ワンダーランド観光課のぬすじ、仕事におわれる ぬすたちが自由と誇りを持って暮らす国、ワンダーランド。近年人間界との交流も積極的に行い、今沸々と人気が高まっている観光地のひとつ。その観光地化を中心となって進めているのが、ワンダーランドの魅力がぎゅっと詰まった地域”自然保護区”に拠点を置く、ワンダーランド観光課——
+ + +
ああ、もうこんな時間……
目の前に立つパソコンのモニター。その右上の時刻表示が目に入って、ぬすじはほよんとした腕をぐっと後ろにやると、かたまったからだを伸ばした。
15時。おやつの時間……なんて、そんなものが明確に定められている訳ではないが、「ゆっくりのんびり」を国を挙げてのスローガンに掲げている通り、休憩と休暇はしっかり取る。ぬすの本質である「ぽてぽて精神」を尊重するようにと、ワンダーランドに籍を置く職場ではどこでも共通して定められていた。
しかしぬすじはその時刻を確認しても、何も見なかったかのように再び画面へと視線を戻した。
ぬすじはワンダーランド観光課、その中でも安全やセキュリティを管轄する部署に勤めている。自然災害から犯罪対策まで、対象とする範囲は幅広い。その割に地味な役回りであることは、現実を見ても否めないところではある。
就職してこの部署への配属が決まった時は、本音を言えば観光課の花形である「イベント企画部」や「レジャー開発部」……そんな部署への辞令が出た同期ぬすたちを羨ましいと思っていた。でも今ではワンダーランドのぬすたちを守りつつ、発展に尽くすこの仕事のことを、とても誇らしく思っている——
「……」
ぬすじの茶色い目の前には、いまだまっしろなファイルが開いていた。
ここ最近のワンダーランド人気は予測を遥かに超え、それに伴い観光課の担う業務も爆増していた。イベント企画部の面々はそれでも意気揚々と新たな催しを発案してはぬすじに相談にくるのだが、ぬすじとしてはそんな企画部のぬすたちのことを「少し落ち着いてほしい」…と正直思ってしまうのだった。
なんでもぽんぽん企画すればいいってもんじゃないんだからね——
ちゃんと安全性は担保しなきゃいけないんだから、
なんて、そんなことをぐちぐち思ってしまうぼくは、性格が悪いのだろうか……
真っ白い画面を見つめながらぬすじは考える。
こんなんじゃいけない。そう思ってキーボードを一音、弾いてみた。
——ぽて、
しかし意味のない文字から続く文章などできるはずもなく。ぬすじは表示されたその文字を消去すると、深くため息をついた。
はぁ……
がっくりと肩を落とす。それからくいくいともう一度腕を伸ばした。そんなぬすじの耳に何やら軽快な音が聞こえてくる。
ぽてぽて。
ぽてぽて。
それはぬすじにとって聞き慣れたぬすの足音。それも、一人ではなく複数の。
——ああ。
ぼんやりと霞む視界の端に再び時刻の表示が見えた。15時……確かに。外回りに出ていた企画部のぬすたちが、そろそろ帰ってくる時間だった。
そうなると少し騒がしくなる。意気揚々としたぬすたちの活気に当てられるのかと思うと、今の仕事が捗らないぬすじにとっては気が重くなるばかりだった。
ちょっと休憩しようかな
何も生み出せていない中での休憩——というのは、若干気が引けるけれど。それでもその数分を惜しんだところで画面の中の状況は変わらなそうなので、ぬすじはおとなしく休憩をとることにした。
ぽて……ぽて、
立ち上がって並んだデスクの間を抜けていく。すれ違った外出帰りのぬすたちには、「おつかれさま」の意味を込めてあたまだけを下げる挨拶をした。
向かったのはフロアに併設されたカフェだった。観光課の福利厚生の一環で、職員のぬすであればいつでも自由に利用できるようになっている。お気に入りの窓際の席を確保すると、ぬすじは注文をするためにカウンターの前へ並ぼうとした。
「ぬすじ?」
そのタイミングで自分のことを呼ぶ声がする。
——え?
