残り香今でも忘れられない。
心を縛ったまま消えない。
遠い日の香り。
アーディルが自室で報告書を作成していると、頬の傷がガーゼの下でジンジンと痛んだ。今日の任務はさほど強敵相手ではなかったが、中型種の乱入やその分断に難航したことで予想以上の苦戦を強いられることになってしまった。現場の臨機応変な判断が求められるのはもちろんだが、未だに解明されていない点の多い感応種の影響を考えると、こうした事態への対応、対策が今後の課題になるだろう――――記すべき事柄がどんどん増えていく。
ようやく完成まで漕ぎ着けると、時計の短針は11の文字を指していた。
己の能力は充分に把握しているつもりではあるが、思った以上に体が重い。明日に響かないようにしなくては。
提出するための最終確認をしていると、やはり懸念すべき点が多い。先に現場レベルでの共有を図りたいところだが、時間が時間である。何より、同じように苦心したであろう仲間を休ませてやりたい。
唯一、望みがありそうなジュリウスも今朝言葉を交わして以来、顔を見ていない。なんでも、フェンリル本部での会議に召集されたらしく、戻って来ているかどうかさえ怪しい。
堂々巡りの頭を落ち着かせるために何か飲もうと立ち上がると、けたたましくドアホンが鳴り響く。
返事をすれば、ジュリウスの声。
―――今日、“約束”はしていないはずだが。
招き入れると彼はいくつかの紙の束を持っていた。
「……どうした、こんな時間に」
「すまない。今日の会議で今後の方針を話し合ったのだが……すぐにでも、副隊長の意見を聞いておきたいと思ってな」
「奇遇だな、隊長。俺もあんたに話しておきたいことがある」
ジュリウスが少し安堵したような表情になる。どうやら、彼もここへ来ることを迷っていたようだ。
ひとまずソファーへ座るように伝えると、実行できていなかった飲み物の準備へ取りかかる。背を向けたまま「いるか?」と尋ねると、歯切れの悪い返事。
不思議に思い振り返ると、銀灰色の瞳が探るようにこちらを見つめていた。ジュリウスのやや暗い声が、ゆっくりと耳に届く。
「……痛むのか?」
彼が頬の傷のことを言っているのだとすぐわかった。声音と同じ暗い影が、美しい瞳を染めている。
「たいしたことはない。それより、何か飲むのか?」
「……いや、遠慮しておこう」
すぐに話題を変えたことが納得いかない様子だったが、それ以上詳細な答えが返ってこないことを悟ったのだろう。自らが持ち込んだ資料へと顔を移し、パラパラとめくりながらアーディルを待っている。
相変わらず心配性だな。
なんとなく、何も飲む気がなくなった。
そのまま少し間を空けたところに座る。
なんとなく、少しだけ体が軽くなった気がした。
ジュリウスの話は広義の意味ではアーディルと同じだったようで、こちらの内容をかいつまんで伝えると、すぐ報告書へ目を通してくれることになった。
もう日付が変わろうとしている。
てっきり自室へ戻って読むのかと思いきや、ジュリウスはその場を動かない。それどころか「よくできた報告書だ」や「今日はご苦労だったな。疲れただろう?」など、称賛はしても自分の行動を説明しようとしない。
何もしないわけにもいかないので、彼が持ってきた会議資料を読もうとすると、やんわりと断られ、今日はもう休めと言われる始末。
そうは言われても、いくらそういう仲だとはいえ、仕事中の上官がいるなかで―――しかも自分の報告書を見てもらっているのに―――休む気にはなれない。
仕方なく、ソファーの背に頬杖をつき、ジュリウスの横顔を見つめる。
戦場にあることが惜しいとさえ感じるスラリとした指が小さな文字を追っている。
しなやかな髪が照明の光を受けて艶を帯びている。
