みえないもの『あ? 聞こえねえな。変なとこ、触ってねえか? ちゃんとおれが教えたとおりそのまま、余計なことはしてねえだろうな』
「何もしておらぬ。だいいちこのような面妖なからくり、好き好んで触ることはない。お主がどうしてもとしつこく言うからわざわざこうして……」
『やっぱりうまく聞こえねえ。てめえは間違いなく土蜘蛛だよな?』
「何を馬鹿げたことを」
そう返しつつ、吾輩はふと訝しく思いその板を耳元から離した。そも、この小さな玻璃と鉄の板の向こうにあれが居るというのは本当か? 電話というものには未だに慣れぬが、今更それそのものを疑いはしない。しかし向こう側の某は、実際目には見えぬのだからそこにまやかしがあるやもしれぬ。あっても何もおかしくはない。
「吾輩としたことが見落としていた」
『はあ? おい、今のは聞こえたぜ』
「やはりこのようなからくり、いけ好かぬ……」
『何をぶつぶつ言っているんだ。いいかてめえが土蜘蛛のなりすましだということを、妖魔界の……』
「やかましい」
平たい玻璃の表面を、拳の裏でコンと叩くと存外固く、ひび一つ入らなかった。しかし纏わりついた妖気を伝って蜘蛛の糸が奔る。間をおかず、『ギャッ』という大ガマとは似ても似つかぬしゃがれた声の悲鳴が向こうで響いていた。
「からくりでも何んでもないとは。……いかんな、こう易く謀られるようでは」
目に見えぬものはこちらの十八番であろうにな。やはりからくりはいけ好かぬ。という思いで目が曇った己が浅はかであったのだが。
そうこうしているうち、屋根の上を駆け回る足音が聞こえた。
「土蜘蛛!」
名を呼ぶついでにゲコリと鳴いた。声はすれども未だ姿は見えず。あれは単に騒がしい。
「土蜘蛛、悪いな遅くなっちまった」
ここでやっと姿を見せる。縁側の障子が勢いよく開いて、当の本人が飛び込んできた。ああ、本当の声は実に騒がしい。
「玄関から参れ」
「いいじゃねえか、面倒がなくて。待っててくれたんだろ?」
「待ってはおらぬ。しかしお主が来ると言ったことは覚えておった」
「素直じゃねえなぁ。まあいいさ、とにかく今日はその手に持ったやつをよこしな。アレ?」
その乱暴な寄越せへ返事をする前に、勝手に吾輩の手からその板をむんずと掴んで持っていく。勝手に奪った割には妙な顔をする。
「壊れてんじゃねえか」
「何?」
「ほら見ろよ、うんともすんとも言わねえ」
と、言うが、大ガマがその板をいじくり回したところで、それがうんと言うものかすんと言うものかも知らぬのだが。
「吾輩は何もしておらぬ」
「機械を壊すやつはみんなそう言うんだよ。まいったな、こいつを下取りに出して最新機種に変えるつもりだったのに」
「よくわからぬがなくてもさして困らんだろう。吾輩に電話などお主ぐらいしか掛けるものはおらぬ」
「そして掛けてもどうせ出ねえしな」
「そうでもないぞ、先程……」
急に気が変わって電話に出たのだ。来るとは聞いたその時刻にかかってきたそれに。さては道に迷ったか寝過ごしたか、何か要件でもあろうかと、聞いてやっても良いであろうと。だがその結果、わけのわからぬ小妖に、お主の声真似で騙されかけたと。事の顛末が、莫迦らしい。
「何んでもない。やはり要らぬ」
「なあ土蜘蛛、本当に何も知らねえのか? 中でなんか死んでるぜ」
「知らぬな。いよいよ捨てるしかなかろうな」
「ああもう、しょうがねえなあ。やっぱり土蜘蛛さんにはこういうのは向いてないな。今まで通り、逐一会いに来てやるか」
「うむ。それが良かろう」
どうも見えない声というのは面白くもない、からくり越しの声では味気ない。などと考えていたところ、大ガマが妙に愉快そうにニタリと笑った。
「その顔は何んだ」
「いいや。素直なことは良いことだぜ」
「お主は何か勘違いしておるな」
とはいえ仔細を語るわけにもいかず閉口した。