そう思って声をした方へと振り返れば、そこには馴染みのあるぬすの姿があった。
「ぬすまる」
「おう」
トゲトゲあたまに左右色の違う瞳が特徴のランマル属——ぬすまるとは、ぬすじと同じ時期に観光課に入職した、所謂同期の関係だった。ぬすじが安全・セキュリティを主に担当しているのに対して、ぬすまるはワンダーランドの観光地化によって増えつつある、施設の管理を担当している。どちらかといえば二人とも縁の下の力持ち的な役割で、ぬすじは勝手に親近感を覚えていた。
「おつかれちゃ〜ん。ぬすまるも今戻り?」
ぬすまるに対してであれば、さっきフロアですれ違ったぬすたちへのような、トゲトゲした感情は芽生えない。自然と笑顔で、するりとねぎらいの言葉が出ていた、気がする。
「ああ」
そんなぬすじの言葉に、ぬすまるは短い相槌で応えた。
作業用のパンツに「観光課」とロゴの入ったジャケット姿。ぬすまるの服装はどう見ても現場に顔を出してきたいでたちだった。瞬間、今日ほとんど何もできていない自分への後ろめたさを感じたが、自分から声をかけた手前、そのことは無理やり頭の隅へと追いやった。
観光施設の管理を担うぬすまるは、もちろん現場ではたらく職人ぬすほどではないが、視察に行ったついでに作業を手伝ったりもする。ズボンの裾が少し汚れているのが見えて、おそらく今日もそうだったのだろう……とぬすじは思った。それならば——
「あ……ぬすまる。ぼく奥の方に席とってあるからさ。よかったら一緒に持ってくよん」
コーヒーでいい?と、そのままオーダーを訊くつもりだった。自分なんかよりも余程、ぬすまるの方が疲れているのだから。それくらいの気遣いはしないと。
「あ?いや、おれが持ってく」
「え?」
「おまえは座って待っとけ」
しかし返ってきたのは……予想外の反応だった。そうして訳のわからないままにからだを反転させられて、とんと背中を押される。席で待ってろ、と。
「え、でも……」
納得しきれずに顔だけ振り返ったところで、あるのは有無を言わさぬぬすまるの表情。並んでいる列からも外されてしまって、従わざるを得ない。ぬすじは仕方なくありがとうの意味を込めて栗色のあたまを小さく上下させると、ぽてぽてと窓際の席へと収まった。
すとん。クッション付きの椅子に腰を下ろして、先ほどのぬすまるの態度にぼんやりと思う。彼と相席することは今までにも何度かあったけれど、あんな風にぬすじの提案を断られたことはなかった。
どうしたんだろう……
それに、言われるがままに席についてしまったが、何を注文するかも伝えていなかった。
——ま、いいか……なんでも
別に特段何を飲みたい、という訳でもなかった。ぬすまるが持ってきてくれたものをそのまま受け取ろう。たぶんコーヒーかそのあたりだ。
そんなことを考えていたら、またぼーっとしていたらしい。目の前の景色が滲んでいく。
「ぬすじ」
「——っ、」
なので、名前を呼ばれて、再びハッとする羽目になる。気づけばぬすまるがテーブルまでトレイを運んできてくれていた。
「ここ、いいか」
「ああ、うん」
慌てて焦点を定めつつ、平静を装って座ってと伝える。視界に入ったのはトレイの上に寄り添うように並んだ、白い二つのマグカップ。それぞれをぬすじと自分の前へと置くと、ぬすまるも正面の席へと腰を下ろした。
「ありがとう、ぬすまる……」
お礼を言いつつ、目の前に置かれたマグカップを手元へと引き寄せた。あったかい——が、中身の色は、ぬすじが思っていたものとは全く異なっていた。
「え……これ」
「ああ」
ホットミルクだ、と、ぬすまるは静かに言った。
「ほっと、みるく……」
思わず言われた単語をそのまま繰り返してしまう。
別に苦手とか、嫌いという訳ではない。でも職場で飲むという選択肢にはまず入らない、ぬすじにとってはそんな位置付けだった。ホットミルクがカフェのメニューにあるということも、今初めて知った。
——どうして、
当然浮かぶ疑問。ホットミルクが好きなんて、ぬすまるに言ったことがあっただろうか。……が、それをぬすじが直接訊ねる前に。
「ぬすじ、おまえちゃんと食ってるか」
自分の方が、逆にぬすまるに問いかけられていた。
カップを手に持ったまま動かないぬすじのことを、ぬすまるの色違いの瞳がまっすぐに見つめてくる。
「え?……ああ、うん」
そんな空気の中で急に言われて。咄嗟に出たのは曖昧な肯定だった。が——その質問にぎくりとしてしまったのは事実。実際のところ、ここ数日間ずっと食欲がなくて、ぬすじはまともな食事をしていなかった。
ただ、そんなことは他のぬすに——ぬすまるに、わざわざ言うようなことでもない。
「ぬすじ、」
全然普通だよ。ぼくは大丈夫。
