愛憎と救済のぺトリコール序章
――戻っておいで、レイン。
帰らねぇよ
――全てが詰まった黄昏の庭園へ。
全てを失ったクソな邸宅になんて。
――醜悪と慈愛を教えてくれたあの庭へ。
裏切りと残酷を刻みやがったあの場所に。
――暗闇の間から覗く仄かな灯のある花園へ。
冷たい雨が絶え間なく降り注ぐ荒地に。
――血塗れた戦場から、早く帰って来て。
俺を認めてくれた場所から、絶対に離れない。
私 は 貴 方 を 待 っ て い る 。
俺 は お 前 を ぶ っ こ ろ す 。
嫉妬と愛憎が滲む館で、神覚者を襲った悲劇。
「うーん。それは自己満足だと思いますが?」
そして、一人の青年による救済の物語。
1
話に入る前に、レイン・エイムズの過去を語らなければならない。彼は生まれながらで痣が二本と、優秀な魔法使いとして生まれた。二年後に弟も誕生し、明るい未来が待っていたのも束の間、両親が突然この世界を去る。悲劇の幕開けだった。身分が全てのこの世界で、後ろ盾がない自分たちには存在価値などなかった。名誉や美徳がある貴族とは対象に、孤児は自堕落、暴力的、不衛生にも劣る存在として認識された。
両親の死から地獄のような日々が始まった。親戚にたらい回しにされ、まともな食事も取れず、空腹は日常茶飯時だ。弟が泣きじゃくる姿を見て、レインは歯をギリギリと音を立てて食いしばる。
普通に暮らしていただけで、身分が落ちた瞬間、人の目が変わった。扱いすらもゴミ同然だ。他人からみれば、自分たちはドブネズミと同値だ。
当時のレインは生きるのに必死だった。不味い飯を喉に押し込み、暖房がない部屋で寒さに耐え、荒くれ者から逃げ惑った。
9歳になった頃、人生の分岐点が迎える。辛い日々を過ごしたある日、気優しそうな紳士と出会う。チンピラたちに使った剣の魔法を気に入ったらしく、ぜひ屋敷に来て欲しいと話を頂いた。
レインの置かれた状況を話せば、彼は眉を下げて悲しんでくれた。
「わかった。僕ができる限りのことをしよう」
男性が、頬を緩ませて優しい言葉をかける。今まで聞いたものより温かい。氷のように冷えきった心を、柔らかい炎で溶かしてくれた。彼の柔和な雰囲気に、レインは閉ざしていた心の鎖を解いていく。
僅かな食料と金銭を貰うことを条件に、男が住む屋敷で働くことになった。
彼の屋敷は、街から離れた場所にある。雨がよく降るらしく、湿度が常に高い。そのせいで、服が湿って肌にまとわりつく。土が空気に溶け込んで、独自な香りも放つ。雨水が蒸発することで、土中の菌を拡散すると教えてくれた。レインは大地の香りを気に入った。鼻先をくすぐって、不思議と心地良さがあった。
「ついたよ。ここが僕の屋敷さ」
紳士が手を伸ばした先にあるのは、黒いレンガ造りの洋館。
「君と同世代の子供たちもいる。紹介するよ」
おいでと声をかければ、階段から複数の足音が鳴り響く。現れたのは、二人の男女。彼らも紳士と同様に、身なりのいい格好だった。少年はレインよりと年上で、ブロンズ色の髪に七三分けで整っている。シャツやズボンには埃や泥がなく、シワも一つもない。上も下も衣類の裾が擦り切れ、くたびれているレインとは天と地の差だ。
それよりも、レインは隣にいる同世代の少女に目がいった。襟元にリボンが巻かれた桃色のワンピースに身を包み、少年と同じ髪色で、ウェーブかかった柔らかい髪が腰まで広がる。顔のパーツは、左右対称に配置されて、神の手で作られたと錯覚するほどの絶世の美少女だ。レインと目を合わせば、唇を綻ばせた。笑顔を向けるだけで、彼女の周りに花が散っている雰囲気を匂わせる。今までみた女の中で、一番綺麗だと思った。
