🩵と🩷/ 『じゃあな』 気が付けば、9月も中旬に差し掛かろうとしていた。涼しい風が吹いては、夏の匂いをどこかへ運んでいく。
――つまんね。
猿川慧は小さく息を吐き出して、帰路を歩んでいた。真っ暗な夜道に、頼りない街灯が等間隔に浮かんでいる。時たまチカチカと点滅し、まるでホラー映画の冒頭かのような光景に、思わず背筋が伸びる。
「早く帰ろ……」
呟いては消えていく言葉に、またひとつ息を吐き出した。
喧嘩帰り。見ず知らずの気に食わない人間を殴った拳は擦れて赤く染まり、殴られた頬には軽い痛みが走っていた。つい数分前まで喧騒の中にいた身体は、興奮冷めやまぬ。熱い身体に吹き付ける風は、心地が良い。
時刻は、深夜。
あともう少しで日付も超えようとしているような時。
誰も居ない、何もない暗い道をゆっくりと歩いていく。静かで、揺れる木々のざわめきだけが空間を支配している。帰った先にある家では、今日は何人の住人が起きているだろうか。
大抵このくらいの時間であれば、リビングの電気は消えている。何故なら。秩序の権化でもある草薙理解が二十一時を過ぎるころには、「寝ましょう、秩序が乱れる」と当たり前のような顔をして唱えるのだ。それに抵抗するのも面倒になった面々は大人しく部屋に戻っていくし、それでも残る面子もなんだかんだ日付が変わる前には自室へと帰っていく。
七人で暮らす共同生活は、思っているよりも騒がしい。賑やかで、明るくて、尽きることのない笑顔。
だからこそ。こうして深夜に帰る時は、無性に寂しくなる。
道端に転がっていた小石を蹴っ飛ばして、機械のように動かしていた腕をポケットに突っ込んだ。
――あと、十分。
やっと落ち着いてきた身体は、突然と冷静になって帰宅までの時間を考える。家に帰ったら晩飯あるかな、とか。家に帰ったら何をしようかな、とか。
「……猿川さん?」
――は。
「わぁ!!!!」
前を見ながら歩いていれば突然と後ろから話しかけられて、猿川は夜道には似合わない大声を上げる。瞬間的に振り返って、思わず握り締めた拳を振りかぶろうとして、辞める。
そこに居たのは、目を見開いて立ちつくしている湊大瀬だった。
「……、お前かよ」
「は、はい。ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんです」
「ん」
――何かと、思った。
落ち着いていたはずの心臓は、早い鼓動を繰り返している。それを落ち着かせるように息を吐き出しては、吸い込む。そして、落ち込んだような顔をする大瀬に声をかけた。
「何してたんだよ、こんな時間まで」
「え」
ついでと言わんばかりに顔を覗き込まれた大瀬は、短く声を漏らす。夜道に、成人男性が二人。視線を泳がすだけで何ひとつ話さず動きもしない大瀬と、それに対して何のアクションも取らない猿川。
――また、変なことでも考えてんのかな。
手に持ったビニール袋から覗かせているのは、恐らく先日発売のちょっとお高いカップラーメンだった。小さな袋から、割り箸が頭を出している。適当に入れられているものだから落ちそうで、危ういそれを大瀬は揺らしてひとつ。
「あの、猿川さん」
「ん」
「海に、行きませんか」
「へ?」
静寂を破った言葉に、またもや素っ頓狂な声を上げたのは猿川だった。
――え、海っていったか、コイツ。
こちらを真っ直ぐ見る黄金色の双眸は、冗談を言っているようには見えない。真剣な顔付きで、少しだけ身体を乗り出す形になってまで、訴えかけてくる。
「……この季節に?」
「はい」
「……今から?」
「はい」
半袖では、ほんの少し肌寒さを感じる気温。もう1枚くらい薄い服を着ようかなと、思うような今日この頃。
静かに頷く彼に、何故か、断ることは出来なかった。
○×
――本当に来ちまった。
昨今流行りの24/7レンタサイクルで自転車を2台借りて、ゆっくりと走ること1時間。間に交わした会話は、「こっちで合ってんのかよ」、と「両手離して運転できるか?」、の2つだけ。
街中よりも少ない街灯が照らす浜辺に、服が汚れることも気にせずに座る大瀬と猿川。薄闇の中遠くに見えるテトラポッドに、打ち付ける波音だけが酷くうるさく響いていた。
寄せては、返す。
濡れた砂浜へ当たり前のように波がやってきて、上辺だけ掬って帰っていく。
ザァザァ、ゴゥゴゥ。
車も通らない、人も居ない。だからこそ聞こえる様々な波音は、うるさい様で心地よい。
「吸い込まれそう……」
――吸い込まれそう、な。
昼間では深い青色に染まった海も、この時間では真っ黒。ぽっかりと大きな穴が空いていて、少しずつ近づいてくる波はまるで。底なし沼に引き摺り込もうとするような化け物のようだった。吸い込まれると言うよりは、連れていかれる、が正しいか。
「だな」
間を開けて、猿川は頷く。
少しでも動けば腕がふれあいそうな程近くに座っていた大瀬は、視線だけを動かして猿川を見た。そして息をひとつ吐いてまた呟く。
「行きませんか、2人で」
「……、は?」
「吸い込まれて、みませんか」
それは日常会話というには重くて、それでも当たり前かのように話す大瀬。思わず横を向けば、口角がほんの少しだけ上がっていて、悪いことを考えた子どものような悪戯な笑顔があった。1歩でも間違えてしまえば危うさを感じる、そんな表情。
「馬鹿言うなよ」
息をのんで、ひとつ。
吐き出すと共に、からからと笑い続ける大瀬を肘で小突いた。そうすれば、彼は抱え込んでいた膝に顔を埋める。
――なんだよ、その顔。
その横顔はあまりにも寂しそうで、どこか悲しそうで。つい一秒までの笑顔は何処へやら。
「なんか、嫌なことでもあったんか」
問う猿川に、大瀬は大きく首を振る。
黒い腕は、もう2人の目の前まで来ていた。
「大瀬」
「……はい」
「お前、明日も時間あんの」
「え」
間。
「美味いもんでも食いに行くか」
夏終わりを告げる涼しい風が吹いて、幼さを残す2人の頬を撫でていく。
「良いんですか」
本日2度目。大瀬は目を見開いて、驚いた顔をする。目は未だ寂しさを抱えているくせに、膝の合間から見える口元はぐにゃりと歪んでいた。
――変な顔。
素直に、嬉しそうにすればいいのに。
思った事は心に秘めて、あべこべを顔だけで体現する彼の髪に触れる。猫を相手するかのように優しく撫でて、捏ねて、「わぁ~」と雑な反応をする大瀬に、思わず笑みがこぼれた。
「くく、はは、なぁ、大瀬」
間が空いて。
「家、帰んぞ」
その言葉を合図に猿川が先に立ち上がり、大瀬も続く。服についた砂を払い落として。存外のんびりとした動きの大瀬に背中を向ける。
そして、触れる直前まで来ていた指先に、小さく手を振った。