Δノスクラ出会い編2 酷い強行軍だった。
息子をして『小型のゴジラ』と言わしめるだけのある、無尽蔵のスタミナと子供のように活発極まりない行動力を持つ“D”が直に指揮を取るという事実を、随分と過小評価していたのだとノースディンは己の認識の甘さを呪った。
自責の呪いで車酔いの吐き気が治まるはずもなく、同じく車酔いで顔を青ざめさせた同部隊の先輩隊員から酔い醒ましの薬と水を受け取り、比較的無事な隊員たちがへろへろと、それでも的確に持参したVRC製の各種機材の用意していく様を眺め、密かに己の鍛錬不足に頬を熱くする。
冷たい水が喉を潤すだけでもようやく落ち着きを取り戻し、ノースディンはこの任務の目的地である建物を見上げた。異国から異国へ渡り、道なき道を何時間もかけて進み、ようやく辿り着いた目的地は、古い教会だった。
随分と古びた、もはや廃墟と呼ぶ方が正しいだろう廃教会だ。辛うじて十字架の立つ屋根は半分が崩れ落ちていて、ぼろぼろと扉は蝶番が錆びつき傾いている。外壁のほとんどが苔と蔦に覆われ、おそらくステンドグラスが収まっていただろう窓枠がぽかりと空虚な口を開いている。
鬱蒼とした森の奥に隠されるようにして建つ廃墟は近隣に忘れられて久しいようで、公式の記録の中にも残っていなかった。そもそも首都から遠く離れた、森に飲まれた古い廃村の片隅も片隅に建てられたらしき小さな教会だ。下等吸血鬼でさえ寝床にしないだろう寂れ具合である。
辿り着くまでの悪路を進む高機動車の上で容赦なく揺さぶられたノースディンのみならず、運転を担っていた隊員達もまた朽ちた教会の十字が見えた時は歓声があがったものだ。
「こんな所に、サンプルになるような……ぅぷ、吸血鬼の灰が……」
「おい坊主無理すんな、薬が効くまで大人しくしてろ」
おぇ、と静かに嘔吐くノースディンの肩を押し留めたのはダンピールの男だった。外見はドラウスよりも幾らか若い程度だが、実年齢は“D”と変わらぬ程だと聞いた覚えがある。
誰が坊主だ、という反感は吐き気とともに飲み下した。事実相手から見ればノースディンなどまだ青二才に間違いはないし、民間の吸血鬼退治人を経て吸血鬼対策課に入隊した経歴に対する敬意を忘れた訳では無い。それでも些かの不満を浮かべたノースディンの視線に、男は軽く肩を竦めてみせた。
「こればかりはダンピールの俺に歩があるさ、生きた吸血鬼の気配は無いがうっすらと名残を感じる。それも随分と入り混じったものだ。灰かどうかはともかく、何らかの吸血鬼の痕跡が色濃く残っているのは間違いない」
ただ、実際に何があるのかまでは調べてみないと分からない。男はそう言うと、ぽんとノースディンの肩を叩いて四駆の荷台から降りていった。
万全を期せ、との警告だった。思いの外力強く叩かれた肩に残った体温に、ノースディンはごくりと一つ息を飲み下す。“D”の勢いに引っ張られて意識が散漫になりがちだが、今は実戦の最中であるのだ。幸いにして道中に高等吸血鬼の襲撃を受けることは無かったが、先は分からない。
急速に乾いた喉に痛みを覚え、それを誤魔化すようにごくごくと水を飲み干す。緩やかに効果の出始めた薬のおかげか、吐き気は大分治まりつつあった。
陽はまだ高い。山林に囲まれた森の奥深くであれば日没も早いだろうが、吸血鬼の活動時間までの猶予を踏まえながらの探索としても、ただ吸血鬼の灰を回収するたけなら何の問題もないはずだ。
ノースディンは今更ながらに、朽ちかけた教会の落とす影の色濃さを認識した気がしてぶるりと背筋を淡く震わせた。
