花と星の季節「いまの俺が欲しいものはこれしか考えられません。鯉登さんを拘束させてください」
人生は何が起こるかわからない。一回りも年若くてものすごくかっこよくて美しくてかわいい恋人とつきあうようになって、しかも一緒に暮らすようになるなんて一年前の自分に言っても信じないだろうと月島は確信することができる。
けれど自分自身のことも、自分に起きることも想像がつくなんて思い上がりもいいことであると、いまの月島は知っている。
恋人と迎える最初の自分の誕生日をどう過ごすべきか、何を望むべきか、あるいは恋人はサプライズを考えているのではないか、月島が散々頭を悩ませた末にたどり着いたこれをおいて他にないという結論を切り出すと
「……は?」
どういう方向で受け取ったのか、鯉登がみるみるうちに色黒の艶やかな頬を真っ赤に染めて次の言葉を探して口をぱくぱくと動かす。
鯉登が頭の中で繰り広げているであろうめくるめく光景を察した月島も伝染したように赤面して
「すみません、言葉が悪かったです。そういうことではなくて、鯉登さんの時間をください、ということです」
適切な表現を探し直した。
「ずっと考えていたんですが、俺はいま、とても満たされているので欲しい物は特段思いつかなくて、俺が一番欲しいのは鯉登さんとの時間だということになりました」
二月末の祝日に丸ノ内線の始発駅である荻窪駅から徒歩一〇分の新築の賃貸物件メゾン・エテルニテ三〇一号室に越して同棲が始まってしばらくすると月島の仕事が繁忙期に入り、年度末に向かって激務といっていい苛烈な労働時間になっていた。
「ちょうど俺はセールも終わってゆっくりできる時期だから」
鯉登が家事のほとんどをこなしてくれたが、共に暮らしていながら鯉登に任せてばかりな上に一緒に過ごす時間も充分に取れないことを月島は申し訳なく、そして歯がゆく、物足りなく思っていた。
一緒に暮らしているのに夕飯も別々だし風呂も寝る時間も完全にすれ違いの生活で、鯉登がすこやかな寝息をたてているダブルベッドにそうっとすべり込み、鯉登の体温と匂いを感じながらも疲労に屈服して泥のように眠り、アラームが強制的な朝を告げる。その繰り返しだった。
「四月一日とそれから翌日の日曜日。鯉登さんを俺に独り占めさせてください。鯉登さん、土日休み取ってくれたんですよね」
忙しさと同時に寂しさも月島の限界をとっくに超えていたし、同じ家で生活しているからこそのすれ違いが堪えるのはわずかな時間でも甘えるようにしてくる鯉登とて同じだろうと踏んで月島はこの結論に達したのだった。
一般企業でカレンダー通りに勤務する月島と違って百貨店のアパレル店舗にシフト制で勤務する鯉登は土日が連休になることはめったになく、調整をしてくれたのであろうことは察せられた。
お互いの休みが重なることが少ないからカレンダーアプリと、一緒に暮らすようになってからは大型の冷蔵庫に貼ったカレンダーに互いの予定を書き込んで共有しており、カレンダーの四月一日と翌日の欄には鯉登が異様に似ている月島の似顔絵とケーキを描きこんで月島を和ませた。
手先が器用で絵心のある鯉登がカレンダーにちょっとしたいたずら描きをするのを見つけるのは、同棲が始まってからの月島の密かな楽しみだった。
「それは全然かまわないし俺もうれしいが、それだけでいいのか?」
「それがいいんですよ。鯉登さんの貴重な土日休み、両方全部、俺にください」
自分の誕生日にいい思い出も思い入れもない月島よりも鯉登の方が楽しみにしていて、欲しいものをずっと前から訊いてくれていたが、鯉登はイベントごとがなくても日常からさりげなく物を渡したり贈るのがうまいからつきあっているうちに月島の身の回りには鯉登から与えられ贈られたものが自然と増えていたこともあって月島はこれという具体的な物が思いつかなかった。