「父さん、そいつは誰?」
少年は眉をしかめるで話す。攻撃的な口調から自分の歓迎をよく思っていないようだ。男性は両手を前に出し、困った表情を浮かばせる。
「この子はレイン。剣の魔法が使える子だ」
紹介されたので、レインはぺこりと会釈する。少年は鼻を鳴らして嘲笑う。
「へー。二本線魔道士らしいし、いい家系だろうな」
レインは舌打ちを飲み込んだ。こいつも身分のことしか頭にない野郎か。腹の底からふつふつと湯が沸騰したかのように、全身が熱くなる。
「実は……レインは親がいない。でも、彼が使う魔法は神聖なものだと、僕は思っている。だから、君たちにも会わせてあげたかった」
「身分がねぇヤツと関わるなんてゴメンだ。俺らは崇高な血族でおることを父さんは知らない。痣が二本あったとしても、屑は屑だろ」
身寄りがないとわかった瞬間、少年は家畜を見る目でレインを見下した。罵詈雑言を浴びせられ、怒りが頂点に達してしまう。呪文を唱えようと口を開きかけた時だ。
「兄さん!なんて、酷いことを言うの!頑張って生きている人をバカにしない!」
ハリのある叱咤の声が耳に届く。少女が顔を赤く染め、目を吊り上げている。妹に怒鳴られた少年は舌打ちだけを残し、わざと大きな足音を立てながら階段を上がった。
改めて少女がレインと向き直る。目を伏せ、前かがみになる。
「ごめんなさい。見栄を張るだけが取り柄だから」
「……いいんだ。真実だしな」
「お父さんが理由もなく、誰かを連れ込まない。貴方の素質を見込んでいるのは、私にもわかる」
両親が亡くなった以降、初めて聞く肯定的な言葉だった。
曇りなき双眸が、少女が本心で語っていると教えてくれる。
心の底から嬉しかったレインは、目頭が熱くなった。視界が滲んでいるせいで、今見せる少女の顔がわからない。人前で泣くことは男として恥ずかしいので、溢れる涙をぐっと堪える。
「それより、貴方の魔法がみたいわ!」
お日様に似た笑顔は、レインの心臓を射止めた。どくりと熱い血が全身に巡らせる。
レイン・エイムズ、初めての恋だった。そして、少女との出会いが無間地獄へ誘う入口だった。
2
紳士と出会ってから、レインは毎日のように屋敷に通った。紳士一家に魔法を見せたり、話をしたりと平穏な日常を過した。後に夕食も誘われる。侍女から残飯を受け取り、弟のフィンに分け与えることが日課だった。
使用人たちとの関係も良好だ。料理の話をすると、親切にも調理法の書かれた羊皮紙を渡してくれる。おかげさまで、食事のレパートリーが増えた。
しかし、少女の兄だけはレインを毛嫌いした。すれ違う度に、無視され、舌打ちを鳴らす。自分も価値観が合わない人種だった為、彼には全く興味を示さなかった。
それより、気になる少女との談話が、日々の楽しみであった。薄暗い燭光の下で、バニラの甘い香りを放つ天使が、レインのために時間を割いて来てくれる。お互いの話を語り合った。自分の苦しい過去に、彼女は同情してくれる。そして、「大変だったね」や「よく頑張ったね」と賞賛の言葉を与えた。
そして、今日も二人っきりのお喋りが始まる。談話室にある暖炉でレインと少女はいた。外は雨が降っていた。屋敷には光はなく、鈍色の膜が窓に張り詰めたように曇っている。雫が地面や建物を弱々しく叩く。
屋敷の周辺は毎回雨が降ってた。青い空を一度も見ていない。しかし、雨音を聞けば、不思議と情緒が安定する。
「毎日、雨が降るんだな」
レインが疑問を呟けば、少女は柔和な声で答える。
「これはね、屋敷が放つ結界魔法なんだ。先祖さまが、一族の繁栄を願って、長きに渡り建物に魔力を込め続けた。私たちが平穏に暮らせますようにって」