それを証明するために明るい笑顔で返そうと思ったのに、手に触れたマグカップの温かさとぬすまるが自分の名前を呼ぶ声が妙に胸に沁みて……なんだかうまく笑えた気がしなかった。
そして案の定、それがぬすまるに気づかれないはずもなかった。
「……とりあえず、それ飲んどけ」
はぁ、と。ひとつ息を吐いたぬすまるはぬすじにそう促すと、自分も手元のカップを啜った。
「……」
ぬすまるがそうやって静かに飲み込む姿を見せられて、ぬすじも漸くカップの縁に口を当てる。
ごくり。
暖かくてほんのりと甘い。はじめて職場で飲むホットミルクは、なんだか不思議な感じがした。いつだったかは忘れたけれど、前に飲んだ時以上に深いところまでじわじわと染み入っている気がする。それは、最近全然食べてないせいかもしれないけれど。
「あと、ちゃんと寝てるか?」
「……」
今度は曖昧に応えることすらできず、無言になってしまっていた。でも、おそらくもう彼には全て気づかれてしまっているだろう。言葉の数は少ないし一見ぶっきらぼうだけれど、その実細かいところまで見ていて気づいてくれていたりする。彼には昔からそういうところがあった。
「やっぱりな」
何も言わないぬすじの態度に確信を得たのか、ぬすまるはもう一度深く息を吐くと、再び黙ってカップに口をつけるぬすじのことをじっと見ていた。
ごくり。
二口目。馴染んだ温かさが全身に広がっていく。そのタイミングで。
「ぬすじ、この後はどうすんだ?」
「……え?普通に……お仕事戻るけど」
恥ずかしながら、今日やろうと思っていたことは全然終わっていなかった。モニターの真っ白なファイルが頭に蘇って、一気に現実に引き戻された気がした。
「そうか」
「……うん」
「じゃあそれ飲んだら、今日はもう上がれ」
「うん……って、ええ?」
普通に質問に答えていたのに、いきなり全然噛み合わないことを言われて、思わずまじまじと正面の顔を見てしまう。一瞬はふざけているのかと思った。けれど彼はこんな冗談を言うタイプではない。
「あの、ぬすまる、聞いてた?まだ仕事があるんだって……」
「ああ?んなの、そんな具合悪そうな顔して捗る訳ねぇだろうが」
慌てて言い返すぬすじに、しかし大して気にする様子もなく、ぬすまるは再び自身のカップを煽った。
「おれはこの後もう上がりだ。家まで送ってく」
だからもう早く休めと。一緒に帰るんだと。そんなことまで決定事項のように言われてしまって。
「ちょ、ちょっと待って!!そんなのできないよ」
「あ?なんでだよ。ちゃんと上司に体調のこと話せば、許可してもらえるだろうが」
「でも」
「でも、じゃねぇ。つーかおまえの仕事は、そんな具合悪そうな時に無理やりはたらかせた頭で、なんとかなるモンなのかよ」
「……」
それを言われてしまったら——返す言葉もなかった。
ワンダーランド観光課でのぬすじの担当は、安全・セキュリティ管理だ。地味ながら絶対に間違いの起こせない部分であり、それが適当に為されてしまえば、ワンダーランド全体の安全の崩壊につながる。
そんなことはわかってる。わかってるのに——
いままでぬすじの心の中に燻っていたものが、沸々と込み上げてくる。それは気づけばそれはレイジ属の特徴である、大きなブラウンの目の縁まできていて……
「おい、ぬすじ、ぬすじ……!?」
名前を呼ぶぬすまるの声で異変に気づく。込み上げた感情は水の玉となって、ぬすじのフカフカな頬を伝っていった。
「ぬすじ、おまえ……」
さすがにここまでの状況は予想外だったらしく、ぬすまるの声も慌てていた。もしかしたら言い過ぎたとか、思わせてしまったのかもしれない。実際その根底の音はとても優しくて。ぬすじのことを気遣ってくれているのがわかる。そう思ったら、一度溢れた感情は、もう抑えきれなくなっていた。
「ぼく……このお仕事、向いてないかもしれない」
それはここ最近ずっと思っていたことだった。
「仕事も早い方じゃない。目新しいことも提案できない。その上体調管理もできてなくて。それなのに一生懸命頑張ってるイベント企画部の子たちに——ひどいこと思っちゃったりして」
「ぬすじ」
「上司に体調のことをいえば、きっと帰っていいって言ってもらえると思う。でもそもそもこんな何もできてないぼくが上司に、それこそぬすまるし、優しくしてもらう資格なんか……」
何を言っているのだろうと自分でも思う。いい大人のぬすである自分に、こんな愚痴や自虐めいたことをぶつけられたって、ぬすまるだって困るだけだ。それなのにじわじわと込み上げる感情はまた水の玉となって目の縁に溜まり続けている。
同期なのに。ぬすまるはぼくと違ってちゃんとお仕事をしているのに。情けないところをこれ以上晒したくない自分と、全て吐き出していっそのこと軽蔑すらしてほしい自分。相反する感情がぐちゃぐちゃに絡まって解けなくなっている。