「二人で出かけましょう」
「出かけるのか?」
「もしかしてサプライズで何か準備とか予約とかしてくれてましたか」
「いや、全然。仕事が忙しすぎるから家でゆっくりしたいんじゃないかと思っていたから」
「ゆっくりはしたいですが、家はこれからもずっと一緒ですし最近俺が忙しくて家のことお願いしてばかりでしたし、リフレッシュしませんか。せっかくの誕生日なんで鯉登さんをもっと独占できる特別なこと、させてください」
「うん、それなら出かけよう。土日の俺は全部月島のものだ」
鯉登が輝くような笑顔を向けてくれたことに月島の胸はきゅっと甘くときめかずにいられなかった。
そして月島は激務の合間にレンタカーの手配と目的地の予約だけはすませたのだった。
★
誕生日前日の金曜日は年度末であったが事前の準備と段取りがものをいって仕事の山を無事に超えて比較的早い時間に月島が帰宅すると
「俺も今日は忙しくて作れそうになかったから買ってきた」
鯉登が近所の商店街の惣菜屋でテイクアウトしたアジフライをオーブントースターに並べていた。
鯉登がアジフライを温め直してワカメと豆腐の味噌汁を作っている間に月島が冷蔵庫の中のキャベツをたっぷり千切りにしてミニトマトとキュウリを添え、味噌汁の吸い口に万能ねぎを刻んだ。広いキッチンに二人して並んで、阿吽の呼吸で協力しながら料理ができる幸せを月島は噛みしめた。
「久しぶりに鯉登さんと夕飯作って食べられてうれしいです」
「それは俺も。二人だとちゃんとおいしい」
二人とも好きな銘柄の缶ビールをグラスにそそいで乾杯した。
アジフライに鯉登はタルタルソースを添えて、月島は醤油をかけ回して大口で齧るとざくっとした触感と香ばしさとじゅわっと滲み出る脂が口中に広がってビールと白米が進んだ。
「月島、いい加減どこに行くのか教えてくれ」
鯉登は「醤油もやってみよう」とアジフライに醤油を垂らして頬張って「うん、醤油もうまい」と満足そうにうなずいてから
「サプライズをするのは俺の方なのに」
色黒の頬を不満げに膨らませて、その愛らしさとかわいらしさは月島をたまらない気持ちにさせた。
「なにか準備をしてくれているんだろう。忙しいのに」
「いつもよりちょっと不便で、ちょっと面倒で、そのかわりうんと贅沢なところへ行きます」
「なんだそれは」
「キャンプです」
「キャンプ」
グラスに残っていたビールをぐっと呷って宣言すると鯉登は目を丸くしていた。
「鯉登さん、キャンプしたことありますか」
「子どものころ鹿児島でした。でももうほとんど覚えていないし大人になってからはしたことない」
「夏のバーベキューが楽しかったので焚火とかしてみたくて」
昨夏の終わりに鯉登の行きつけのカフェバーKOGUMA cafe&Barのスタッフたちと常連が集まって海辺の公園でバーベキューをしたとき、青空と緑の下で鯉登がとても楽しそうにしていたのが強く心に残っていた。
あのときは多くの人にうんと親し気に声をかけられていた鯉登を全部自分が独占したいというわがままな欲望を抱いていることを月島は充分に自覚した上で、比較的アクセスのいい隣県のキャンプ場を予約したのだ。
温泉の湧く景勝地として知られる渓谷の、湖へと流れ込む小さな川のほとりにバンガローとテントサイトが整備されていて、いきなりテント泊はハードルが高いだろうとバンガローに一泊の予約を入れた。
「知識とか全然ないがいきなり行ってできるものなのか?」
「レンタルも充実しているみたいだしなんとかなるでしょう。レンタカーとバンガローは予約してあります。近くの渓谷は景色がいいみたいですし温泉もあります」
「月島あ!」
鯉登は興奮して立ち上がらんばかりに目を輝かせた。
「最高じゃないか」
「相談もせずに勝手に決めてしまってすみません」
鯉登は「月島の誕生日なのにサプライズされてしまった」とやや不満そうに口をとがらせてから
