天使の戯れ天使の戯れ
ようやく見つけた練習の合間に、朝日奈は南と公園の東屋で待ち合わせをしていた。徒歩一〇分ほどの赤レンガ倉庫での路上ライブがはじまるまで、あと五〇分。ようやくありつけた二人きりの時間に、朝日奈は駆け足になっていた。もうすでに到着していたらしい南は東屋のベンチに腰かけ、ボンヤリと、葉の色が濃く色づいてきた馬刀葉椎の枝を眺めている。「南さん!」と呼ぶと、ふりかえった南の顔に、やわらかな笑みが広がっていく。夕暮れがちかく金色を帯びてきた木漏れ日がさしこみ、その向こうには横浜の海が白銀に輝いていた。
「へへ、よかった~。やっと二人になれましたね!」
指をからめ、ならんで腰かけて海を眺めながら、朝日奈はすこし高い南の肩に頭をあずけた。ゆったりとふたりで海を眺めて過ごす南との時間が、せわしない朝日奈の心をなにより落ち着かせてくれる。無理にでも時間を作ってよかった、と朝日奈が満足しながら瞼をふせたところ、「なぁ、コンミスちゃん」と思案げな南の呼びかけがあった。
「え、どうしたんですか?」
困惑げに眉をさげている南に、さきほど合流したときの朗らかな様子はない。
「あのなぁ…。ボク、もっとコンミスちゃんと仲良くしたいんよ」
「え~、いっぱい仲良くしてくれてますよぉ」
自分でも情けないと自覚するくらい、へらっとした笑顔で、朝日奈は、えへへ、しあわせ~と南の肩に鼻をすりつけた。
「そ、そうじゃなくて、もっとなぁ…」
朝日奈が思わず不審げに首をかしげると、南はもごもごと口ごもりながらカァッと頬を赤くして、しまいに両手で顔を隠してしまった。
「もう……もっと、イチャイチャって意味だよぉ。その、こ、恋人としてさぁ…」
「ええぇっ?!」
思わず朝日奈は小さく飛び跳ねてしまった。
「な、なんでそんなビックリするんさ〜」
「だ、だってなんか…南さんにもそういう気持ちあるんだっていうのが、意外で……」
むう、とほっぺを膨らませて、南が両手を腰に当てる。
「ないわけないでしょ! ボクだって、男の子やもん」
「そ、そうだけど…想像したことなかった…」
「なにさ~~! ふ、普通やよ。好きな女の子と、もっと仲良くしたいって思うのなんて…!」
ちょっとむきになって言い返す南はあいかわらず可愛らしかったが、普通という言い方が、自分でも意外なくらい気になった。
「南さん、そういう経験あるんですか?」
さきほどの照れた南がとても愛おしかったので、「あるわけないさぁ〜」と恥ずかしそうに両手で顔を隠す南の顔を見たくて、した質問だった。だがーー
「さわりっこくらいは、したことあるよぉ。夏の間の、ほんのちょっとの期間だけなぁ」
ざざぁっと潮風がふたりの間をかけていく。ちょっとけだるげな声に、朝日奈は驚くほど心臓を掴まれた。どきどきと早鐘をうつ胸が苦しい。
「い、いつ……?」
「むかーしの話さ〜。夏が終わったら、サヨナラしたかんねぇ」
「そう、なんだ……」
意外と早熟だったんだ、とさすがに口にはしなかったものの、顔に出ていたのだろう。南は見透かしたように、あたたかな視線のまま顔をふせた。繋いでいた手の甲に、打ち返す穏やかな波のような動きで撫ぜる。
「でも、それ以上はしたことない。だからコンミスちゃんが初めてやっさ」
「じゃ、じゃあ……今度、雨が降って外練習お休みになったら……」
天気をあてにした曖昧な約束にしたのは、今の南との穏やかな時間を失うのが怖かったから。季節は夏だ。このところ晴れつづきで、野外練習の予定は山積み。スケジュールもいっぱいだ。遠回しなノーに聞こえてしまっただろうかと懸念しつつ、でも、自分が嫌がっているわけではないことを伝えたくて、朝日奈は南の指を握った。すこし目を見開いた南は、約束なぁととびきりの笑顔で朝日奈と指切りをした。
☆ ☆ ☆
翌日。まさかの大雨で、野外コンサートはあっさり中止になった。
(昨日の今日で…うそでしょ?!まだ心の準備ができてない…!!)