「ぼくなんかいっそのこと、観光課を辞めた方が、」
ネガティブで後ろ向きな思考が勢いづいて、鋭くなっていく言葉。それを捕まえて遮ってくれたのは、他でもないぬすまるだった。
「ぬすじ」
「……っ、」
「おれは今日、ある現場を見てきたんだが……」
ただ、話し始めた内容は一見ぬすじのことを咎めるでも、慰めるものでもなかった。
「そこは今、温泉施設を造ってる。なんでも掘ってたら偶然温泉に当たったらしい……って、まぁ……んなことはどうでもいいんだが」
「……?」
つらつらと話されたのはぬすまるの今日の視察のこと。ぬすじにとっては業務的にもまだあまり関係のない話だが、だからこそ「?」が浮かんで耳を傾けてしまう。が、その後に続いた内容に、ぬすじは息を飲むことになる。
「その現場で作業してたヤツのツレが……昔入国してきた不審者に酷い目に遭った、あの事件の当事者らしい」
「——っ!?」
あの事件。
ぬすまるがそう示唆した事柄については、ぬすじも当然知っていた。
当時ワンダーランド全体を震撼させた、不審者によるぬす誘拐未遂事件。まだ観光地として今ほど盛況でない時分にぬすに直接加えられた危害は、国中に広まって多くのぬすたちを間接的に怖がらせた。
それはまだ、ぬすじが入職する前の事件だ。でもそんなことがもう2度と起きないように、安全・セキュリティを担当する身としては頑張っている——つもりだった。
その当事者のつがい相手と対面したと、ぬすまるは言った。
「そのツレがな……最近すげぇ元気になったんだと。観光地化が再開した時はやっぱり不安もあったみてぇだが……観光課がちゃんと対策してくれてるって。ほら、おまえ色々手紙とか配ってただろ。それを見て徐々に安心してったらしい。あとは……やっぱ商売をしてるぬすだから、街が活気づいたのが嬉しかったみてぇだな」
「……ぬすまる?」
「観光課……っつーか、おまえが、ちゃんとコツコツ積み重ねていった仕事の結果だろ」
そう言われて今度こそ感情を抑えることができなくなっていた。報われる……っていう表現は少し違うかもしれない。でも自分の想いが誰よりも届けたかった相手に届いている。そして部署は違うけれど同じ観光課の職員としてはたらくぬすまるにも、同じ気持ちが伝わっている。そのことがすごくすごく嬉しかった。
「ほら、そろそろ顔拭けよ」
「あ……」
テーブルの上に差し出されるフカフカな手。そこにはピシッと折り目のついたハンカチが携えられていた。
そろそろ、ということはもうだいぶぐしゃぐしゃな顔になっているのかもしれない。それをぬすまるに見られてしまっているのは少し恥ずかしいが、いかにも「現場」な作業用ズボンからこの清潔なハンカチが取り出されたのかと思うと、あまりにも彼らしくってちょっと笑えてしまった。
「あ?なに笑ってんだ?」
しかしぬすまるはそのことには気づいていないらしい。
「ううん。なんでもない」
ふるりと首を振って、ついでにごしごしと顔を拭く。気持ちはもう固まっていた。
「ちゃんと上司に言って、早退することにするよ」
「ああ、そうしろ」
「それから……ぼく、さっきは変なこと言っちゃったけど、これからも安全・セキュリティ部で頑張るね」
「それは……おれに言うことじゃねぇだろ」
そうは言うもののぬすまるの表情はふっと柔らかくなって、安堵しているように見えた。
+ + +
観光課の建物を出て、ぬすまるとふたりぽてぽてと家路に着く。
「なぁ、この繁忙期が終われば長期休暇だろ?」
「うん……でもぼくこうやって休んじゃってるから、振り替えで出ないといけないかも」
「ばか、んなこと言ってないでちゃんと休め」
これだからレイジ属は……と聞こえるが、でもなんだかんだそんな風に心配されることが、今は若干嬉しくもある。
ぽてぽて。
足音だけが聞こえる。しばしの沈黙した後に。
「長期休暇、なんか予定あんのか?」
「え?別に……これといってないけど」
どうかした?と聞けば。
「だったら一緒に……どっか行くか?」
そんな突然の誘いで……
「え?なに、同期旅行の誘い?」
「ばか、ちげぇよ」
浮かんだ可能性を挙げれば、即座に言い返されていた。
「ぬすじとふたりで、だ。嫌ならいい」
「えっ……」
嫌だなんて——そんなことあるはずがない。
ただ“ふたり”という言葉に、ちょっとどきっとしてしまっただけ。
「ううん。そんなことないよ」
「そうかよ」
「じゃあさっそくプラン考えちゃおうかな〜」
「……ったく、今日はちゃんと休め」
何言ってんだ、と。隣でやれやれといった顔でぬすまるがため息をつく。体調はおそらく変わっていないのだろうけど、夕方の道をふたり並んで歩く時間が愛しくて。
このまま……まだもう少しだけ続いてほしいなと、ぬすじは思うのだった。