「でも、うれしい。俺も楽しみだ」
花がほころぶような笑顔を浮かべた。この笑顔を自分だけが知っているのだと思うと、月島は自然と照り返しのような笑顔を浮かべずにいられなかった。
「近場ですし明日はゆっくり起きて、のんびり準備して、そういう鯉登さんの時間も全部俺にください」
睦みあう夜が長くなったせいで翌朝はいつもより遅めにアラームをセットした。
遮光カーテンの隙間からあふれる春の光に深く長く眠っていた月島が覚醒して瞬きをすると、ダブルベッドの中で先に目をさましていたらしい鯉登が至近距離から月島を見つめていた。
「おはよ。月島ぁ、起きたか?」
「まだ起きてないです」
鯉登が甘やかな声をかけてくるのに目をきゅっと閉じてふざけて答えると
「月島ぁ、起きてくいやい」
瞼に、鼻先に、ざりざりとした髭に、それから薄い唇に口づけの雨が降ってくる。
月島の唇にたどり着いた鯉登の唇が何度も押しつけられて、少し厚めの下唇の柔らかさと熱っぽさに月島がついゆるく口を開くとじゅうっと吸いついてくる。
「なあ、月島あ。起きたか?」
月島からもキスを返して鯉登のやや厚めの下唇を食むように優しく歯を立てて、パジャマ越しの鍛え抜かれたしなやかで美しい筋肉に覆われた鯉登を自分の方にぎゅうと抱き寄せてぴったりとくっついた。
大好きな鯉登のいい匂いに濃密に包まれて、これはあんまり言うと鯉登が恥ずかしがるので胸に秘めたまま深く呼吸して思うさま鯉登の匂いを存分に吸いこんだ。ああ、本当に鯉登さんが好きだ――何度だって新鮮に、深く強く、月島はそう思うことができた。
「うん、起きたかもしれません」
「おめでとうってちゃんと言いたいから起きてくれ」
だんだん深くなっていくキスの合間に耳元に吹きこまれる蕩けるような甘やかな声に月島がつむっていた目をゆっくりと開くと、漆黒の双眸がうんと近くから月島だけを見つめていた。
「おはよう。月島」
「おはようございます、鯉登さん」
「月島、誕生日おめでとう」
また柔らかく唇を吸われて月島が「ありがとうございます。うれしいです」とキスを返して、スヌーズをセットしていたアラームが鳴っても離れがたくて二人してくっつきあってキスを繰り返して溺れた。
いつまでも鳴り続けるアラーム音に耐え切れなくなった鯉登が長い腕を伸ばして音を止める合間も月島はひたすら鯉登の唇を追いかけて柔らかな舌を啜って
「鯉登さん…もうちょっとこのまま、してください」
「月島の好きにしていい。今日と明日の俺はぜんぶ月島のだから」
鯉登とのキスに夢中になりながら、幸せで溶けるとしたらこういうことだと月島は思った。
ようやくベッドから起きだして鯉登が淹れてくれたコーヒーを飲みながらキャンプ場のウェブサイトや天気予報を確認して、持っていけそうな調理器具と調味料、夜は気温が下がりそうだからダウンジャケットや防寒具をレンタカーに詰め込んで出発した。
車種はなんだってよかったが、コンパクトカーよりは少しでも広い方が長身で手脚の長い鯉登にはリラックスできていいだろうと最新ナビ付のエコなSUVを予約した。
「教習所でしか運転したことないんだ」
ハンドルは月島が終始握ることになるのをペーパードライバーの鯉登は眉を下げて気にしていたが、月島自身は運転する機会はそんなに無いもののわりと好きなのと鯉登が趣味のいい音楽をかけてたくさん話をしてくれるのであっという間のドライブだった。
アクアラインの長いトンネルを抜けて海を渡ると春が咲きこぼれて光があふれていた。
海ほたるとアウトレットを目指す渋滞を抜けると車はすっかり減って、のどかな道をしばらく走ると地平の先に低い山々がのったりと連なって広がっているのが見えてきた。
「すっかり春だ。とても気持ちがいい」
「東京よりもやっぱりちょっと季節が早い気がしますね」
