怖いさんがお隣に引っ越してきた!④「いらっしゃいま、あ!赤井さんじゃないですか。こんにちは」
午前中のまだ客足も少ない時間帯の事だった。テーブルを拭いていた僕が来客を知らせるベルに顔を上げると、見覚えのある人が立っていた。思わずこの間覚えたばかりの名前を口にする。突然呼ばれてこちらを向いた彼は僕に気付くと目を丸くした。
「おや、君は……安室くん、か」
多分、まだ完全に名前と顔が一致していないのだろう。数秒考えた後で記憶を探りながら出てきた名前に頷いてみせる。
「名前覚えていて下さったんですね。嬉しいです」
布巾を畳み、お好きな席へどうぞと案内すると赤井さんは店内を見渡してカウンター席の角に腰を下ろした。
お冷を持っていくと真剣な表情でメニュー表を睨みつけていた。まるで紙面で重大な記事でも読んでるみたいだなと思いつつ、厨房へと引っ込めば数分と経たない内にカウンターを隔てて珈琲を一つ、ブラックで、とオーダーが入る。
サイフォンの準備をしてコーヒーミルに手を伸ばす。長年使い込まれた手動のそれは、回すときに少しだけコツがいる。扱いにくい部分もあるが小さな振動を指先に感じるこの瞬間が僕は好きだった。
「驚いたよ、まさか偶々立ち寄ったこの店で君が働いているとはな」
丁度フラスコにお湯を注ぎ始めた時、赤井さんが口を開いた。
驚嘆混じりの声色がなんだか面白くてつい口角が上がるのを感じながら、お次はとアルコールランプに火をつける。
確かにこの店はアパートからはやや離れた場所にあったから、彼が驚くのもわかる気がする。ふらりと立ち寄った先で隣人が働いていたら僕も同じ反応をしていただろう。
「僕も驚きましたよ。今朝、近所の方と丁度貴方のことを話していたところだったので」
「俺の話を?そいつは怖いな。覚えはないが何かやらかしていたかな?」
「あはは、違いますよ。ほら、僕らのアパートの隣に日本家屋があるじゃないですか。あそこに住んでるお婆さんに貴方の名前を聞かれたんですよ。数日前に財布を拾ってあげたそうですね」
最近身体のあちこちが痛くて買い物が辛くなってきたと語っていた女性。その彼女が珍しく声を弾ませて、開口一番「あの男前は誰かねえ」と尋ねてきたのだ。最初は誰のことを指しているのかわからなかった。抑々近所の人間じゃないのでは?という疑問も浮かんだものの、それはすぐに赤井さんだと判明した。黒のニット帽というワードが出たらもうこの人しか思いつかない。
初対面時は怪しい人だと思っていたが、見かけに反して親切なところもあるらしい。今思うと完全に見た目で判断してしまっていた。仕事柄疑ってかかってしまうのは僕の悪い癖だなと彼に対して罪悪感を覚えた一方で、その話を聞いてからというもの、僕は彼に興味を抱いていた。
今のところわかっているのは左利きと言う事と、恐らく料理はあまりしなさそうだと言う事だろうか。それから、ああ、そういえばこの間微かに煙草の香りがしていたな。という事は恐らく喫煙者の可能性が高いな。
ちらちらと観察しながら出来立ての珈琲を彼の前に置く。勿論持ち手は僕から向かって右になるようにだ。
「ああ、その話か。何、たまたま目の前で落とすのを見ていたから、呼び止めて手渡しただけさ」
「貴方にとても感謝していました。お隣さんだって話したら伝言も頼まれたんですよ?改めてお礼がしたいからそのうち家に来て欲しい、って。貴方、名乗りもしなかったそうじゃないですか」
「大袈裟だな。そこまで大したことをしたわけじゃない」
赤井さんはそう言って肩を竦めた。
「でも、実際本当に助かりました。お婆さん、円さんって言うんですけど、最近物忘れが酷くなってきてるみたいで。たまに自宅の鍵なんかも失くされるので僕も時々訪ねるようにしてるんですよ」
「まあ何かと物騒な世の中だからな。ご老人の一人暮らしが心配だという君の気持ちもよく分かるよ」
優しいんだな君はと真っ直ぐな眼差しに捕らえられ、不覚にもどきりとしてしまう。……うん、確かにこの顔は反則だよなあ。灰色がかったモスグリーンの瞳はいつ迄でも眺めていられそうだ。つい魅入ってしまっていたが、気がつけば相手もまた同じように僕の方を見つめていて。真剣な眼差しだった事も相俟ってなんだか気恥ずかしくなってきた。多分、数秒間位だったと思う。その短い時間が不思議と長いものに感じられ、遂には耐えかねて僕の方から視線を反らした。
「そうなんですよね。この辺は特に人気も少ないので気になっていて。防犯にもなりますし、時々で良いので見かけた時は声をかけてもらえると有り難いです」
「勿論OKだ。君のいない時は特に気にかけるようにしておくよ」
お礼を言って頭を下げると、近所のよしみだ。気にしないでくれ、と赤井さんは笑ってくれた。内心気を悪くしてしまったんじゃないかと心配していたのでその穏やかな笑顔には正直救われた。この間疑ってしまったお詫びもかねて僕にも何かできないかな。
──あ、そうだ。あれなら。
安堵したところでふとあることを閃いた僕は、他のお客さんがいないこの時がチャンスだと一旦カウンターを離れることにした。店内から見えない奥の厨房には業務用の冷蔵庫がある。
その中から取り出したものを持って赤井さんのところへと戻るとよかったらどうぞ、と一言添えて珈琲の横に並べる。注文にないものを置かれた赤井さんは不思議そうに首を傾げた。
「これは?」
「僕からのお礼です。プリン、お好きなようだったので」
以前ゴミ捨て場に案内した時袋の中に見えた空の容器。特徴的なデザインのそれは有名菓子店のものだったから、それがプリンの容器だということは確実だった。ただ、一人暮らしのようであっても、それを彼が食べたという100%の保証にはならない。不確定な要素には不安もあった。どう反応されるかわからず相手の様子を伺い見る。
赤井さんは無言だった。薄い唇を僅かに開いて固まっている。正解か、不正解か、わかるまでのこの沈黙が気まずい。
「……あの、……ご迷惑、でした?」
「ッ!ああ、いや、」
やっぱり下げたほうがいいかな、と手を伸ばしかけた時になって赤井さんの金縛りが解けた。突然上がった声に思わず手を引っ込める。
「すまない……ただ、突然の事に驚いて。うん、確かに好きだよ、ありがとう。喜んでいただこう」
弾かれたように顔を上げた彼は、明らかに戸惑いを見せていた。動揺から声を震わせる人間臭いその姿はなんだか意外で。取り繕うのを忘れていた為かそんな感想をついつい面に出してしまっていたらしい。こちらの様子に気がついた赤井さんは左手で口元を覆うような仕草を見せたあと、堪えきれない感情をもて余すかのように頬を緩めたのだった。