きらきらのスープ ナラア街で胃腸風邪が流行していた。街に二つある医療施設は連日患者が絶えず、重症者のベッドが空くことはない。それに伴い医療施設併設の薬局以外でも、診断魔術を使える者がいれば薬を処方をできることになった。街の薬屋でそんな能力があるのは、レイヴンの伴侶のアディしかいない。彼は不眠不休で薬を精製し、客を診断し、適切な薬を与えて回った。こうしてようやく終息……の目処が立ったところでついに力尽き、厄介な胃腸風邪に罹患したのである。
アディはここ三日ほど食事を摂れず、店舗に常備していた、塩と砂糖を混ぜた水だけを飲んでいる。レイヴンもこっそりその水を味見をしてみたけれど、本当にヒトが飲んで平気なのか疑わしい、奇妙な風味だった。
せめて少しでも美味しいものを食べさせたい……!
食料庫を確認すると、見知った野菜と今ひとつピンと来ない野菜が置かれている。レイヴンは長年の寮暮らしで、料理を勉強し始めたのはアディと同居してからだ。基本のものから少しずつ教えて貰ってはいるものの、こういう状況で出せる品の心当たりがない。それでも頑張って野菜を手に取ってみたりなどしていると、ごろりと鈍く転がるものがある。
「とうもろこし……」
皮つきの立派なとうもろこしを一本、両手で抱えて息を吸い込む。わさわさのヒゲの肌を撫でる感触、青くも香ばしいかおり。記憶の奥底の蓋がズレるのを感じた。
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朝起きて、おとうさんが酒瓶を抱えて寝ているのを確認する。いびきにまぎれるような密やかな呼吸は、癖となって久しい。
布団代わりのペラペラの薄布を畳み置き、部屋の隅の雑多な物置に立てかけてある板を取り外した。成人男性ではとても通り抜けられないような穴も、痩せっぽっちの子供なら難なく通り抜けられる。おとうさんが使う表通りに面した扉から、嫌な雰囲気が漂うようになったのは最近のことだった。
レイヴンは幼いながらにそういう勘を大切にしており、それらを「モヤモヤの神様」と呼んでいる。神様に従わないと転んで怪我をしそうになったり、知らない人に間違われて手を引かれたりするのだった。そういうときは神様にごめんなさいをすると目の前がチカチカして、その後に起きた少しの記憶と引き換えに、怖いことの原因はいなくなってくれる。
起きてるおとうさんに会わない方がいい気がしているのも、神様のお告げだ。だからレイヴンは早起きをして空腹を井戸の水で誤魔化すと、ここいらの大抵の子供と同じようにお小遣い稼ぎに励む。
「おつかい引き受けます!」
「子守りできまあすッ」
「おちゅかい、いりませんかー」
昼間なのに薄暗い路地を、声を上げながら歩く子供たちに混ざった。お金持ちのおうちの近くを歩くのはまだ早いと大きいお兄さんやお姉さんには止められているので、レイヴンはまだ立派な塀も空ほど高い建物も見たことがない。
歩いている内に仕事ができる子からどんどん引き抜かれて行き、気づけばひとり、一際暗い一角に取り残されていた。
……普段気にしてくれるお兄さん、そういえばお金持ちのおうちの方に行くって昨日言ってたなあ。
「お、おちゅかい、おるしゅばん、いりませんかぁ……」
一人きりだとどこにも届かないような声に反応した足音が角向こうから聞こえる。底の硬い靴の音がいくつか。それをレイヴンの神様は「怖いぞ」と警報を鳴らした。
「ひゅ……」
怖い、が来る。
ぎゅっと目を瞑りかけたレイヴンは、急に後ろに引っ張られた。それから扉の閉まる軋んだ音。一枚隔てた向こう側で、何か話し合う大人の声。
こわごわ振り返ると、子供をおぶった女の人が立っていた。肩で息をしている。
「……あのぉ…………?」
「シッ」
女性はレイヴンを押し退け、しばらく外の音を窺っていた。レイヴンの耳にも気配が遠のいた頃、ようやく力を抜いて向き合う。簡素な造りの小屋はレイヴンの家とさほど変わらないけれど、置いてある布が分厚かったり、食べ物の蓄えがあるところが違う。女性も赤子も、この辺りに住む人に比べたら幾分血色が良かった。長い髪をわしわしとかきあげ、それから長いため息を吐き、レイヴンの細い腕をとる。
「お手伝いの子、でしょ。手伝ってくれたら、パン一切れとスープを飲ませてあげる」
「あ、あいっ。おひきうけしましゅ」
そこからはお仕事だ。
とうもろこしを一本とナイフを渡された。