勢いよく伸びている竹林の淡い緑と、南に向かうにつれて植生が変わるのか、まるでブロッコリーのようにやや厚みのある色濃い葉を密集させて繁る樹々の濃い緑が光をたっぷりと浴びて目にも鮮やかだった。
「月島ぁ!すごい、見てみろ」
助手席の窓を開けて爽やかな南風を頬に受けていた鯉登が歓声を上げたのは、山間のゆるやかなカーブを上っていって視界が急に開けた先に満開の菜の花畑と桜並木が一面に広がっているのが目に飛び込んできたときだった。
鮮やかで可憐な黄色い絨毯とこの世の春とばかりに咲き誇る桜が青空の下どこまでも広がっている。
「すごいな!月島」
「ちょうど満開ですね」
今年の春はなかなか暖かくなりきらず都内の桜はまだ五分咲きといったところだが東京湾を隔てると春爛漫の盛りだった。
菜の花畑と満開の桜並木の下を一両だけのローカル線の車両がゆっくりと通っていくのを、土手にずらりと凝ったカメラを並べた人々が大きなレンズをのぞきこんで次々にシャッターを切って収めている。
「月島、早くおりよう。見たい!」
レンタカーを観光客向けに用意された簡易な駐車スペースに止めてから、二人して菜の花畑へと斜面をおりていく。
軽やかに、踊るように、駆けださんばかりの鯉登が目を輝かせて菜の花畑を見渡しては見事に咲いた桜を見上げるのを月島はまぶしく眺めた。
「すごい、こんなの初めて見た」
「俺もです――綺麗ですね」
青空の下にあるもの全部、あふれる光も、花も、鯉登も輝くばかりの美しさだった。
鯉登がスマートフォンを取り出して菜の花の黄色と黄緑に、桜と青空にレンズを向けてシャッターボタンを押すのを見ていると、いつの間にか自分にカメラを向けていることに気づいて「あ」と思ったときには切り取られていた。
「せっかく綺麗な景色なのに俺なんか撮って楽しいですか」
「とても楽しい」
「そうですか」
「だって月島、すごくいい顔をしてる」
なめらかな頬を上気させてまるで花がほころぶように柔らかく微笑む鯉登に月島は自分の心がどこまでもゆるんで、そしてあたたかいもので満たされていくのを感じた。
「月島、こっちだ」
鯉登に手招きされてすぐ隣に立つとカメラの向きを変えた鯉登が菜の花と桜を背景にした二人を収めて
「ほら、いい顔だろう」
さっそく得意気に見せてくる画面をのぞきこむと二人して満開の笑顔をしていて、自分がこんな顔をして笑うようになったことが月島にはなんだかくすぐったかった。
「後で送るな」
「鯉登さん、本当に写真撮るの上手ですよね」
「月島のことが好きだからシャッターチャンスは逃さないんだ」
真剣な面持ちできっぱりと言い切る鯉登のまっすぐさに月島は頬のあたりがのぼせるように熱くなるのを感じた。
「月島。かわいい」
鯉登がいたずらめいた笑みを浮かべて、自分なぞがかわいいとはどういうことかとどきりとした月島の頭のてっぺんあたりに長く美しい指先を伸ばしてきたかと思うと、舞いおりた一輪の桜を指先でつまんでみせた。
「桜もお祝いしてくれている。いい誕生日だな、月島」
★
のどかな山道をドライブしながらキャンプ場をめざす途中のスーパーマーケットで二人の好きな銘柄の缶ビールやちょっといい牛肉を買い込み、直売所で地場ものの新鮮で立派に育った野菜を手に入れた。
「この野菜、初めて見た」
直売所で鯉登が手にした袋の中にぱんぱんに詰まったみずみずしい青菜には「のらぼう菜」というシールと値札が貼られている。
「せっかくだから買いましょう」
「菜の花もすごく安い」
「今年まだ食べてないですね。両方買っていきましょう」
「青菜ばかり多くないか?」
「余ったら家で食べればいいですよ」
直売所にはふつうのスーパーマーケットには並んでいないであろう地元の猪肉を使ったソーセージが並んでいたのでそれも焼いてみることにした。
「やっぱり米も食べたいですよね」