彼女の説明に、レインは口を開けて驚いた。魔法には様々な用途があると新たな知見を得た。
「確かに、この雨には不快感がなかったのか」
愛らしい女の子は、うんうんと首を振る。動く度に温和な匂いが鼻腔をくすぐる
「レインみたい」
「えっ!?」
レインの心臓が飛び跳ねた。「俺?」と自分自身を指さす。彼の姿を見て、片手で口元を隠して上品に笑う。
「隣にいると居心地がいい」
紅潮する頬に潤んだ慈しむ瞳で、レインの心を鷲掴みする。身分が低い自分に、救いの手を差し出してくれた小さな女神様として映った。
「これからも一緒にいて欲しい」
「俺でよければ、ずっといるさ」
「私はレインがいいの」
小さな白い手が、傷だらけの手をギュッと握る。血が通った温かさは、レインの胸に多幸感で一杯になっていく。ようやく出会えた大切な人。当時の彼にとって、弟と少女だけが希望だった。
けれども、幸福は彼女の兄によって打ち壊されていく。
3
レインが紳士と出会って二年の月日が経った頃、彼が病に伏せた。末期の癌だったようで、魔法による治療も困難だと宣告を受けた。そして、間もなくして男性は息を引き取った。第二の父親だった彼の訃報を聞いて、レインは急いで屋敷に駆けつけた。
呼び鈴を鳴らして扉を開けたのは例の兄だ。金に物を言わせた服装で、高圧的な視線を向けた。
「今日から、ここに来るな。本日をもって、この屋敷の主は俺だ。俺はずっとお前が気に食わねぇだ!二線だからって、妹や召使いたちを籠絡しやがって。お前はな、何も取り柄がないドブネズミだ。汚物はここに来る資格がねぇだ。とっとと帰れ。反論しても、無駄だぜ。今年から魔法局勤めの俺に、お前は勝てない」
青年は大きな音を立てながら、扉を閉める。高らかな叫び声が屋敷内に響き渡った。
再び地獄に突き落とされた。レインは両膝を地につけ、項垂れる。心にぽっかりと穴が空いてた。雨が身体を濡らし、さらに虚無感を増幅させる。涙が全くでなかった。兄弟で生きると決めた時に二度と泣かないと決めた。いつかは裏切られると感じていたが、すぐに訪れるとは予想外だ。帰ろうかと、立ち上がろうとした時だ。
「レイン!」
屋敷の裏から、傘を刺しながら走ってくる少女がいた。
これは幻覚かと、レインは目尻を押さえる。もう一度確認しても、彼女の姿は視界に映っていた。迷いもなく真っ直ぐ進む彼女綺麗な服は泥が付着されていく。
「はぁはぁ……良かった」
レインの元まで来ると、少女は息を切らした。持っていた桃色の傘に自分を入れてくれる。
「ごめんなさい。貴方がお父さんを弔いに来てくれたのに……兄さんが酷い対応をしたようで」
青い瞳に水の膜が張られていた。レインの目は大きく見開いた。愛しい少女は、自分の代わりに泣いてくれる。心臓が激しく波打ち、全身に血流が行き届く。身体が火照って熱くてたまらない。まだ自分を想ってくれる人が残ってくれて。歓喜、幸福、甘美。高揚感で溢れんばかりの快楽物質を流し込んでくる。
どうか、俺にこれ以上大切な人を奪わせないでくれ。
――心に醜い傷を付けないで。
――レインは少女を抱き締めながら強く願った。
4
屋敷の出入りを禁止されても、レインは天使に会いに行った。夕暮れ時、裏手にあった彼女の庭園へ足を運んだ。紫陽花の小道を進めば、小さな中庭にでる。周辺は雨に強い花々が咲き誇り、特にクチナシは甘い香りを目立たせた。
庭の真ん中には、大きな傘の下に白い丸テーブルと二つの椅子、片方の椅子には可憐な少女が座っている。
レインが訪れたことに気づけば、顔に喜色の笑みを浮かばせた。夕日が雨に反射して、宝石のように輝くことで、神々しく映った。