とにもかくも約束は約束だ。そして、もちろん全く別に嫌なわけではない。むしろ早く足を踏み出したい。あの南に性的な経験があったなんて、と考えると妙な痛みが胸を占め、朝日奈はよくわからない意気込みを膨らませていた。
とはいえ南の部屋をおとずれた朝日奈はガッチガチに緊張した状態で、両手と両脚を同時に動かし、失礼します!と妙に角ばった声をあげてベッドの端にすわった。南は最初面喰っていたが、やがてふんわりと彼らしい、あたたかな笑みをうかべた。あえて朝日奈の隣に腰かけず、たったまま、
「よーしよし。緊張しとるねぇ」
と朝日奈の頭を撫でる。いつもと変わらない、穏やかな声に朝日奈はなぜか涙が出そうになった。機敏に朝日奈の様子を察知し、はわわ、コンミスちゃんと焦ったようにベッドの隣に並んで腰かけた。
「ち、ちがうんです! 南さんがいつもと同じ南さんで、ホッとしただけ…」
かるく目を見開き、南はふわっと笑みを浮かべた。それは朝日奈がよく知っている南の笑みとは同じようで違った。そっくりなのに匂いたつような色香が、夜道を歩いているとどこからともなく香ってくる甘美な花の気配のように漂ってくる。
「だいじょうぶ、なーんも怖いことはせんよ。ただ、仲良くするだけ」
そっと南が朝日奈の顎を撫ぜる。ゆっくりと、鎖骨のほうに降りていく指に、ゾクゾクと感じたことのない熱が体の奥から駆けあがる。南は見透かしたように、でも変わらぬ優しい目のままで、朝日奈の首に、ふたたび下から上に指を滑らせていく。そのまま、深いキスはまだ数度しか経験したことのない唇を、指の腹でねっとりと撫ぜる。
「気持ちのいいことを、一気に知りすぎたら、それはそれでマブイが濁ってしまうからなぁ」
朝日奈の唇を開かせると、南はぺろと口の端を舐めた。未経験の感覚に、びくと朝日奈の肩が震える。なだめるように笑いながら、一度、南は唇を塞いだ。舌はまだ奥まで官能を追いすぎず、ちゅ、ちゅと音を立てながら、何度も軽く絡まっては離れていく。短い焦らすようなキスは、かえって興奮をあおり、朝日奈がつい南の袖にしがみつくと、南は右腕を朝日奈の背にまわした。息をのむ朝日奈をみて、南は破顔した。
「ふふ~、ほっぺがピンク色になってる。アカバナーが咲いたみたいやなぁ~」
ぷにぷにと頬を突っつかれて、朝日奈は「ええっ」と声を上げた。だが南は飽きることなくふよふよと朝日奈の頬を弄びつづける。
「もう…! いつまでプニプニしてるんですか!」
「ふふふ、ふたりっきりだもん。いいでしょう?」
「かわいいほっぺやねぇ。きっとここもかわいいんだろうね〜」
「んっ…」
むにっと胸を掴まれ、朝日奈は目を丸くした。大胆な手つきに驚いたが、南に遠慮の気配はない。自分の身体に触れるような迷いのない動きで、朝日奈の乳房をまるでマッサージするように揉みしだく。
「やーらかいねぇ、ほっぺよりずーっと…」
低くかすれた、夢見るような声音に、ぞくぞくと熱が下肢から駆け上がってくる。
「なぁコンミスちゃん、脱ぐとこ見せてくれる?」
にっこりと幸せそうに微笑みかけられて、朝日奈はもじもじと頷いた。まるで美味しいお菓子をお裾分けされたときのような、満ち足りて無邪気な笑顔で、自分の裸を見たいとねだる南に、朝日奈もどうしようもなく興奮していた。おずおずと衣服をからげていく。
「ふふ、ありがとなぁ。ボクが脱がせてあげてもいいんだけど、コンミスちゃんが自分から脱いでくれると、あぁ本当にコンミスちゃん、ボクとこういうことしたいんだ〜てホッコリしちゃうんさ」
南はにこにこと話しかけながら、恥じらいつつ衣服を取り去る朝日奈の腕や膝をそっと撫でてくれていて、いつの間にか朝日奈の胸にあった、おかしな焦りや意気込みは消えていた。南は自分とこうして特別に親密な時間を持てることを、心底喜んでくれていることが痛いほど伝わり、面映かった。
上半身だけ裸になって、朝日奈はいったん手を止めた。南はもちろんそれを咎めもせず、はぁとため息をもらす。
「綺麗やねぇ」
しみじみみられて、朝日奈は思わず胸を両手で隠した。南は心得たように、
「待ってて。ボクも脱ぐからな」
ガバッとシャツをとったので、朝日奈はさらに慌てた。あっという間に、南の胸板が露わになる。想像していたより、ずっと筋肉のついた体つきは、古武道をしている南のかろやかな身のこなしを思い出させた。
「ん? どうしたんさ?」
じっと固まっている朝日奈に、南は首を傾げた。
「お、男の子だなぁって…」
「もう。言ったでしょ~、ボクだって男の子だって」
「だ、だって…」
「む〜……えいっ!!」
飛びつくように南が朝日奈の上体を押し倒す。突然の大胆な行動に、朝日奈は驚嘆した。だが、次の瞬間、南はーー
「ひゃ、ふ、ふふ、あはは…! ちょ、南さん、くすぐらないで…! あははは…!」
ひとしきり朝日奈をくすぐると、南はごろーんと口にしながら、朝日奈の真横に転がった。え、と朝日奈が驚いた顔を隠せずにいると、南はやわらかく微笑んだ。
「今日はここまでにしよ? こういうことは、ちょっとずつでいいんさ。毒もすこしずつ摂れば、体が慣れて効かなくなるって聞いたことない?」
当惑する朝日奈の髪を、頬を、まるで小さい子どもにするように、優しく南が撫ぜていく。
「ボクはボクのまま、コンミスちゃんと仲良くしたいんさ。…意味わかるかなぁ?」
「…わかる気がします」
信頼しきった目で、南が頷く。
「でもよかったら今日は、朝まで二人で、ここで寝てってほしいんだけど…どうかなぁ」
すこし不安げにそう尋ねた南の、抱えてきた寂しさの片鱗を垣間見て、朝日奈は安心させるように笑った。
「私もそうさせてほしいなって思ってました!」
シーツに潜りこみ、ならんで天井を見上げていると、まだ雨音が続いているのに、まるで満点の星空が見えるようだった。沖縄で南と出逢った地で見上げた星空。朝日奈が夢見る、無数の星たちが輝き、ひとつの総体として輝く、圧倒的な美しさが満ちた世界。
「ゆーっくり仲良くしてこうな、…唯ちゃん」
穏やかで確かな声音に、きっと南も同じ景色を思い出していることを確信した。
「はい。…乙音さん」
その夜、初めてふたりは互いを名前で呼んだが、それすらもとても自然なことで、特に顔を見合わせすらせず、手を繋いだ姿勢のまま静かな眠りに誘われていった。