「炊けるのか?」
「米三合とフライパンを家から持ってきてあります」
月島がぬかりないとばかりに胸を張ってみせると、鯉登が「なるほど」とうなずいていかにもその辺りから掘ってきたばかりといった風情の筍に視線を注いだ。
「筍ごはん、今年まだ食べてないな」
「ああ、食べたいですね」
果たしてキャンプで筍の処理ができるのか月島が顎のあたりをさすっていると、鯉登がすかさずスマートフォンで調べて
「フライパンで筍ごはんも作れるらしい」
「あく抜きとかできますかね」
「茹でればなんとかなるだろう。でも、それにしたって三合は多すぎないか」
ふふ、と小さく笑われながら、掘り出されたばかりの筍とこの辺りの在来種である小糸在来という大豆で作られた油揚げを買ってみることにした。
「マシュマロも焼きたい」
「デザートですね」
「ケーキのかわりにはちょっとささやかすぎるか」
「じゅうぶんです」
最後に鯉登の提案でマシュマロと竹串も追加した。
見知らぬ土地の直売所や入ったことのないスーパーでゆっくりとカートを押しながら鯉登とためつすがめつ食材を選ぶこの時間は月島にとって日常のようでたしかに非日常の特別な時間だった。
「月島、ここ圏外だ」
日がかたむき始めたころたどりついた川沿いのキャンプ場のバンガローに荷物を運び込んだところでスマートフォンの画面に視線を落とした鯉登が眉を下げるのに、月島も後ろポケットにつっこんでいたスマートフォンを確認すると✕のマークがついていた。
「俺のキャリアもだめですね。気になりますか? 仕事の連絡とか」
「いや、休みだから仕事はかまわない。さっき撮った写真を月島に送ろうと思ったんだ」
都心から距離としては大して離れていないのに低いとはいえ山の中だからか電波が入らなかったのは月島の意図したことではなかったが、鯉登が電波とネットワークを通じたソーシャルな関係からもすべて絶たれたことに妙な満足感がじわじわとわきあがってくるのを否定できなかった。
鯉登のあらゆる時間を全部、いま目の前にいる自分だけが独占しているのだと思うと、鯉登に関して自分は思っていたよりもずっと欲張りになれるのだと月島は自覚した。
「日が暮れる前に火を熾しましょう」
「そうだな。ちょっと冷えてきた」
着火剤と多目的ライターで手際よく火を熾して、ゆっくりと薪をくべてパチ、バチと爆ぜる音を聞きながら二人してほのぼのと火に照らされた。
じっくりとソーセージを焙ってのらぼう菜はさっとソテーして添えて、菜の花は焦げ目がつくくらいじっくり焼きつけて醤油をじゅっと回しかけると、味が濃くてほろ苦くて滋味深くおいしかった。
ゆっくり火を入れた筍ごはんはややえぐみが残ったもののお焦げもできて、月島も鯉登も旺盛な食欲を発揮した。
「三合でちょうどよかったな」
「はい。残った分は明日の朝ごはんです」
「あまり準備もせず来てちゃんとできるか不安だったがちゃんとキャンプになったな」
「初めてにしては大成功ですね」
「月島の言った通りいつもよりちょっと不便で、面倒で、それにうんと贅沢だ」
串にさしたマシュマロを焼いて頬張り、焚き火の世話をするのが楽しいらしく焚きつけを足したり灰を掻いている鯉登の艶やかな頬が炎に赤く照らされて、瞳がとろんと優しくうるんでいる。
こんなにも特別な美しさを持っているのを、俺はまだ知らなかったんだな――炎に照り映えた鯉登が湛えた無垢な美しさに月島はぼうっとのぼせたように見入った。
時計も電波もない中でゆっくりと暮れて暗くなる空とだんだんと下がる気温と柔らかく吹く風だけが時間が過ぎていくのを教えてくれた。キャンプ場の消灯の時間に惜しみながら火を消すと急に静かに、寂しくなってしまって
「まだ寝たくない」
「たしかに寝てしまうにはもったいない夜ですね」
「散歩しよう、月島」
川のせせらぎを頼りにキャンプ場の夜道を歩いてみることにした。