「来てくれて、嬉しいよレイン」
ソプラノボイスの心地良さに酔ってしまいそうだ。レインは必死に表情を出さないよう、奥歯を噛み締めた。
「畏まらなくてもいいのに」
「う、う、うるさい」
悪戯っぽく笑う彼女も愛おしい。レインの心臓は鼓動が速さを増す。
「そうだ。これ」
少女はレインにランチバッグを差し出す。中には、パンや干し肉、ぶどうジュース等が入っていた。屋敷に入れない代わり、従者たちが食事を送ってくれる。以前よりは質も量もないが、貰えるだけでも嬉しかった。
「弟くんと一緒に食べて。メイドの子が、レインに会えなくて寂しがっていたよ」
テーブルに少女は両肘をつき、両手に頬を当てる。苺を甘く煮詰めたものが彼女だろう、と思わせるほどに熱に溶けた表情だった。
それから、二人っきりの密談が始まる。近々、彼女は社交会へ行くことが決まったらしい。
「初めてだから、不安でいっぱいだよ。ちゃんと話せるかな」
少女は眉を下げて悲しそうに呟く。
「話せるさ。俺が保証する。出会った時、まっすぐな言葉を伝えられるお前なら絶対にできる」
レインは真っ直ぐと少女を見つめた。感情が声に乗っているのか、腹が震えているようだ。
アクアマリンの瞳を大きく輝かせてる。そして、少女はレインの両手を掴んだ。
「ありがとう、とっっってもうれしい!!私、頑張るね」
天使の安堵な笑みを浮かべたので、レインまで嬉しい気持ちになった。
ずっと、この時間が続けばいいのに。しかし、現実は残酷で幸せもすぐに終わる。
「お嬢様、ご主人様が呼んでおりますので」
彼女と一番仲いいメイドが中庭に現れて、言葉を告げる。
「わかった、屋敷に戻る!レインも早くここから出てね」
「あぁ」
家の主にバレたら、面倒なことになるので、レインも速やかに中庭を去る。従者から教えてもらった隠れ道を使い、屋敷の外へ出る。
二人のやり取りは、一年間続いた。日を増す事に、少女は高級なドレスを着るようになり、渡される物も高価なものへと変わっていた。話の内容も、社交会のばかりで実体を知らないレインには面白くないものだ。無自覚にも出会った異性の話もするから、癇に障ることもしばしある。しかし、彼女は誰よりも自分を肯定してくれたので、一緒にいる心地良さは変わらない。歳を重ねていけば、趣味趣向が変わるだけだと思った。
ある日を境に、二人の関係に亀裂が生まれた。
レインがイーストン魔法学校中等部に、編入する数日前の出来事だった。
編入試験を合格したことを、彼女に報告するために屋敷を訪れた。いつもは中庭で待ってくれる姿は無かった。
何かあったのか。心配になって当たりを見渡せば、昔二人で話したあの談話室で、メイドと話す少女がいた。
気になったレインは忍び足で近づき、壁に聞き耳を立てる。
「お嬢様、レインさんにあの件をお伝えするのでしょうか?」
メイドの声には躊躇いがあった。自分に何か、隠し事をしているのか。胸の鼓動は大きく打ち鳴らす。天使の啓示を今かと待つ信者と同じ気分だ。
「ええ、もちろん。きっと、レインも私の婚約を祝福してくれる」
今この女、何を言ったんだ。愛らしい口から出た言葉が、契りを交わす物で、先程まで熱かった身体が一気に冷える。
聞き間違いだろう。嘘だと言い聞かせ、彼女たちの会話を耳を研ぎすまける。
「貴女は彼を愛しているのに」
「好きよ。でも、好きだけでは生きられない。レインと結ばれても、きっと破滅の人生を歩む。けれど、私が身分のいい人と結婚すれば、彼も出世できるわ」
「お嬢様、こんなことを言いたくありませんが、今後のためと思って言わせて頂きます。貴女が仰っていることは、レインさんや婚約者にとって最低な行動です。どちらも幸せになりません」
