルに異性を感じている節があって、彼女の名を出すと照れくさそうにするのだ。そんなポッチャマを観察するのも、ヒカリの楽しみのひとつであった。
「んでどう。どういう感じにしたいか、イメージ決まった?」
二人が向かうのは、キャラクターブランドのショップが多数入る、クチバのランドマークのファッションビルである。そこに向かう道すがら、ヒカリに訊かれたコハルは小首をかしげて苦しそうな声を出した。
「う~んそれがまったくイメージが浮かばなくて」
「サトシたちと冒険に出るときはどんな恰好してたの?」
「あぁだいたい今日と同じ感じだよ」
グレーのボーダーシャツにクリーム色のサスペンダーパンツ。足許はどうということのない紺のスニーカー。そういえばマスターズ・トーナメントの時もこの恰好だったな、とヒカリはぼんやりと思い出した。
「う~ん。ちょっと地味かなぁ」
「そうかな?目立つのあんまり好きじゃなくて」
「だけどもったいないよ。コハル、服の感じ変えたら絶対今より可愛くなると思うんだけどな」
「え~」
コハルのエメラルドグリーンの瞳が、猜疑の色を帯びる。
「でも前もいったけど、ヒカリみたいな恰好、私には無理だよ」
「なんで?動きやすいし、あたしの恰好、一度みたら忘れないでしょ」
「あ、そうだね。一度みたら忘れないってのは大事な要素だと思う」
話しながらファッションビルのエントランスをくぐった二人を、エアコンの冷気を押し戻すような喧騒が出迎えた。フロアにひしめく彼女たちと同年代の客と、ショップ店員の客引きの声が折り重なって、ヒカリは一瞬気圧されてしまった。
コハルは目当てのショップがあるらしく、慣れた足取りでヒカリを先導しながらエスカレーターに向かう。コハルの後ろに立ってヒカリは尋ねた。
「そういえばコハル、好きな色とかあるの?」
「ピンクかな」
「やっぱりあたしじゃん」
ヒカリがからかうと、コハルは「いやそうじゃなくて」と、生真面目に首を横に振った。その様子をみて、ヒカリがムッと眉間にしわを寄せた。なんだか立て続けに自分の衣装を否定された気分になったのである。
「あのね、じゃあ言わせてもらいますけど、コハルのあのスクールの制服?あれだってけっこう際どいからね」
「あれはみんな同じ恰好で過ごしてるからいいんだよ」
「あ、そういうもんなんだ」
コハルのお目当ては、10代の少女に人気の、とあるブランドショップであった。目立ちたくない、という彼女の発言を裏付けるように、棚のトーンはネイビー&アイボリー調で、店内も落ち着いた雰囲気である。ヒカリは率直に感想を口にした。
「ピンクが足りなくない?」
「ピンクのお店もあとで行く」
呟きながらコハルはトップスの棚を物色しはじめる。
「ふつうのTシャツでもいいんだけど…」
「いいけど、その恰好がこれからのコハルのアイコンになるんだよ。少し個性出す方がいいんじゃない」
そうか、と呟いて、コハルは棚から一枚薄手の服を抜いて拡げてみた。バラのコサージュがついたブラウス。
「うーん。いちおう冒険服だし、あんまりガーリー過ぎるのもヘンかなぁ」
「そんなことないと思うけど」
拡げた服をたたんで元に戻すと、コハルはしゃがみこんで下段の棚を眺めまわした。
「やっぱりシンプルな感じがいいんだ」
「そう……ピンクは好きだけど、あんまり前面に押し出すのもなって」
「いいじゃんべつに。あたしを見なよ」
「いやヒカリはそれでいいんだよ。私はほら、いちおうサクラギ研究所のリサーチフェローとして活動するわけでしょ。お父さんの研究所の看板背負うわけだから、少し地味なぐらいでもいいのかなって」
ヒカリは少し驚いた表情を浮かべたあと、口許をゆるめた。
「なるほど、そういう発想はなかったわ。コハルはいつも真面目だね」
「普通だよ」
これといってお気に入りのものは見つからなかったらしい。コハルは立ち上がって店内を見まわした。
「とりあえず下を先に見ようかな」
二人はその場を離れて、ボトムスのコーナーに移動した。ディスプレイされたスカートやパンツを見渡しながら、ヒカリが訊ねる。
「パンツ?スカート?」
「動きやすいのはパンツだよね…」