女の人は口調は厳しいし、失敗すると鬱陶しそうにする。だからレイヴンは縮こまりながら、言われたことをなるべく間違わないようにこなした。その最中に赤子がぐずれば、女の人はますます髪をくちゃくちゃにする。ようやく全ての粒を剥がし終えると、とうもろこしも芯も皮も丸ごとひったくられた。入れ替えに赤子を持たされる。立って支える力はないので床に座り込み、見よう見まねであやすように揺らしたり、背中を撫でたりしてあげた。
見上げたかまどの上では、鍋で何か煮込んでいるようだ。とうもろこしの芯や皮がはみ出している。湯気がたくさんになったところで、鍋を熱の弱い端に移した。それから別の鍋に小さいモノをカラリと落とし、油入れを傾けている。微かに漂ったのは、遠い記憶にあるバターのにおいだろう。そんな上等なものはレイヴンのおうちにはないけれど、どうしてだか正体を知っている。きっと神様が何かをした。
眠った赤子の重みを確かめながら、女の人がスープを作る手際を眺めた。「しお、ケチるか……いや」などとぶつぶつ呟きながら、白い粉を入れている。ジュウウと小気味よく油が弾ける音。料理の熱とにおいは、相変わらずレイヴンの記憶の底をつつく。
かまどの火で女の人が何かを炙っている。それから仏頂面で振り向き「子供そこ寝かせといていいから、食器出して」と顎で箱を示された。中を開けると木の深皿が二枚だけ入っていたので、それと匙を取り出して渡す。
供されたとうもろこしのスープと薄いパンに、久しぶりにレイヴンの腹が温かくなる。カチカチのパンか水、あとは木の実くらいしか口にしていなかった体にはご馳走だ。この家は裕福ではないものの、薪もあるし窓に布もかかっている。それを少しだけ羨ましく感じた。後片付けをしたところで家に帰ろうとすると「あのさ」とぶっきらぼうな声がかかった。
「今から外に出る。あんたも布に隠れて一緒に来な。子供の集団が見えたら背中を押してやるから、振り向かずに真っ直ぐ走るんだ」
その行動の意味は分からないままに頷いて、行きあったお兄さんたちの集団に紛れておうちに帰った。
レイヴンは夜、おとうさんが帰ってくるときが一番そわそわする。お酒を飲んでるおとうさんは暴れたり大きな声を出すところが苦手だけれど、その内寝てしまうからいい。お酒を飲まないおとうさんは、とても悲しそうに引き絞った声でおかあさんの名を呼ぶ。目の奥がぐらぐらしてる最中に視線を合わせると、レイヴンに向かって大きな声を出すのだった。おとうさんがどうして怒っているのか分からず、神様にお願いをする。そうするといつの間にか朝が来ていて、おとうさんには痣が浮かんでいる。その青い内出血を目にすると、理由は分からないけれど胸の中央がぎゅっと痛くなるので、できれば神様におとうさんのことをお願いするのはやめたかった。
今日のおとうさんは……お酒を飲まないおとうさんだ。でもいつもと違って、何だかニコニコ? ふわふわ? している。
「レイヴン……今夜はお客さんが来るんだ。もうすぐ、この家にいらっしゃる」
皮膚の内側がざわざわする。
おとうさんがレイヴンに腕を伸ばした。
「体を拭かないといけないよ。お前がもてなすんだから」
白。
小さな小屋の中に色が走り、おとうさんは倒れた。神様には祈らなかったのに。
レイヴンがつんつんしても起きない。もうすぐ来るというお客さんに助けを求めようかと表通りの扉に近づこうとして、弾かれた。神様の力がうねり、家の片隅の穴にレイヴンを転がす。そうしてレイヴンは闇の中、追い立てられるようにして駆けた。行く宛てはなく、ただ漠然と森の方へ。森には薬草があるという。お薬屋さんに調合してもらえば、おとうさんも起きるかもしれない。体が勝手に走るのを、レイヴンの頭はそうして無理やり理由をつけた。そうでもしないと、何だか溢れてはいけないものに飲み込まれそうだった。土を蹴る。子供の歩幅で大した距離は走れない。もつれそうな足は止まってくれない。おとうさんを治さないと、お客さんをお出迎えしないと、帰ってから体を拭かないと。やらなきゃいけないことでパンクしそうになり、肺と心が潰れそうになった瞬間――
壁にぶつかった。布の感触、かたいのに柔らかい、レイヴンがぶつかったくらいではビクともしない壁。
「この子だ!」
壁は壁のように大きな人だった。男の人の声だ。とうしてだか、路地の足音とも、表通りから現れる客人の気配とも……おとうさんとも違う、委ねていい人だと感じた。神様がそう言ったのかもしれない。
ヒューヒュー、ゼーゼーと全身で呼吸をするレイヴンに、壁の人は水筒を傾けてくれた。甘くて酸っぱくて、涙が出そう。
「……れ、……か?」
「ん? 無理して話さなくていいぞ?」
喉はひりついてしまい、確かにお話しどころではない。それでも、どうしても訊きたかった。