長い睫毛に縁取られた秀麗な瞳には強い意志が込められていて――――自分を映してほしい、なんて。
アーディルは触れるか触れないかのところまで体を近づけて座り直すと、ジュリウスの肩をそっと抱き、自分の方へ引き寄せた。
やわらかい髪が顎に当たる。
そのまま両腕で抱きしめると、ジュリウスの体が強張るのがわかった。
「……副隊長」
諭すような声。
「わかっている。邪魔はしない」
「……良いだろう」
仕方ない、といったような声。
だが髪から覗く耳は赤く、文字を追う指の動きはどこかぎこちない。
それでも資料から視線を反らさないように、服越しに互いの温度が溶け合っていくことへ抗うように、凜然とした態度を装う姿が、たまらなく愛しい。
また諭されるのを承知で髪へ口づけを落とす。
ふと、かすかに鼻孔へ届く香り。
さらさらと風に運ばれていく花を思わせる、静かな、淡い香り。
予想通りたしなめようとしてきたジュリウスに被さるように名前を呼べば、これまた仕方ないといった様子の声が返ってきた。
「あんた、何かつけているのか?」
「どういう意味だ」
「香水か何か、つけているのか?」
腕の中の体が一層固くなり、抱きしめてから初めて彼がこちらを向いた。
戦場では人間の何倍も機能に優れた敵が相手。当然の反応だとは思う。
「いや、何もつけてはいないが……」
「そうか。……今のところ、嗅覚に優れたアラガミは報告されていないはずだ。心配ない」
「そう、だな……」
ジュリウスは少し考え込むと、結論が出たようで資料へと向き直った。が、またすぐにアーディルの方を見る。
「副隊長、その……そんなに目立つような匂いだろうか?」
動揺が色濃く残った瞳。
アーディルの口角が上がる。
「俺は良いと思うぞ」
「そ、そうか……」
「それに―――」
もう一度、髪へ口づけを落とし、首元へ顔を埋めた。
品の良い香りが気持ちを高ぶらせる。
「このくらい近づかないと、わからない」
ジュリウスの肩が跳ねた。
やけに大きな咳払いをしたかと思えば、これでもかというくらい資料を顔に近づけて、わざとらしく要点を声に出して読み上げている。
チラリと己が作成したそれを見ると、もう最後の方の内容だった。
追い込むように、赤くなった耳元へそっと問いかける。
「……まだ、終わらないのか?」
小さな声で「終わった」と呟いたジュリウスが報告書を机に置いたと同時に、噛みつくように唇を重ねた。
深く、深く、舌を絡ませていく。
互いの唾液と吐息が混じり合う。
触れ合った部分から激情が全身へと波になって広がっていく。
やわらかい、そして甘い香りがする度に頭がクラクラして、己の欲しか見えなくなってしまいそうだ。
一度唇を離すと、熱に浮かされたようなジュリウスの瞳。
応えようと服に手をかけると、弱々しく制された。
「アーディル……少し、待ってくれ」
「今さらやめる、は聞かないぞ」
「違う……ここでは、資料が汚れる可能性が……」
「フッ……随分と、余裕があるようだな」
腕を引いて大股でベッドへ近づくと逃がさないという意味を込めて強く抱きしめ、雑に音を立てながら倒れ込んだ。
荒々しく唇を合わせれば、首に腕が回され、一段と強く重なり合う。
溺れ、惑わされるかのような、二人だけの時間へ沈んでいく。
これが、二人で過ごす最後の夜だった。
ジュリウスが、ブラッドを抜けた。
初めから何も無かった。
そう語りかけてくるような静寂の夜。
明かりもつけないまま、虚無に侵された冷たいベッドへふらりと横になる。
そうすれば、あの香りを感じられるような気がして―――何も感じなくて。
彼の高潔さを秘めた香りが、ずっと心から離れないでいる。
ぬくもりも、言葉も、見つめる瞳も、全て失った孤独な夜。
今にも消え入りそうな切ない金色の香りが、ずっと心に染みついている。