ヒカリはうなずいたが、口から出たのは反対の言葉であった。
「私の考えだけど、脚は出すべきだと思う」
「え、どうして?」
「かわいいから。だってあたしの知ってる同年代のポケモントレーナー、脚出してない人少ないよ」
コハルは小首をかしげた。
「そうかな…?シロナさんとかパンツだよ」
「シロナさんはお姉さんでしょ。それにあの人は着こなしてるし、ヒールと合わせてるからあたしたちとは較べられないよ。でもカルネさんは脚出してるよね」
コハルは、マネキンの履いているミニスカートのフリルを指でいじりながら、顔をしかめた。
「一度コンテストに出させてもらったけど、あの衣装でも一杯一杯だったよ。ミニは無理」
「そうか…コハル脚キレイだしもったいないと思うんだけどなぁ」
「出したくないわけじゃないんだけど……」
「じゃあショーパン」
「ショーパンね……」
コハルは棚から適当なデニムのショートパンツを取り出して、腰に当ててみた。ヒカリがウンウンとうなずく。
「いいじゃん」
「そういえばショーパンてほとんど持ってないんだよね。あまり着ないかも」
「そうなんだ。たしかにコハルのイメージじゃないかも。コハルはもっとこう、やっぱりガーリーなイメージかなぁ──あ」
何かを思いついたようなヒカリの表情に、コハルは期待のこもった目を向けた。
「なんか思いついた?」
「コハル、キュロットだよ。それなら短くても見えないよ」
コハルも、それは想定していなかったらしい。あぁ、と得心した様子で相槌を打った。
「キュロットね。それならいいかも」
コハルは辺りのハンガーラックをいくつか巡ると、その中から目についたらしい一枚を抜いて目の高さに掲げた。ネイビーカラーの、一見ヒダ付きのスカートにみえるキュロットだ。ウエストと裾にスカイブルーのステッチが入ってアクセントになっている。
「……これカワイイ」
「おっ、本日はじめてのカワイイ出た」
ちょっと履いてみる、といってコハルは近くにいた女性の店員にフィッティングルームの使用を申し出た。
店員に案内されてフィッティングルームの中に消えたコハルを待っていると、ほどなくしてカーテンが勢いよく開いた。さきほどのキュロットを履いたコハルが立っている。
「どう」
「いいじゃん。かわいい」
「だよね。これにしようかな」
服選びは一期一会。決まらないときは何も決まらないが、惹かれ合う一着が現れると決断も早いのだ。
試着を終えて出てきたコハルは、控えていた店員に運命の一着を手渡した。
「これにします」
「ありがとうございます。一緒に合わせるトップスなどはいかがですか」
「考えてるんですけど、どんなのがいいと思いますか?」
店員を伴って再びトップスの棚に戻るコハルの後ろに、ヒカリはのんびりとついていった。うまくお気に入りの一着が見つかってよかった。こうなったら、衣裳選びもさほど時間を要さないかもしれない。あとは服のプロに任せればよいだろう。
「コハル、あたしちょっとその辺見てくるね」
「うんわかった」
足許で退屈そうにしていたポッチャマとイーブイが、ヒカリについていく。店を出たヒカリは、行く当てもなくフロアの喧騒のなかに足を踏み出した。
二人がこの日のランチに選んだのは、同じファッションビルに入るチェーンのパスタ屋であった。昼前だが、席は埋まっている。
大きなショッピングバッグを傍らに置いて満足そうにミートソースのパスタを頬張るコハルに、ヒカリが笑いかける。
「よかったねコハル、いいの見つかって」
「うん、思ってたお店で見つかってよかったよ」
あれからコハルは、優秀な店員の見立てで、ネイビーのキュロットに合う白いブラウスを選んでいた。パフスリーブの甘い雰囲気のブラウスだが、シンプルなデザインでリサーチフェローの仕事にも障らないと思われる。
オリーブオイルのパスタをすすりあげながら、ヒカリはうなずいた。
「あとは靴だね」
「うん。けっきょくピンク入ってないし、靴とか小物とかにピンク入れたいな」
「スカーフとかね」
いいながら、ヒカリは自分の首に巻いているマフラーをつまんで、コハルに掲げてみせる。 .
