再会 ヴァルモア将軍が謀反を起こした。
コルニアへ出稼ぎに向かったはずの漁師が大慌てでパレヴィア島に戻り、元コルニア騎士で現在はパレヴィア島で神父を務めている男の元へと、息を切らしながらやってきて、そう告げた。
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ここ最近は何日も大雨が続いている。まるで、暗雲立ち込む時代の到来を示唆するかのように。島民が寝静まった真夜中、中々寝付けずに自身の家で椅子に腰掛け、横殴りの雨を窓から眺めている神父は、己の暗い妄想を断ち切ろうと、一つ首を振った。
普通に考えれば、無謀にも程がある話なのだ。コルニアは大陸随一の豊かな領土の元、強力な軍を抱えた王国である。幾らヴァルモアが優れた将軍であったとしても、女王イレニアの首を拝む前に、忠誠を誓う貴族らにやられるのが関の山の、結果など分かりきった戦だ。
(そう、そこが不自然すぎる)
ヴァルモアは馬鹿ではない。寧ろ頭の切れる部類であると、コルニアに仕えていた時代に、何度か会話を交わした神父は感じていた。例え幾ら個人的な恨みがあろうと、私情のために自身が砕け散ろうとも構わないと考える性格でもなかった。だからこそ裏があると、ヴァルモアがこの謀反が成功すると信じて疑わないような何が隠されて──
ドンドン、と乱雑なノックが玄関の扉から響き、神父はハッとして顔を上げ、思考を中断した。
聴き覚えのある音だった。そのノックの仕方煩いからやめろと文句を言ったら、お前ぼうっとしてるからこうでもしないと気付かないだろ、と随分馬鹿にされた答えが返ってきて殴り合いの喧嘩をしたのも、今となっては懐かしい思い出だ。
首筋に嫌な汗が流れる。どうか聴き間違いで、気の所為であってくれと願いながら、神父は玄関の取っ手に手を掛け、ゆっくりと捻った。
開いた扉の隙間から、びゅうびゅうと雨風が吹き込み、神父の髪を濡らす。
そして今、一番此処にいないでくれと祈った男が、立っていた。
「…………ジョセフ」
目の前にいる男の名を呆然と呟き、全身から力が抜け落ちて崩れそうになったが、すんでのところで堪えた。
焦茶色の雨除けに身を包んだ男は、よく見ると腕に何かを抱えていた。それが高貴な服装をした幼い子供であり、イレニアの父──先代の王によく似た風貌の少年であることに気付いた神父は、ジョセフに一歩近づき、その少年へ優しく話しかけた。
「……アレイン殿下、お久しぶりで御座います。といっても最後にお会いしたのは、殿下がまだ赤ん坊の頃でしたので、覚えておられないかも知れませぬが。私は元コルニアの騎士で、現在はこの島で神父を務めております。ジョセフの昔馴染みとご説明した方が、分かりやすいでしょうか」
自己紹介をすれば、少年は困ったようにジョセフへ顔を向けた。それを受けて、聖騎士は一つ頷いた。
「この者が話していることは全て事実です。私が保証いたします」
少年がこちらに向き直り、聖騎士の袖を掴む力を強め、彼の腕の中から小さく会釈をした。神父はこの子の不安を少しでも和らげようと、なるべく穏やかな笑みを浮かべようと努めた。
「ようこそ、パレヴィア島へ。ここまでの長旅で随分お疲れでしょう。どうぞお入りください」
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二人を中に迎え入れ、タオルを渡して雨に濡れた髪や顔を拭かせ、神父の普段着を貸した。子供のアレインに大人の服が合うはずもなく、トップスだけでも膝下まで隠れて、ズボンは履ける大きさの物がなかったが、びしょ濡れのまま寝るよりはましだろう。ただこのまま過ごさせる訳にはいかないので、明日の朝に島の島民達の元へ行き、男児の服を買い取らせてもらおうと神父は心に決めた。
ジョセフの方は特に問題もなく……ということにしたかったのだが、こちらもサイズが合ってない。神父の服が彼の体にはきつい、という意味で。神父としてはまあまあの衝撃と屈辱だった。神父としての務めで忙しくしていたのもあり、騎士時代ほどの鍛錬をしていなかったとはいえ、以前肩を並べ戦っていた友と明確に筋力の差ができてしまったのが悔しかった。
破いたらすまん、と告げられた時には嫌味かよと反論しかけたが、本当に申し訳なさそうな顔を見て、どうやら心の底からそう思っているのだと悟ってしまい、振り上げた言葉の拳をどこに置いたらいいのか分からないまま、気にしなくていいとだけ返した。
「ほら、お前も寒い中お疲れ様」
「いや、こちらこそ助かった。……厄介ごとだと分かっているだろうに、匿ってくれて」
