指輪が欲しいなどと、口にしたことはないのだけれど。
例えば長期任務に出発する朝だとか、別に彼と一緒の作戦ではなかったとしても、身支度を急がせた彼は無言で私を手招きする。窓の外はまだ暗く、宵っ張りの星々でさえまだ二度寝を決め込んでいるような時間帯。もたもたとフードの紐を結び終えた私は、左手の手袋だけを外しながら促されたとおりに彼の膝の上にそろりと腰かける。そうすればとっくに準備を整えていた彼の手のひらがぐいと私の左手をつかみ、右手に持った小さな刷毛でただ一本の指の爪だけを彼の色に染め上げていくのだった。
無論、背後から覆いかぶさられているので彼の表情を窺い見ることは難しい。無理やり身体をひねればできなくはないだろうが、そうすればこの時間は二度と手に入れることはかなわないだろう。彼よりも一回りは小さい爪は、刷毛がほんの数往復してしまえばあっさりと塗り終わってしまう。触るなよ、という言葉が降ってくるのが終わりの合図で、しかし器用に片手で刷毛を戻した彼はまだ私の左手を掴んだまま。信用がない。なさすぎる。まあ思い当たる節ならばいくらでもあるのだけれど。
そうして互いの呼吸だけが部屋を満たす短い時間が終わると、最後に彼はゆっくりと一本だけ色の変わった爪を撫でてそっと私の腕を解放する。解放された左手をしげしげと眺めていると、はやくどけと苛立った彼の声がフード越しに正確に耳元に吹き込まれるので、わざとらしい悲鳴を上げながら座り心地抜群の私だけの特等席から飛び降りるしかないのだった。
「ねぇ、エンカク」
「断る」
「私はまだ何も言っていないのだけれど」
「お前の言葉など、どうせろくでもない内容に決まっている」
「酷い!」
彼は私の抗議など聞く耳持たぬといった様相でさっさと自分の爪の塗り直しに取り掛かっている。あたかも先ほどの出来事など自分の作業のついでであったのだと全身でアピールしているかのように。だからもう胸がいっぱいになってしまった私は、これ見よがしに彼の目の前で真新しく黒くなった左手の薬指にくちづけを落とすことしかできないのだった。