「スカーフか。アクセントになっていいかも」
「でしょ。ピンクを取り入れるんならちょうどいいんじゃない」
この日、コハルは父であるサクラギ所長からクレジットカードを持たされていた。リサーチフェロー用の服も交通費も食事代も経費で落ちるとのことで、このランチもサクラギ研究所のおごりなのであった。
メインのパスタを平らげたところで、ヒカリが話題を変えた。
「あ~それにしても今日のおでかけ、ゴウも来れたらよかったのに」
急にゴウの名が出てきて、コハルはきょとんとなった。
「ゴウ?……うん、そりゃ研究所にいたら誘っただろうけど、いないんじゃしょうがないからね」
「まぁね~」
「……ヒカリ、前にも私がゴウの話したら変な目してたよね。何か言いたいことがあるの?」
「いや、実際んとこどうなのかなって。コハル、ゴウと付き合ってるんじゃないの?」
コハルは目を丸くした。ついで、ぶんぶんと手を振ってみせる。手首のひねりが武道の体得者ようにしなやかである。
「ちがうちがう、全然ないよそんなの!ゴウとは幼馴染みで、付き合うとか恋愛とか一切関係ないから」
「え~そうなんだ」
「びっくりした。なんでそんなこと思ったの」
ヒカリは、形の良い顎に指を添えて、考える仕草をした。
「前に会ったときに、ゴウが、なんかコハルには心開いてるっていうか。優しいっていうか。ちょっと特別な感じしたんだよね」
コハルは眉をひそめた。ヒカリに言われたことを頭の中で整理しているようだ。
「うーん……ゴウは優しいよたしかに。でも私だけにってわけではないと思う」
「ゴウだけじゃないよ、コハル自身も」
「私?」
ヒカリはデザートのバニラアイスをすくって口の中に入れてから、コハルの瞳を見つめた。
「コハルだって、ゴウのことは特別なんじゃないの。少なくともサトシとは違うでしょ」
「そりゃ違うよ。ゴウのことは昔から知ってるし、サトシは会ってまだ数年だもん」
「じゃぁゴウと同じ期間サトシと一緒に過ごしたとき、どうなってるかな。サトシを好きになると思う?」
コハルは苦笑する。
「サトシを好きに?ちょっと考えられない。いや、異性としては、って意味だよ」
コハルはオレンジジュースを一口すすると、テーブルの上でくつろぐイーブイのたてがみを撫でた。
「優しさでいったら、サトシだって相当だよ。ヒカリが前に言ったみたいに、ポケモンバカみたいなところはあるけど……意外なぐらいいろんなところ見てるし、私が困ってたらすっと助けてくれるし。サトシには私なんかじゃなくて、もっといい女の子たくさん寄ってくるんじゃないかな」
「へぇ、サトシのことそんなふうに見てるんだ」
「うん。それに感謝してる。サトシがいなかったら、私がポケモンとこんなに距離を縮めることはなかったと思うから。あと、ゴウのこともね」
「ゴウの?」
コハルは目を細めて、遠い記憶をたどりながらみずからの言葉をたしかめるように、うつむき加減になった。
「うん。サトシが来てから、ゴウは変わったの。外の世界に目を向けるようになったっていうか。たぶんゴウは、ずっと一人で何でもできるつもりで生きてきたんだけど、サトシと出会ったことで誰かに頼ることを知ったんだと思う」
「わかる。サトシは周りを元気にする力があるよ。一緒に旅してたから納得」
だよね、といいながらアイスを口に運ぶコハルに向けて、ヒカリはさりげなく語を継いだ。
「でもゴウは一人で生きてきたんじゃないと思うよ」
「どういうこと?」
ヒカリはコハルを指さしていった。