「例えどんな道を選ぼうと、全てを捨ててでも助けるさ。親友だろ?」
「そうか…そうだな」
主君を寝かしつけ、階段から降りてきて椅子に腰掛けた友に、神父は両手に持った紅茶の入ったマグカップの片方を渡し、向かい合わせの椅子に座り直して、紅茶に口をつけた。
いつ追手が襲ってくるか分からない状況の上、馬や船など慣れない手段で移動してきたアレインは、安心できる場所に着いて緊張の糸が切れたのか、着替え終わった途端にうとうとと舟を漕いでいた。そこで二階にある神父の寝室に連れていくようジョセフに頼んだのだった。
ジョセフは何か考え事をしているようで、紅茶を飲みながらも長い間無言だったが、暫くして重たい口を開いた。
「……あの場で詮索せずにいてくれたこと、感謝する」
「…当たり前だろ。幼い子供の前でわざわざ傷口をえぐるような真似など、できるものか」
コルニアで何が起きたのか今すぐに聞きたい気持ちは当然あった。しかし元主君の子供が、いや、例えそうでなくとも、齢十にも満たない子供のあんなに辛そうな顔を見たら、一人の大人としてまずはこの子が安心できる場を作ろうと、それしか考えられなかった。
「お前らしいな。…ならば、殿下も床に就かれたことだし、本題に入ろう」
机にマグカップを置き、ジョセフは椅子に座り直した。神父も同じくマグカップを置くと、背筋を伸ばして友に向き合った。
「…………コルニア内のほとんどの領主がヴァルモアに与し、グランコリヌ城は、陥落した」
薄々分かってはいた。聖騎士であり、コルニアの騎士団長である男が女王の子を連れてここに来た意味など、一つしかないと。それでもどこかで、何かの間違いではないかと思っていたが、根拠のない淡い期待は粉々になって崩れ落ちた。
「…イレニア様は、どうされたんだ」
「……殿下を私に託し、ご自身は囮になると仰られ、ヴァルモアと…」
「……そう、か」
気高くて強く、それでいて暖かい優しさを持ち合わせている方だった。アルビオン出身の上、平民である自分がコルニアに仕えていることに疑問を呈する貴族を女王は一喝し、これまで積み重ねてきた功績を正当に評価してくださった。彼女の聡明さでコルニアはより栄えるだろうと、騎士を辞した後も心待ちにしていた。その明るい未来が突然閉ざされたことを嘆く気持ちも、勿論ある。
しかしそれよりも、幼い頃に親を亡くし王として進まざるを得なかった彼女が、こんな結末を迎えたことが、ジェラール王の時代から仕えていた者として、何よりも悲しかった。
「そういうことなら、暫くは…いや、お前たちの気が済むまでこの島にいて構わない」
「こちらとしては有り難い限りだが、お前一人で決められることなのか?……国を追われた王族と騎士を匿うとなると、周囲への負担も…」
「反対する者がいたら、納得してくれるまで説得し続ける。とにかく必ず俺がなんとかするから、気にしないでいい」
「…助かる。この恩は忘れん」
「いいってそんな。……反乱の際、イレニア様に何もできなかったんだ。コルニアのためにこの程度はやらせてくれよ」
神父という立場を今日この日ほど便利だと思ったことはない。無論、地位を利用するためにこの道を選んだわけではないし、島民の悩みを聞くのも、神父としての務めを果たすのも、やりがいがあるからしてきただけだ。しかし人のために働き続けた甲斐もあって、彼らからの信頼は厚い自負がある。島民を裏切るようで悪いが、この信頼を利用しない手立てはない。
「それから…ジョセフ。俺も騎士のはしくれだったから、今お前が何を思っているのかぐらいは、分かる。それでも、外から状況を眺める者としては、イレニア様のとられた判断は最適だったと、正しいものだったと思っている」
「…………」
「……あまり、思い詰めすぎるなよ」
神父が善意を利用してでもがむしゃらに動こうとしているのは、敬愛していた女王のためでもあるが、どこまでも国のために傷付きながらも、前を見据えて進もうとする友のためでもあった。
「……それは、」
ジョセフは何か言い掛けたが、とたとたと階段をかけ降りる音が聞こえてきて、ハッとして口を閉じ、椅子から立ち上がった。
階段を降りてきたのは眠ったはずのアレインだった。ジョセフを見つけて少し安堵した様子だが、それでもどことなく顔色が悪い。
「…ジョセフ……」
「アレイン殿下、如何されましたか」
ジョセフが膝をつき、主君に視線を合わせる。しかしアレインはまごまごと口を動かすばかりで、何かを言いかけては噤むのを繰り返していた。
「…………殿下?」
「あ…その、すまない。二人で話してたみたいだけど、邪魔をしたか?」
「いえ、そのようなことは決して。殿下の方こそ何か話があって来られたのでは?」