女中の声は怒りで震えていた。
「婚約の話を聞いたら、レインさんはきっと会ってくれませんよ」
「別れることはないわ」
冷静さが失っているメイドに足して、彼女は普段通りの優しい声色で語りかける。
「私とレインは魂で繋がっている。私が彼であり、彼が私でもある。弱い人間を守りたい気持ちは一緒なのよ。例え、孤独になってもレインがいる限り、私は消えないし、私もレインの心の中で生き続ける」
淡々と話す彼女の話は難しすぎて、レインの思考は鈍くなる。しかし、彼女が地位を壊してまで、自分を愛していないとだけ理解できた。自分の生き方を信じて、寄り添ってくれると思っていた。
神覚者になって、弱き者を救える世界を作り、あわよくば彼女と幸せになることを夢みた。全て己の手で成し遂げるつもりだった。けれども、彼女が頼ったのは、レインが一番嫌いな名家のコネだ。金持ちの嫁になり、相手の金で自分を支えるのが女の考えは腹ただしいものだ。彼女は誰かの物になることも苛立つ。
ただ彼女は、可哀想なレインを救っている自分に酔いしれているだけだ。
俺の夢を見守ってくれると思っていた。
彼女は唯一縋れる希望だった。自分を照らしてくれる太陽だった。しかし、自己中心的な発言によって、日は輝きを失っていき、最後には消滅した。目の前にある真っ暗闇をひたすら走った。体温も強引に奪われて、身体の芯まで冷えていく。次第に、五感も麻痺していき、意識も緩やかに薄れていく。
「に……さ、ま」
温かい水滴が頬に触れたことで、レインの意識は浮上する。ゆっくりと瞼を開ける。
「にいさま、にいさま」
視界がくっきりと形を成す。全体は黒だが、左触覚の一部分だけが黄色い少年。梔子色の瞳から大粒の涙が溢れる出す。誰よりも心配してくれるたった一人の家族。
「フィン、すまなかった」
泣きじゃくる弟を、力いっぱいに抱きしめる。自分にはこの子しかいない。
いつか、弱者たちが心から笑える世界にさせてやる。あの女に再会した時、恨みの言葉を吐いてやろう。
お前と破滅に進まなくて良かったと。
第一章
レインが神覚者になって早二年。無邪気な深淵との闘いも終わった平穏な世界。本日の業務も終え、魔法局から外へ出たところで、母校の紺色のローブを着た青年が一人いた。緩やかな円曲を描いた黒い髪。世界を救った英雄、マッシュは茶色い紙袋を片手に現れた。毎日、レインが仕事終わる夕暮れ時を狙ってきている。
「今日もシュークリームのお届けに来ました」
「毎日、飽きねぇな」
「いっぱい作ったので、レインくんにもおすそ分けです」
マッシュは持っていた袋を、レインに押し付ける。袋の隙間から、カスタード独特の匂いが鼻につく。
「ありがたく受け取っとく」
レインは深く考えずに、彼の好意を受け取った。奪われたら、殴ってまで取り返す程の大好物を、会う度に渡してくれるのかが疑問だった。本人の背景が明るくなったので、よしとした。
「わーい。今日はウサギの形にしたので」
「食いづれぇだろ……」
じっと、レインの目が細くなる。好きな物だからこそ、もったいなくて食べにくい。睨みつけるように見たせいで、マッシュは体を震わせ、目を合わせまいと視線を下に逸らす。
「嫌でしたか?」
「違う。もったいねぇなと思っただけだ」
「なら、良かった」
ほっと、黒髪の青年は胸を撫で下ろす。
「では、また明日」
マッシュは手をひらひら振る。数秒後、吹き荒れる風と共に去っていった。
一体何がしたかっただろう。一人取り残されたレインは、呆気にとられる。ただ遠い目で彼の去った場所をみつめた。
2
レインは帰路に着く。