「ひぅ……ふぅ……あの、こののみもの、なんでしゅか」
「……ああ、これはね、オレンジジュースだよ。全部君のだ。もっと飲んで落ち着いたら、おじさんと少しお話ししようか」
レイヴンはオレンジジュースを飲んで、おうちにおとうさんが倒れていることと、お客さんが来ること、体を拭かなければならないことを伝えた。
「おうち、かえりましゅ」
「おじさんが何とかするから、君は少し眠りなさい」
「でも……」
「大丈夫だよ」
優しく額の髪を梳かれて、レイヴンのまぶたは落ちた。目が覚めると知らないベッド。オレンジジュースを飲みながらいくつか説明を受けた。レイヴンを助けた人はナラア街の衛兵だったこと。おとうさんとお客さんは、別の街に用事が出来たこと。そしてレイヴンは、この街で衛兵になるためにお勉強をすること。
神様はすっかり休んでるみたいで、レイヴンが全部決めなければならなかった。
衛兵さんに、働いたらオレンジジュースが飲めるか訊ねたら、毎朝配られると教えてもらったので。
その日からレイヴンは、ナラア街の住人になったのだった。
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よく洗ったとうもろこしの皮をバリバリ剥がす。植物の内側のこもったにおいは、庭仕事の土に似ている。記憶の中、ナイフひとつで実をこそげた。潰すと怒られるので小さな手を添えたのに、力がなくて何度も倒してしまった。レイヴンは作業こそ丁寧だが、あまりテキパキとは動けない。お手伝いの声がけも、そのせいで数が減っていた。生きるだけで精一杯の人々の時間の流れにレイヴンの居場所はなかった。
ナラア街の衛兵たちは、見習いとして配属されたレイヴンの行動をじっくり見守ってくれた。一日にひとつの仕事しかこなせなくても、間違いのなさを褒めてくれたし、「内緒だぞ」と早くこなせる裏技を教えてくれた人もいる。体が大きな衛兵も小さな衛兵も、それぞれレイヴン個人のできることやこなせることを大切にしてくれる。あかぎれ混じりの小さな手が、力は弱いけれども器用に動かせるのを、レイヴン以上に喜んでくれるのだった。
幼い頃あんなに苦労した粒剥がしも、大人の手ではさほど苦にもならず、底の浅い皿に、連なった実が山となる。残った芯を三等分に切り分けようとしたものの、そのごりっとした固さが予想以上で、結局二等分するに留めた。捨てずに取っておいた、くるんと丸まる皮とふさふさとしたヒゲの白い部分と共に鍋に収め、水を注ぎ入れ火にかける。アディがこだわったコンロは、生活魔法がせいぜいのレイヴンでも火の調節が容易い。ふつふつと鍋肌の際が沸騰してきたら、ちょろちょろした勢いに弱め、蓋をする。
もうひとつのコンロにフライパンを置く。料理に強火はほとんど使わないからね、と懇切丁寧に言い聞かせてくれたアディの言葉を守り、底面の半分くらいの大きさに火力を調整する。女性はわずかなバターの欠片に油を足していたけれど、今はせっかく美味しいナラア街産のバターが家にあるので、スプーン一杯分を熱々のそこに滑らせた。じうじう、しぴぴ。レイヴンのキャラメル色の髪がバター味になりそうなかおり。とうもろこしの粒と塩を放り込み、実が黄色くツヤツヤになるまでよく炒めた。焦げそうになって慌てて火力を、隣のコンロに合わせる。熱が入るほどに、フライパンの中が懐かしさに彩られていく。
鍋の方の蓋を開けば、とうもろこしを凝縮したような芳香が立ち上る。女性の手順とは変わるけれど、以前アディがスープブイヨンを作っていたときを思い出して、目の細かい清潔な布で濾してみた。うっすら金色めいたスープが、レイヴンの記憶に上書きされていく。きらきらのスープは、アディのためのモノ。
スープをお玉でひとすくいフライパンに入れてから、うまみをヘラでこそげるように粒ごとスープ鍋に移す。火をつけ直し、塩とバターを追加してみた。ぷかりと浮いたバターの膜がふつふつ沸騰した勢いで踊りだす。ひとさじ味見に舐めてみると、昔住んでいた街で教わった味なのに、どうしてかナラア街に来てからの思い出のような、優しい風味が口の中にひろがった。
この素朴なとうもろこしのスープを、寝起きのアディは飲んでくれるだろうか。あの美味しくない水に眉を顰めるようだったら口直し代わりに「実はね……」と差し出してみるのがいいかもしれない。胸の内の想像だけでそわそわしてしまったレイヴンは、アディの眠る寝室を覗いてみることにした。ゆっくり眠っていてほしい気持ちと、起きて栄養を摂ってほしい気持ちが半分ずつ。結果は扉の向こう。
おわり