「月島」
鯉登が当たり前のように手を包むように指をしっかりと絡めてくるのをそっと握り返すと、火にじっくりとあたっていた二人して指先までじんわりとぬくもっていた。
「月島、見てみろ」
突然足を止めた鯉登が空いている左手で真上を指さした。
「星がすごい」
長く美しい指先をたどると星空が広がっていた。春の生命の気配を含んで霞がかった夜空に星粒がちりばめられて瞬いて、ずっと眺めていると星々が息づきあっているようだった。
「牡羊座ってどこだ?」
「全然わかりません。オリオン座ならわかります」
「それは俺も」
いつかの会話を思い出しながら二人してじゃれあうように笑いあってしばらく真上ばかりを見ていたが、鯉登が「首がおかしくなる」と言うなりえいやっとばかりに草むらに寝転がった。
慌てて月島も隣に寝転がると柔らかい草にしたたる露にひんやりと湿らされて濡れたが、そんなことはどうでもよかった。ああ――声にならない声が吐息になって漏れた。
「吸い込まれそうだ」
「はい。ものすごく綺麗です」
故郷の佐渡の方が空は澄んでいてものすごい数の星がびっしりと、ギラギラと瞬いて降ってくるようで、ずっと見ていると怖くなるような夜がいくつもあった。満天の星が降ってくるような夜もあった。
しかし今ここで鯉登と見ている霞がかって朧な春の夜空こそがどんな満天の星空よりも美しいと思った瞬間、ふしぎな感動が月島の全身に広がった。
星がめぐり霞んだ月が傾いて空がゆっくりと動いて時間が遥かに流れていくのを今ここで、こうして、他でもない鯉登と見ている――なんでこんなことで感動しているのか、なんでこんなにも感動しているか自分でもわからない。酷く混乱しているけれど少なくとも、この思いが鯉登に伝わってほしいと願っていることはわかる。
月島は隣の鯉登の手をきゅっと強く握った。
「こんなに綺麗なもの、俺は見たことがありませんでした」
「見たことのないものがまだまだたくさんある。知らないものを、美しいものを、月島とこれからたくさん見たい」
「はい」
一言答えたきり何も言えなくなった月島の両頬をあふれた涙が伝った。
突然あふれて静かに頬をつたっていく涙に内心動揺しながらも落ち着くまでやり過ごそうとしたものの、だんだんと呼吸が浅くなって思わず吐いた息が揺らいだのに鯉登が気づいたらしく、真上の空を見上げたまま声をかけてきた。
「月島、泣いているのか」
「なんでかはわかりませんが急に涙がでて、それで、止まらなくて」
「実は俺も泣きそうだ」
月島が流れる涙もそのままに空に向かって揺れる息を吐きだすと、鯉登が月島の手を強く握り指を絡め直して繋いだ手を引き寄せて月島の手の甲に口づけながらかすかに震える声をもらした。
「なんで泣いているのか俺もよくわからない」
慰めるつもりで言ってくれたのかと思ったが、自分の骨ばった甲を濡らすものが確かにある。ああ、そうか――星がひとつ、明るい尾をひいて流れていくように一つの感慨が月島の中に生まれた。
なにものにも代えがたいものを今ここで、たしかに鯉登とわかちあっているのだと思う一方で、ここがどこなのかいつなのかもわからない悠久に鯉登と二人で溶けだして混ざりあっていくような両極の感覚が月島を満たしていた。
「なんでかよくわかりませんが、すこしだけわかったかもしれません」
「わかったならば俺にも教えてくれ、月島」
「今日と明日だけじゃなくてずっとこの先の、鯉登さんの時間をもらったからかもしれません」
夜空に向かって胸いっぱいに満たされたものをそっと吐きだすと、隣の鯉登が「なんだ」と小さくやさしい笑みを漏らした。
「そんなのとっくに全部月島のものだ」
星空を見上げたままの鯉登がきっぱりと言い切ってみせて、月島は生まれて初めて自分の誕生日をいいものだと思うことができた。
「花と星の季節」