そうして、探索が始まった直後は良かったのだ。廃教会は決して小さな掘っ立て小屋などでは無かったが、有名な大聖堂のような巨大な建築物というわけでも無かった。大まかに信徒が集まり祈りを捧げる礼拝堂と、神に支える聖職者が暮していただろう居住空間とに別れてはいたが、それでも十数名程度の部隊では充分過ぎる程度の広さに思えた。
風向きが変わったのは、ダンピールの男の一言だった。事前情報通りに吸血鬼の灰と思しき塵が詰め込まれた瓶が数本居住区画の一室に何でもない物のように保管されており、呆気なさに肩透かしを食った気分であったノースディンの隣で、彼は酷く苦いものを噛み締めた顔で唸ったのだ。
居る、と。
「生きてるのか死んでるか解らない、こんな気配は初めてだ、悍ましい、けれど息が詰まりそうになる、名残なんかじゃない、こんな灰達よりももっと恐ろしくて痛ましい、見たくも触りたくもない、呼ばれてもいない、けれどこれを無視できない! 嫌だ嫌だ嫌だ関わりたくない寒い、寒いんだ眠ってしまう! ああけれども無視できないんだ! この地に来てしまったから!」
半狂乱に陥ったようにさえ見えた男を、宥めたのは“D”であった。男の悲痛な、苦悩めいた叫びに呆然とするだけだった隊員達に出された指示はたった一言、「隠された部屋を探そう」だった。
それだけで、空気が一変した。何処か緩やかであった空気は霧散し、対吸血鬼用の銃器はセーフティが外される。日本のVRCに最近所属した天才的な研究者が開発したという、吸血鬼の行動を妨げる超高周波発生装置の電源が入れられ、反吸血鬼薬の携帯注射器が手探りで確認された。
鎮静剤を投与され昏倒した男から武器になるものを全て取り上げて、ノースディンは腕に抱いた銃器とサーベルがぶつかり合う金属音を聞いてようやく我に返った心地になった。ぞわぞわと背筋に這う寒気が恐怖心から来るものだと悟り、羞恥と緊張にぐっと唇を噛んだのを“D”はちらりと横目で見ただけで何も言わない。
己が無自覚に驕っていた事実を何とか飲み下そうとしながらも、しかし探索に当たっていた隊員からの報告に心臓を跳ねさせたのは、何もノースディンの若さばかりが原因では無かっただろう。
「地下に吸血鬼が……氷漬けで……!」
「そう。じゃあ行こうかノースディン」
驚愕に表情を強張らせた隊員が、駆け寄りながら叫ぶようにあげた報告に対する“D”の反応は至極あっさりとしたもので、それが更に周囲に緊張を齎したようだった。
そも、ノースディンは数秒の間を聴覚に飛び込んできた情報を理解するために費やした。“D”の言葉でさえ辛うじて返事はできたものの、己の声さえ意識の上を滑り落ち付き従うように立ち上がれたのは反射行動にすぎなかった。腰に帯びたサーベルががちゃりと音を立てる、その重みさえ何処か現実味が薄い。
白い制服の裾を翻し歩む“D”の後ろに付くノースディンの耳に、ざわざわと動揺の収まらない隊員達の囁きが通り過ぎていく。
こんな僻地に、何故、何者なのか、生きているのか死んでいるのか、何故、何故、何故。
「地下……納骨堂、ではなく?」
「いや、後から無理矢理地下室として作られた隠し部屋のようだ」
「地下室を作ってすぐに教会自体が打ち捨てられたのか……? 何故記録に残っていないんだ?」
ひそひそと囁かれる会話はまるで細波のようだった。
住み込みの司祭が生活するための私室の奥、朽ちかけた本棚の奥に隠された石扉。暴いてしまえばつまらない、何の装飾も施されていない素っ気のない石の壁が、ぽかりと口を開き地下へと続く階段を覗かせている様はいっそチープなホラー映画の一幕のようでさえあった。