魔法学校を卒業してから、小さな一戸建ての家を買って暮らし始めた。神覚者になると、多額の助成金を貰える。
派手な暮らしができると、世間は思っているようだが、無一文の生活に慣れているレインには厳しかった。
正直な所、弟と兎が暮らせる程度の広さで十分だ。
木製の扉を開ける。主人の帰りを察したのか、兎たちが玄関まで来てくれた。
「ただいま」
全員の名前を告げれば、足早でキッチンへと向かい、晩御飯の支度をする。細かく刻んだ人参を兎たちに渡せば、勢いよく食べ始める。
その光景を無言で眺めた。彼らの食事風景も、レインにとっては鑑賞目的の一つだ。自分も軽く食事を済ませる。
就眠前に、兎のブラッシングを一羽一羽する。全て魔法を使わず自分の手で行う。直接触れることで、愛情を注げると考えての行動だ。
兎を寝かしつければ、一日が終わる。時計を見れば、二つの針のが頂点で重なりそうな頃合だった。
家の窓が、パラパラと叩く音が聞こえ始める。先を見やれば、雫たちが月明かりによって、白い粒となってパラパラと降る。
「最悪」
レインは舌打ちしながら呟いた。
七年前の悲劇以降、雨を見る度に彼女を思い出す。自分を裏切った忌々しい女。腹の底から煮えたぎる怒りが溢れる。
「クソッ…」
腹から込み上がる吐き気に、口をすぐに押さえる。それでも、胃液が逆流し、喉を刺激していく。頭もズキズキと脈打つ痛みさえある。
もう少し兎と戯れとけばよかったと後悔する。
好きなものを吸えば、心身ともに安心できるが、眠りについたばかりの彼らを起こすのは申し訳ない。
レインはこめかみを押さえ、気が紛れるものを探す。保冷室で茶色の紙袋をみつける。
まさか、シュークリームが役に立つ日がくると思わなかった。レインはそれを取り出して、躊躇いもなく貪る。うさぎの形をした可愛らしいものだったが、何も考えずに食す。
クリームの滑らかな甘さが、口に溶けていく。咀嚼し、喉に通す。一個食べ頃には、精神は安定した。
「早く出会っておけば良かった」
後悔を紙袋にぶつけるようにして、片手で握りつぶす。
女より先にマッシュと会って入れば、人生は変わっていたのかもしれない。
自分と同じように弱き者を見捨てず、さらに最下層の魔法不全者でありながら、世界に抗いた続けた男。彼は神覚者を辞退したものの、格差社会の是正を実現した貢献度は非常に高い。
レインも初対面で彼と運命を感じ取れた。女が言っていた魂の繋がりと同一かもしれない。
例えるなら、金貨の表と裏みたいな関係だ。
全てを大切にし、誰も見捨てなかった表の彼。たった一人の弟ですら距離を取り、孤独に進んだ裏の自分。
「俺はお前みたいに前向き馬鹿でいたかった」
震えた声で独り言を吐く。
未だ、レインは過去に囚われている。七年間、人の皮を被った堕天使が心の中に住み着いている。この呪いを拭いきれていない。
現在、彼女が何をしているのかはわからない。富豪と結婚して、立派な子供を産んだろう。自分を裏切って、幸せに暮らすあの女が憎い。
「いつか、殺してやる」
今まで優しくされた分、愛が恨みへと変わる。
憎悪に見立てた黒いシミが、レインの理性を侵食していく。
3
ある日の昼下がり。レインが職務室で仕事をこなしていた。
木製扉を叩く音が鳴る。
「何だ」
「レイン様、お客さまがお見えになってます」
生真面目な男性局員が、扉越しに話しかける。自分に来客とは珍しいと思った。
「通していい」
レインが返答したことを皮切りに、扉が開かれる。そこから、一人の男が現れる。七三に分けたブロンド髪に、高級そうな服。しかし、くたびれている印象がある。服には皺が多く、顔はやせ細って頬がこけている。どこかであったかと、レインは記憶を引き出そうとする。