「コハルがいた。ゴウは一人で生きてきたんじゃなく、コハルがいたからそれ以外の誰も必要なかっただけじゃないの」
コハルは、そのエメラルドグリーンの瞳に戸惑いをたたえて、自信に満ちたヒカリの青い瞳を見つめ返した。
「……そんなこと、思ったこともなかったよ」
「思ってごらん。ゴウのこと、ちょっと違うように見えてくるんじゃない」
「いや見えても困るし」
コハルはグラスのオレンジジュースを飲み干して、背もたれにかけていたリュックサックを手に取った。
「さ、行くよヒカリ。今度は靴見に行くから」
「ハイハイ」
ヒカリも自分の荷物を持って立ち上がった。
コハルの新たな装いにピンクを添える午後の部は、さて長丁場になるだろうか。
ショッピングが早く終わったら、コハルを誘って海風に当たりに行こう。
今日はサクラギ研究所に泊めてもらえることになっている。サトシとゴウが使っていた部屋で、コハルといっしょに夜を過ごす予定だ。楽しい一日は、これからが本番であった。
『ゴウから着信です・ゴウから着信です』
コハルのスマホロトムが鳴ったのは、風呂も上がってパジャマを着て、ヒカリと寝る前のおしゃべりに興じようとした、まさにその瞬間であった。時刻は22時を回っている。
「あれ、電話かかってきた」
思いがけぬゴウからの着信に、コハルは焦った。まさか電話がかかってくるとは思わなかったのである。
こちらも風呂上がりですでにスウェット姿になったヒカリは、ひらひらと手を振った。
「あ、出なよ。あたし、カフェスペース行ってるね」
「ごめん、ヒカリ……」
部屋を出て行ったヒカリの背を見送って、コハルは通話のスイッチを押した。
「もしもしゴウ……?」
「コハル、遅くにごめん。いま大丈夫?」
幼馴染の少し甲高い声がなつかしい。コハルはつい笑顔になった。
「うん大丈夫だよ」
「家?」
「ううん。今日は研究所に泊まってるんだ。ヒカリといっしょに」
「えぇっ、ヒカリと?──待ってそうか、それであの写真送ってきたんだ。もしかしてヒカリと服買いに行ってたの」
「うん、そう」
──買い物は満足のうちに負えることができた。
靴は、あのあと店を二件回って、意中の一品を手に入れることができた。薄いピンクのショートブーツで、女の子らしいリボンの装飾がコハルの感性に触れた。
ヒカリおすすめアイテムのスカーフは、選んだブーツとちょうど同系統の色のものがあったので、迷わずゲット。
コハルの買い物が終わったあとは、ヒカリのリクエストで海の見える公園を散歩し、夜はキクナさんとよく行くチャイナタウンの天心をテイクアウトして、研究所で二人だけの女子会としゃれこんだ。
今日は研究所は休みで、所長も助手の二人もいない。だだっ広い研究所を二人だけで占有するのは、なんだか悪いことをしているような背徳感があって、コハルは背中にむず痒さをおほえる。
「コハル、今日の服着てみてよ」
二人で天心とデザートをたらふく食べたあと、ヒカリがいった。コハルに否やはなかった。靴を買うときもそれまでに買った服を合わせたわけではないので、一度全身きっちり合わせてみたいと思っていたのだ。
その場でショッピングバッグを開け、丁寧に包装されたナイロン袋をはがす。ブラウス、キュロット、ブーツ、そしてスカーフを身につけて、コハルはヒカリに向かって両手を拡げてみせた。
「ど、どうかな」
ヒカリは両手を合わせて目を輝かせた。
「すごーい、かわいい!」
「そ、そうかな」
「すっごくいいよ!ね、ポッチャマ」
同意を求められたポッチャマは、いつものようにデレッとしてポチャ~と鳴いた。イーブイも嬉しそうに跳び跳ねている。
