ホ医薫零 最近、佐倉山からの連絡が途絶えている。以前羽鳥からわざと連絡を止めたのとはニュアンスが違う。どうやら単純に薫と会う時間が取れぬほど忙しいらしい。普段から多忙な人だが、いつもより輪にかけて余裕がないということだ。羽鳥が在籍するホストクラブに遊びに来ないのは勿論のこと、メッセージアプリへの返信も、スマホへのコールに折り返しもないという状況だ。
こういう時、天才外科医の佐倉山を取り巻く世界の中で、最初に篩い落とされるのは自分なのだと羽鳥は考えて項垂れる。私と仕事、どっちが大事なの――? なんて使い古されたフレーズが頭に浮かんでげんなりした。しつこく連絡をするのも鬱陶しいかと思い、せめて声だけでも聞きたいと願う健気な感情も堪えてそっとしておいた。
ちなみに、メッセージアプリの最後のやりとりは、「飲みにおいでよ」「忙しい」「そっか、またいつでも来てね」というホストの営業連絡のようもので、羽鳥の焦がれた気持ちを向こうが理解してくれているかも怪しい。もちろん店に飲みに来いというのは建前である。本当は二人きりで会いたい。素直に誘うのが憚られるだけだ。
そういうわけで、ホスト羽鳥薫はフラストレーションを溜めている。佐倉山に触れる夜を思い出さぬよう、出勤日数を増やしてひたすら仕事に打ち込んだところ、また店の最高売上記録を更新してしまったのは別の話だ。
そんなある日のこと、久しぶりに佐倉山社交倶楽部の会合案内がきた。納涼会という名目で晩餐会を取り行うとのことであった。会員である薫にもしれっと案内状が届く。案内状の差出人は倶楽部の運営代表、佐倉山零の名前だ。その文字を見ただけで胸が弾む。薫はそんな情け無い自分に気付かぬふりをして、当然ながら『出席』の返事を出した。これの準備も零が多忙を極める理由の一つだろうか。
ようやくあの人に会える――個人的なお誘いではなくとも、その機会が訪れたことが喜ばしかった。しかし晩餐会は一ヶ月も先だった。つまり裏返って、恐らくそれまでは会うことができないのだ。ホストの羽鳥と外科医の佐倉山――二人の繋がりは細い線の結びつきである。一度切れてしまえば見失って、もう紡ぎ合わせる事もできぬほど細い。こうも会えぬ日が延びると、このまま終わるのではないかと常に薫の頭をよぎった。互いの仕事やコミュニティで交わることもない。二人を介する共通の知人もいない。途切れたらそれまでだろう。
――いや、一人だけ共通の知人はいる。
「よぉ、アンタ、前に会ったな」
倶楽部の晩餐会の当日。大畑は受付に立っていた。白いシャツにグレーのジレを着て小洒落た装いだ。シルバーブロンドの髪色に良く似合っていた。しかし明るい髪色のおかげか、何だかナイトクラブのボーイのようにも見える。
「久しぶりだね。大山くんだっけ、大川くんだっけ」
「大畑だ」
鋭い目を向ける大畑を前に薫はけらけらと笑う。大畑の隣にいた女性に促されて受付台帳に記帳をした。長身の羽鳥にはテーブルが少々低くて、腰を曲げてペンを走らせた。大畑も何やら手元の紙にチェックを入れている。ちゃんと受付係として働いているらしい。大畑は改まって薫を見つめた。
「アンタ、こんなところ来るんだな」
「ホストが社交倶楽部にいたら可笑しいって?」
「いや、それは関係ないってあの人が言ってた。それに羽鳥さんは、けっこう立派な家柄の出身なんだろ」
〝あの人〟だなんて妙に色っぽい物言いをする。薫はまた少し大畑にぴりりとした嫉妬心を滲ませたが、表には出さぬようお得意の営業スマイルを広げた。
「まあね、確かに親の後ろ盾があって俺も入会できた流れだけど。俺は個人的にこの倶楽部の会員になったんだよ。会員費用も自分で払ってるし」
「それがよくわかんねぇ。こういうの、興味なさそうに見える」
「見た目で判断するのは良くないと思うけど? じゃあね、大川くん」
大畑だ、と眉を顰めるのを他所に、薫はひらひらと手を振ってその場を後にした。
薫がそもそもこの倶楽部に入会したのは人脈作りの為だ。ホストなんて仕事はいつまでも続けられるものではない。確実に先細りになる。先々を考えて様々な分野に食指は動かしておきたいのだ。羽鳥の家柄は確かに申し分ないほどの経営者の一族だが、家族の反対を押し切って自由にホストをやっているし、ホストを辞めて親の世話になるのも勘弁だ。
倶楽部の晩餐会はクラシカルな佇まいの洋館を貸し切って行われている。床は大理石、天井には大きなシャンデリア。晩餐会に参加する会員は老若男女を問わず多くいた。そんな中、着慣れた様子のファッションスーツに身を包んだ薫が颯爽と現れると、まるで薔薇の花を散らしたように辺りが華やいだ。恵まれた長身と引き締まった体格、加えて毎晩女たちを魅了する甘いマスクの美青年だ。その場にいた誰もが釘付けになるのも無理はなかった。
