ヴァンパイアのおやつ それは喩えるならば、甘くとろける極上の菓子。
【ヴァンパイアのおやつ】
「Trick or Treat!」
突然扉が開いたかと思ったら、そんな言葉とともに何者かが部屋へ飛び込んできた。
既にベッドへ潜り込んでいたアスが、その声に驚いて飛び起きようとして。
両腕が、枕ごと縫い留められていることに気付いた。
「…え?」
普段は眠たげに伏せられた瞳が、置かれた状況を把握できずにぱちくりとしばたたかれる。
顔に落ちる影を仰げば、そこには見慣れた顔があった。
「…ヴァイス…?」
呼ばれて笑みを零すのは、アスとレイズの養い親。
悪戯っぽく弧を描いた瞳で、組み敷いた形になったアスを見下ろしている。
「ほら、アス。どっちにすんだ?」
「え?」
ヴァイスの言葉の意味を掴み損ねたアスが呆けた声を出すと、ヴァイスは何故か、心得顔とばかりに笑ってみせた。
「さっきも言ったろ。Trick or Treat!って」
そう言われて、寒色系のオッドアイが暫し彷徨う。
「…とりっく、おあ、とりーと…」
「そ。ハロウィンのお約束。菓子か、悪戯か、ってな」
判るだろ、と訊かれ、アスがちいさく肯く。
幼い頃にはレイズや近所の子どもたちと一緒に、大人から菓子を貰ったことがあったし、大きくなってからはヴァイスから菓子をもらっているから、その『お約束』の意味は理解していた。
だが、今までヴァイスがアスにこんなことを言ったことがなかったため、いささか混乱しているのだ。
「ほら、どっちだ」
早く決めろよ。
再度、せっつくように問われて、アスは困ったように眉根を寄せた。
悪戯はされたくないが、かといってヴァイスに渡せるような菓子など持っているはずもなく。
むしろそんなものがあるのなら、とっくの昔にアス自身が食べているだろう。
「…ぁ…」
小さなジレンマに捕われた瞳が、所在無げに揺れる。
「菓子は…なしか」
呟きとともに、ぎし、とベッドが軋む。
ヴァイスが少しずつ、身体の重みを預けてきているのが、捉えられた腕越しに感じられた。
「じゃあ…【Trick】でいいよな?」
言葉と同時に、対照色のオッドアイを細めた顔が近づいてきて、アスの首筋に寄せられた。
「…ヴァイス…?…っあ!?」
その表情にいつもと違う雰囲気を感じて、不安げに彼の名を呼んだアスの身体がびくりと跳ねる。
首筋から伝わる、鋭い痛み。
それはちょうど、鋭い針のようなものを突き立てられた感覚に似ていて。
「…ぃた…ぁ…」
次いで、身体から何かが抜けていく感覚。
「…ヴァ、イ…ス…、な、に…して…?」
様子を伺おうと視線を巡らすも、見えるのは頬をくすぐる象牙色の髪ばかり。
「ヴァイ、ス…どいて…おねが…」
見えない場所で行われている、得体の知れない行為と、冷えていく指先にかすかな恐怖を覚えて、アスが身を捩る。
刹那、ぐらりと視界が揺れ、身体から力が抜けた。
「…え、あ…?」
それと同時に、急速に遠のく意識。
ぱたり、と、持ち上げかけた手がベッドに沈む。
何が起きたのか理解できないまま気を失ったアスから、漸くヴァイスが身を起こした。
その唇は──朱に染まっていた。
ほかならぬアスの血によって。
「…ちょっと…やり過ぎちまったみてえだな」
自嘲気味に笑って、ヴァイスは血濡れの唇を舐めた。
そうしてから、血の気を失くして蒼白になった頬を、さらりと撫でる。
そのまま首筋まで指を滑らせると、先程まで己が牙を突き立てていた場所にそっと触れた。
そこは既に塞がりかけていて、もう傷跡は殆んど目立たなかった。
殆んどを失ったとはいえ、アスの体内に眠る『モノ』の持つ驚異的な治癒能力は、いまだ健在であるようだ。
「お前のが、あまりにも美味かったから…つい、な」
すまなかった、と耳元でささやいて、詫びとでもいうように触れるだけの口付けを落とす。
そう、アスの血は本当に美味かったのだ。
喩えるならば、とろけるほどに甘い、極上の菓子。
「ま…『あいつ』には及ばねえけど?」
ふと、脳裏に闇色の衣が翻る。
この世界で唯一、自分を満たすことのできる『血』を宿した、稀有な存在。
それを生み出したのは、目の前に居る無垢な蒼。
「流石『兄弟』…ってところか」
口の中でそう呟いて、ヴァイスは再び笑った。
アスのやわらかい蜂蜜色の髪を撫でてから、部屋を出る。
後ろ手に扉を閉めてから、ヴァイスははたと思った。
「これじゃ【Trick】じゃなくて【Treat】じゃね?」