「そうか、よかった。ありがとうねヒカリ」
「いいよ。それよりさ、これ撮ってゴウに送ろうよ」
突拍子もないヒカリの提案に、コハルは目を丸くした。
「えぇっ、ゴウに?なんで…」
「だって二人の後を継いでリサーチフェローになったんでしょ。撮って送ってあげたら喜ぶよきっと。あ、サトシにも送ろう」
ヒカリの言うことはわかる。見てほしい、という気持ちもないわけじゃない。
でも恥ずかしい。サトシに対しては不思議と何も思わないけれど、ゴウに対してはひどく恥ずかしい。なんでだろう。幼馴染で、昔から知ってるのに、今さらあらたまって自分の勝負服を見せる意味を図りかねているからかもしれない。
だってそれって、まるで感想を求めてるみたいではないか。カワイイとか言ってほしがっているなどと、絶対に思われたくない。
しかしヒカリは有無を言わせなかった。勝手にコハルのスマホロトムを取り上げて「はいチーズ」などとやる。
つい乗せられてポーズを取ったコハルに、ヒカリはたたみかけた。
「ちょっと待ってそのまま」
ヒカリは何枚かシャッターボタンを押してから写真を確認し、コハルにスマホロトムを返した。
「はい!じゃ送ろ」
「え~本当に送るの?自意識過剰とか思われないかな?」
「大丈夫大丈夫」
「ダイジョバナイよ~」
それでもコハルは、しぶしぶメッセージ作成画面を開いた。サトシたちが研究所にいた頃に使っていた、3人だけのグループチャットだ。二人がいなくなってから一度も使っていないので、開くのはすいぶん久しぶりであった。
コハルはどう文章を打つか少し考えたが、すぐに指先を画面に滑らせた。
「リサーチフェローはじめました」
メッセージに、ヒカリに撮ってもらった自分の写真の中からマシな一枚を添付して、送信する。
送ってしまってから、コハルはすぐにスマホの画面を消して、自分から遠ざけるようにテーブルの端に置いた。心のなかで念じる。──二人とも返信とかいらないからね。既読スルーはそれはそれで辛いから、メッセージに気づかずやり過ごしてくださいお願いします──。
するとスマホロトムが喋った。「サトシからメッセージが届きました」
「いや早すぎでしょ」
コハルは震える手でスマホを手に取り、懐かしい友達からのメッセージを確認した。
「コハルすげー!めっちゃ似合ってるよ!旅に出てわかんないことあったらいつでも連絡してくれよな」
ヒカリと一緒にメッセージを覗き込んで、そのまま二人は額を突き合わせて笑った。
「サトシ、本当にいい人」
そう呟いて、コハルはすぐに返信を打った。
「ありがとう。困ったら連絡するね」
既読は一件しかついていない。ゴウはまだ見ていないようだ。たぶんこのままノーリアクションということはないだろうから、いずれ彼からも返信が来るに違いない。少し緊張する。胃がもたれるのは、さきほどの天心ばかりが原因ではあるまい。
とりあえず先にお風呂に入っておこう。あがった頃には返信が届いているかもしれない。寝る前にそれをネタにヒカリとひと盛り上がりできるだろう。
そう思いながら風呂から戻ってきたコハルのもとに届いたのは、メッセージではなく電話の着信であった。
ヒカリは元気、そうかよろしく伝えといて、というような会話を二言三言交わしたあと、ゴウはあらたまって尋ねてきた。
「コハルいつ行くの、初リサーチ」
「来週末。近場だけどね」
「そっか。緊張してる?」
「ううん。いまのところとくには。というか、何に緊張したらいいかもわからないってとこかな」