「そう、なんだけど……」
話が平行線になる気配を察して、どうしたものかと神父は首を捻ったが、ふと、アレインが自身の服の裾を強く掴んでいることに気付いた。不安な時の癖なのだろうか、出迎えた際にも同じ仕草をしていた。大方、何か悪夢でも見たのだろう。無理もない、幼い身には一人で耐えきれないほどの出来事があったのだから。
……などと、この役職に身を置いてから子供と接する機会が増えた神父は察せるが、若い頃は至る所で喧嘩をしながら酒を呑み明かし、落ち着いてからも家庭をもたず王家一筋であった男に、子供の繊細な心の動きは読み取れないようだった。
「ジョセフ」
「うおっ!?」
彼の腕を引っ張り、アレインから引き離して背を向け、何事だと睨みつけるジョセフに小さく耳打ちをする。
「ジョセフ…お前、殿下のためならどんな恥でもかけるか?」
「急に何を……まぁ、それは当然だが…」
「よし来た」
言質は取ったぞと言わんばかりのにんまりとした笑みを浮かべる神父に、ジョセフは怪しむように眉をしかめたが、神父は肩を抱き寄せぐるりとアレインの方へと体を向け、反論する隙を与えなかった。
「いやぁ助かりましたよアレイン殿下。なにぶんジョセフの奴がベッドでないと寝れないと、それはもう煩くて煩くて」
「は???」
「外ならともかく、家の中では快適な環境でないと駄目だと言ってくるのです。殿下の寝る空間を狭めることになるのは大変心苦しいのですが、どうか共に寝てやってください」
「えっ……ジョセフ、そうなのか?」
ジョセフはとんでもない濡れ衣に反論しようと口を開き掛けたが、『共に寝る』という言葉にアレインが目を輝かせたのを見て、神父が滅茶苦茶な嘘をついた意図を察したようだった。
顔を手で覆い、長いため息をついてから、ジョセフは手を離し主君の顔を見た。
「………………お恥ずかしながら……実は……此奴の話す通りでございまして。…………宜しいでしょうか?」
「も、もちろんっ!」
声音からも嬉しそうなアレインの雰囲気を感じて、神父は心の内で胸を撫で下ろしたが、肝心のアレインの表情も、ジョセフの顔も見ることはせずに、ひたすら天井にあるシミの数を数えていた。
「あっ……でも、お前はそれでいいのか?元々この家に住んでるのに、俺たちに譲って……」
文脈的にこちらに話しかけているのだろう。これはまずい。見ているだけで面白いから、絶対に笑わないよう意識を逸らしていたのに、喋るとなるとかなり厳しい。ただ、コルニアの王子の言葉を無視するわけにはいかないので、努めて冷静な風を装い口を開く。
「……いえ、私のことはお気遣いなく。殿下と…………ジョセフが安心して眠れるのであれば、それで」
「そうか……何から何までありがとう」
「……アレイン殿下。此奴と話したいことがあるので、先に寝室の方へ向かっていただいても宜しいでしょうか。私も後から向かいます」
「うん、分かった!」
とたとたと可愛らしい足音を立て、階段を上がるアレインを見届けてから、ジョセフは神父の脛を蹴った。
「痛ァっっ」
がくりと膝をつく神父を見て、ジョセフは鼻で笑った。
「鍛錬をさぼっているからではないか?」
「いやお前…脛だぞ……親友に脛て……」
「お前のせいで、殿下の前で意味不明な役を演じることになったのだぞ。この程度どうってことないだろう」
流石に少しは申し訳なさも感じているので、神父はそれ以上の言及は避けることにして立ち上がった。
「……ま、そろそろお前も寝た方がいいぞ。今のところ、殿下がなにも疑わずに頼れる相手はお前しかいないんだ。無理をして倒れでもしたら困る」
「……分かった」
ジョセフは素直に従い二階に上がろうと一歩踏み出したが、そうだ、と一言呟き神父の方に向き直った。
「やり方は気に食わんが……、私一人だったらどうするのが正解か分からなかった。礼を言う」
「子供と接するのに正解の方法なんかないさ。ただ、その子のことを心から思いやれているか、それだけだ」
「……そういうものなのか」
「おうよ、神父なめるなよ」
「ふ…、そうだな、お前が言うならそうなのだろう。……また明日」
「ああ、おやすみ。また明日」
ジョセフが階段を上がり、一人になった神父は長椅子の方へと向かい、横になった。
これからやるべきことは山のようにある。島民の説得、ジョセフとアレインがなるべく住み心地の良い空き家探し、いつもと同じ神父としての務め、その他諸々。
(あー、さっき紅茶淹れたマグカップ……は、洗うの明日でいいか)
それでも、もうこの世にはいない女王のため、今を生きる友のため、やがてくる朝日に備えて神父は目を閉じた。