しかし、薫が今宵の晩餐会で一等星として輝く時間も、この男が現れるまでだった。
「本日はお忙しい中お集まり頂き、心より御礼申し上げます」
主賓の挨拶に現れた倶楽部の代表、佐倉山零は、色白の素肌に良く似合ったブラックスーツでクールに決めている。光沢のあるネクタイに胸元のブローチの輝きは、零の麗しい美貌を一層引き立てた。すらりと細長いシルエットはさながらファッションモデルのような出立ちだ。彼がにこりと微笑むと、どこかで見覚えのある有名企業の経営者や政治家だって、ほうと溜め息を吐き頬を緩ませる。まさに傾国の美人である。
(眩しい……)
遠目に佐倉山を見つめて、真っ先に出てきた感想がこれだった。長らく記憶の中だけでしか会えていなかった。久しぶりに見合う佐倉山零という天才外科医様は、こんなにも神々しく美しい男であったか。
(でも、性格は難あり……家の中だと色々とだらし無いし)
薫はかぶりを振ってそんなことを考えた。もう三ヶ月ほど、そんな時間は共有していないのだが。
「お忙しそうですね、佐倉山先生」
「お、羽鳥さん」
何ヶ月ぶりだろうか、この声を聞くのは。晩餐会が始まって数時間後、会場から外れたレストルームで、薫はようやく零と二人きりで対峙することができた。零が中座するのを見計らって追いかけてきたのだから、まるでストーカーじみていて嫌になる。しかしこうでもしないと、一向に零と話す隙がなさそうだったのだ。晩餐会中、己に群がる女性陣をいなすのはナンバーワンホストにはお手のものである。同じく、零だって次から次へと挨拶に集まる倶楽部の会員達を相手にして、随分と忙しい様子だった。互いに漸く一息つけたというところだろう。
「今日、来てたんだな」
零は手洗いを済ませてハンカチで水滴を拭いながら、背後に立つ鏡越しの薫にそう言った。薫は呆れた様子で、組んでいた腕を解いて肩をすくめた。
「嘘でしょ、気付いてなかったの?」
「いや、出席で返事くれてたのは知ってたけど。姿が見えてなかったから、本当に来てるかは知らなかった」
「あっそう」
薫はひくりと眉山と口角を上げる。晩餐会中、こっちはずっと零のことを気にして視界の端に入れていたというのに。こうも気にされていないと、ナンバーワンホストのプライドも傷付く。
薫は一歩、二歩と零に近付いた。零はハンカチを胸元にしまい直して、くるりと振り向く。二人はほぼ同じくらいの背丈をしている。向かい合うと美しい顔立ちが真正面にぶつかり合って、中々の迫力だ。上品な迎賓館のレストルームの鏡が、そんな二人の姿を映している。
「どした?」
佐倉山は恐ろしいほど整った目元を少し細めて、羽鳥を見つめた。彼の目には羽鳥の表情が何やら思い詰めた様子に見えていた。真面目な顔つきで見つめられて、そういえば随分とこの顔を見るのは久しぶりな気がするな、なんて考えた。
「佐倉山さん、今日――」
薫はそこで言葉を詰まらせて一息つく。片方の手をスラックスのポケットに入れて、もう片方の手で己の襟足を弄んだ。久方ぶりに真正面から対峙する佐倉山に対し、湧き立つ思いはたった一つだ。
「――家に行ってもいい? このあと、二人きりで飲み直したいんだけど」
そんな言葉、ホストの羽鳥薫に入れ込む女性達が聞けば卒倒するに違いなかった。誰もが欲しがるその言葉を手に入れた唯一の男――外科医の佐倉山零は、切れ長の目をパチリと瞬かせて、長い睫毛を揺らした。そうして次の瞬間、無邪気に表情を崩したかと思うと、あははと八重歯を見せて笑ったのだ。
「面白いな、羽鳥さんは」
「……なんか笑う要素あった?」
薫はまた口角をひくつかせる。そうして、大真面目に口説こうとした自分が恥ずかしくて堪らなくなってくる。佐倉山を相手に正攻法で攻めてどうするのだ、そういう相手ではなかった筈だ。何ヶ月も相手をしていないと、こうも調子が狂うのか。
すると、そんな居た堪れぬ様子の薫の頬に、すっと他人の指先が触れる感覚がある。零が手を伸ばし、触れたのだ。零の手のひらで顔を撫でられたと認識した途端、かっと薫の心音が鳴り喚いた。思わず息が止まりそうになる。
「何っ‥」
「かわいい」
「は……!?」
「このあと、少しだけなら時間あるから」
「えっ、……ほんと?」
「うん、早朝には出ないとだけど。それまでなら」
するりと零の指先が誘うように薫の肌を滑って、離れていく。まるで放心状態の薫の顔つきを見て、零はふっと笑って少し首を傾げた。
「あと一時間くらいで倶楽部もお開きにするから、それからで大丈夫?」
「うん、大丈夫……」
「今日は車?」
「うん、車」
「じゃあ、乗せていって。俺、飲むと思ったから車で来てなくて。迎え頼もうと思ってたから」
「はい、分かりました」
薫は呆けた声で返事をした。零は機嫌良さそうに笑みを浮かべたまま、背を向けてレストルームを去っていった。
(続きはまた今度)