先行した隊員達によって明かりが引き込まれた地下室へと潜りながら、ノースディンはどくどくと高鳴る胸を抑え込むように何度も浅い呼吸を繰り返す。張り詰めた神経が手指の先から体温を奪っていくのを感じ取ってはいたが、何ができるわけでもない。
全く揺らぐ様子のない“D”の背を追い、狭く暗い階段を下りていく。人二人がすれ違うのがやっとの幅しかない階段は、思いの他長かった。無理矢理に後から増設されたという推測の通りか、およそ地上の建物との比率が合っていないように思える。
石の壁に触れてみれば、ざりざりとした手触りと指先を包む白手に削れた砂粒が纏わりつくのが感じられた。
「総監、この奥です──ノースディン、これを」
下りきった階段の下で、先行していた隊員の一人が強張った声で“D”をいざない、ノースディンに一丁のハンドガンを差し出した。一目で、銀の弾丸が装填されたものだと気づく。セーフティは既に外されていた。
心臓の鼓動が頭の中にさえ響いている。銃を受け取れば、そのずしりとした金属の重みがずんと腹の底と背中に伸し掛かってくるようであった。銃など、サーベルの次に慣れた武器だというのに。
知らず口の中に溜まっていた唾液を飲み下し、ノースディンは“D”に続いて地下の通路を進んだ。LED式のランタンが放つ白い明かりが、より地下室の空気を寒々しく空虚なものへと変質させているような錯覚を覚えて、しかしふと己の吐く息が白く濁っている事に気付きノースディンはぎょっと目を見開いた。
「……言っただろ、氷なんだよ本当に」
咄嗟に口元を押さえた年若い新人に、先行していた隊員は表情を強張らせたままぼそりと呟いた。視線だけが一度ノースディンを見やってしかし警戒の意識は迷いなく進む“D”の先、地下通路の奥へと向けられている。
一歩、一歩と進むごとに空気が冷えていく。
「うん、これだ」
静かな声音がぽつりと独り言のように地下の空気に零れ落ちた。白い外套を揺らし進む“D”の背の向こうで、待機していた隊員が聖人を迎えるように二手に別れ道を創りだす。
一瞬、歩を進める事を躊躇ったノースディンの背を、隊員の一人が押した。“D”の傍らに控える任を、年若いノースディンに任せているのだという全幅の信頼と、鼓舞の混ざった力強い掌だった。
ぐ、と奥歯を強く噛み締めて足を踏み出す。かつん、と硬質の足音が響く様は冷たく、寂しい。
部屋、と呼ぶにはあまりにも素っ気の無い空間はただ広く造られていた。倉庫の用途であったと説明されれば誰も疑いなどしなさそうな、ただ土の中を四角く切り抜き石で壁と床と天井を固めただけの一室だ。寒々しく、虚ろで、納骨堂の方がまだ賑やかさがあるだろう。
壁面に備え付けられた燭台には、溶けかけた蝋燭の名残が幾つも残っている。どれもが埃を被り、朽ち果てる寸前のように思えた。
そして、その空虚な空間の最奥に『それ』はあった。
「本当に……吸血鬼が……」
ノースディンの戦慄いた唇から溢れた音に、うんと一つ頷いたのは“D”だった。優雅な、力強い足取りで真っ直ぐに『それ』に向き合った男の背は、まるで何一つに動揺した様子もなく泰然としている。
「黒い杭と氷、この子を日本に持って帰るよノースディン」
こつ、と“D”の指の背が氷の塊を軽く叩いた。LEDの明かりを受けて輝く氷塊は凍てつき、自然溶解の気配などまるでしない。地下に満ちる冷気がなければクリスタルの塊ではないかと思えるほど、美しい氷の塊だった。
その巨大な氷の内側に、一人の男が閉じ込められている。
黒い巻き毛の吸血鬼が一体、全身を十三本の黒杭に貫かれた状態で、冷たく硬い氷の内側で眠っていた。
続く