電話の向こうでゴウが笑った。
「そりゃそうだよな。──ま、困ったことあったら俺に連絡してこいよ。なんせ栄光の初代リサーチフェローだからな」
「先輩ぶるなぁ。……ま、憶えとくよ」
おう、と応じたあと、ゴウはそのまま口を閉ざしてしまった。次の言葉があるかと予想していたコハルは、思わず問いかけた。
「あれ、ゴウ?聴こえる?」
「あぁ、聴こえてるよ」
「急にどうしたの、黙っちゃって」
「いや、とくに話すこともないから」
「そうだね」
コハルがこたえると、ゴウはまた押し黙った。
「ゴウどうしたの」
「あ、いや何でもないんだ。──そうそう、さっきの写真。なんか久しぶりだな、コハルを見るの」
「あれね。……ごめんね、よけいな写真送って」
やっぱりその話題は避けられないらしい。顔が見えない音声通話でつくづくよかったとコハルは思った。
「いやいいよ久々だし」
久々じゃなかったら、やっぱりまずかっただろうか。
「服、あんなんでよかったかな。ヘンじゃないよね?」
「あぁ、全然大丈夫!なんていうか、すげーか──」
「……ん?ごめん、最後聞き取れなかった」
「いや。か、カッコいいっていうか……」
「あぁ、ありがと」
変だな、とコハルは思った。電話越しにゴウの声がうわずってるのがわかる。何を焦っているのだろう。
「ゴウ?本当にどうしたの。なんかヘンだよ」
「そうか?いやせっかく写真送ってくれたし、いちおう褒めとかないとなって思って」
コハルは目尻を下げてクスッと笑った。
「なにそれ。義務感で褒めてくれたの?そりゃ褒められないよりはいいけど……」
「だからそうじゃなくて。義務感とかじゃなくて」
「うん?」
「まぁカッコよかったし、そのすげーか、可愛かったよ」
ゴウの声が耳に届いた瞬間、コハルの胸に一陣の風が吹き抜けた。
予想だにしなかったゴウの言葉が、ほんの少しのタイムラグを置いて全身を包み込む。戸惑うほどに、身体の芯が熱くなっていくのをコハルは感じた。
「とりあえずそんだけ。じゃあな!」
コハルが返事をするより先に、ゴウは通話を切った。
コハルはスマホロトムを握りしめたまま、しばらく動かなかった。ゴウにいわれた言葉がぐるぐると脳裏を巡り回っていた。
かわいい。
キクナにもレンジにも言われたことはあるし、スクールの友達にも言われたことはある。多くは社交辞令とか、たいした意味のない褒め言葉として受け止めてきて、いわれてイヤな気はしないけれど、さりとてそれを言われて感情が揺さぶられる、なんてことは一度もなかったのだけれど。
なのにいま、どうしてこんなに心が落ち着かないんだろう。
ゴウは優しい。でもそれは、気を遣ってくれるとか、困ったときに助けてくれる、という意味で、コハルを喜ばせるための褒め言葉なんていうのは、記憶する限りいわれたことがなかった。
「なんなのそれ……」
なんで可愛いなんて言ったんだろう。べつに思ってないなら、言わなくていいのに。だいたい、いくら新しい服を着たからって、あんな適当な写真で今さら思うことなんかないはずなのに。
「もう、ヘンなこといわないでよ」
褒められたのに、嬉しいよりも戸惑いのほうが先に来る。なんなら少し腹が立つ。
コハルは腰かけていたベッドを蹴って勢いよく立ち上がると、早足で部屋を出た。
考えてもわからない。とりあえずヒカリに話してみよう。何も考えていないようにみえて、彼女は時に的確なアドバイスをくれるのだ。
ヒカリのいるカフェスペースに向かって歩くコハルの頬が、少しずつ緩んでいく。でもそのことに本人は気づいていなかった。
了