「レイン……久しぶりだな」
蚊の鳴くような声で、名を零す。
「まさか、てめぇ……」
レインの目は小さくなっていく。心を締め付けた低い声は、底に沈んでいた殺意を浮上させる。
男の胸倉を掴み、壁に勢いよく殴りつけた。何度も何度も身体を叩きつける。
局員から制止の言葉を無視してまで、暴力を振るう。正気を失ったレインを止めたのは、大量に降り注がれた砂だ。
「魔法局で大きな音を立てるな」
部屋から入ってきたのは、神覚者の一人、オーター・マドルだ。
「……すみません」
レインは我に返り、オーターに謝罪をする。
「被害者には謝らないのですか?」
ズレた眼鏡を指で掛け直しながら、オーターは先程の言動を指摘する。
けれども、レインは沈黙を貫いたので、どうやら訳ありだなと察せた。
「まぁいい。代わりに聞いてやる」
オーターはため息をつくと、震えている男を向き直る。目が合った瞬間、男は両膝をつき、頭を床につける。
「レイン!!早く帰ってきてくれ!!俺が本当に悪かった」
醜い咆哮を吐きながら、男は言葉を続ける。
「あの女はお前が消えてから、衰弱していった。子を成せないまま、彼女は数ヶ月前に亡くなった」
恨みし女の訃報を聞いて、目尻が裂けそうなほど瞳を見開く。杖を取り出そうとするが、近くにいるオーターに止められる。
「死んだのか……わざわざ連絡してくれて、ありがとうな」
食いしばった歯の間から、絞り出すような罵声を浴びせる。狼に睨まれた子ヤギみたいに、男の身体は小刻みに震えた。
「なぜ、直接レインの元に来た。訃報であれば、手紙を送れば良かっただろう」
オーターが話の続きを促せば、男はゆっくりと語り出す。
「葬儀が終わって後だ。屋敷に戻ったが、急に扉が開かなくなった。鍵や魔法を使っても無理だった」
男は一度話を切り、懐に入れていた青い便箋をレインの前に差し出した。
「先日、ポストにこれが入っていた。レイン、お前宛てだ」
レインは無言で封筒を奪い取る。『レインへ』と白文字で書かれていた。一度は目にした彼女の肉筆。封を切り、中に入っていた文に目を通す。
『愛するレインへ
貴方にこの手紙が届いた時には、既に私の魂は肉体から離れているでしょう。
今頃兄は屋敷を追い出されて、貴方に縋っているでしょうね。
屋敷を解放してほしいなら、私と会いに来なさい。
早く帰っておいで』
自己中心的な内容に、頭の中で何かが切れる音が響いた。憎悪と屈辱が、狂ったみたいな怒りを沸き立たせる。
「今更、会いにこい?ふざけんな、クソ女が!!金持ちの男に逃げたのはてめぇだろうが!!忘れたって言わせるな!!」
レインの喉から出たのは、悲痛にも似た声。彼の怒りは頂点に達していた。今でも固有魔法を使いそうな勢いだ。
「落ち着け」
オーターの魔法によって、密度を凝縮した砂が四肢を拘束させる。身体の自由が奪われても、レインは怒りの咆哮をやめない。
おぞましい怒気に当てられた男は、精神が耐えられずに気を失った。
「レイン、彼は気絶しました。これ以上の応答は無駄ですよ」
ようやく言葉を聞き、ハッと我に返る。沸騰した頭が、次第に冷えていく。自分は一体何をしている。全身から脂汗が止まらない。わめき散らかしたせいか、呼吸がうまくいかない。必死に肩を上下に揺らし息を吸う。
「この男は医務室に運ばせます。貴方は一度頭を冷やしなさい」
「……すみませんでした」
レインは息を切らしながら謝罪する。今日、まともに業務ができそうにない。おぼつかない足取りで、執務室から出た。
「お前らしくない」
オーターはぽつりと呟いた後、ため息を一つ零した。