量産品湯呑みの献身 箱に詰められトラックに揺られて気付いたらここに並べられていた。
見たところ観光地の土産屋の一角。幸いにも上の棚に並べられたため店の外が見える。坂道だ。坂のある街に来たらしい。
己が湯呑みであることは知っていた。ただ、どこの窯で焼かれたのかは知らない。そして名のある職人により生み出されたものではないことも何となく分かっていた。いわゆる量産品と呼ばれる類のものだろう。
土産物店での毎日は退屈とは無縁の日々だった。朝から晩まで毎日、知らない言葉が飛び交う。着物を着た人間、揃いの制服を着た人間、大きなキャリーバッグを持った人間、多種多様な人間が入れ替わり立ち替わり訪れることから人気の観光地なのだろうなと思っていた。
どんな人間に買われるのか、近くに並ぶ同じ窯の出身の湯呑み達とその日を待つ。
ついに運命の日がきた。
手に取ってもらった瞬間に、この子だ! と直感した。
少しでも手に馴染むようにぴたりと寄せる。
「殿、それ気に入った?」
「…………」
殿と呼ばれた男子は、なるほど確かに殿と呼ばれるだけの貫禄と気品を兼ね備えている。今まで見てきた制服を着た学生とは一線を画す気迫のようなものすら感じる。
「殿、湯呑み似合う〜」
「自分用?」
「違う」
「お父さんに?」
「いや……友達、というか兄のような親戚のような先輩のような人に」
「え、何それ。どういう関係? めっちゃ気になるんだけど」
「殿、それ何焼き? 有田?」
「有田では無さそうだ。美濃焼かもしれない。京都は関係ない感じか」
「ミノってどこだっけ?」
「岐阜じゃない?」
「じゃ関西括りでいいんじゃない?」
「京都で買ったことに意味があるんだし殿が気に入ったなら買えば?」
「そうだな」
代わる代わる女子に声をかけられても殿は浮ついた様子もなく淡々と返事をする。
一度は棚に戻そうとした殿は女子達の勢いに流されるように、高台に貼られた値札シールを見てくれた。何の変哲もない筒形の湯呑みは学生のお財布にも優しい値段だったのだろう。
レジに運んでもらえる幸せ。ついにこの日が来たのだ。
簡素な箱に詰められ殿の鞄の中で揺られ、どれぐらい経ったのだろう。
急に蓋が開いて明るくなった。
「割れてないよな」
殿だ。
殿がそっと己を箱から取り出してヒビ割れや欠けがないか確認をしてくださっている。
ベッドが2つとテレビと鏡しかない殺風景な部屋はどうやらホテルのようだ。シャワーの音がする。同室の誰かが入っているのだろう。
「隆二さん、気に入ってくれるといいな」
殿、さっき女子達に囲まれていた無愛想で無骨な雰囲気とは随分と違う柔らかなお顔……!
僅かに赤く染まる頬に潤んだ瞳……まるで、これはまるで……。
「勢いで買ったけど、悪くないよな」
もちろんです、後悔はさせません、と声にならない声を上げる。殿に選ばれた湯呑みとしてその隆二なる人物のため身を粉にして尽くす所存であります。
「殿ー、お先しましたー」
ガシガシとタオルで頭を拭きながら出てきたパンツ一枚の男子。先ほどは女子グループと行動を共にされていた様子の殿も、当然のことながら部屋はさすがに男子部屋だ。
「湯呑み買ったんだ、殿。自分用?」
「みんなそう言うよな。お土産だ。父親じゃなくて、知り合いの……世話になってる人」
筋肉質な体型にじょりじょりと手触りの良さそうな少し伸びた坊主頭。この男子は野球部だったのかもしれない。
「あー! もしかしてあの人!? 百人組手で無双した外部コーチ?」
「……なんだそれ」
「殿もいたじゃん、俺も一緒にいた。忘れたのか? 空手部の合宿、少しだけ教えに来てくれた人だろ? 部員全員束になっても敵わなかった」
「あぁ。その人であってる。でも百人組手なんかしたか?」
「殿、まじめか!? 百人組手はしてないけど、それに近い感じだったじゃん!?」
おっと、てっきり縁側でお茶を飲むような穏やかなご隠居を想像していたのに、隆二なる人物はとんだ荒くれ者かもしれない。
「へぇ。いいじゃん、あの人の雰囲気に合ってる」
「本当か」
殿が嬉しそうに顔を上げた。奥ゆかしくはにかんだ控えめな笑顔。まるで深窓の令嬢に微笑まれたような衝撃を受ける。
「お、おぉ」
これには同室の彼もたじろいで、急に羞恥心を覚えたのかそそくさと服を身につけていく。
「殿もシャワー浴びてこいよ。明日も京都観光だろ、同じ班の女子達が何とか寺に紅葉見に行くって」
「そうだな」
殿は鞄からタオルハンカチを取り出してそっと包んでくれた。
例え鞄の中で揺さぶられようとも決して割れますまいと箱に収まる。
次に箱から出た時、またもや見知らぬ部屋にいた。
今度はホテルとは雰囲気が異なる。生活感があるのでおそらく殿の自室だろう。しかし殿ぐらいの年齢の男子であればもう少しこう乱雑というか物があってもいいのでは……。
ソワソワと何やら手の中の板を見ては時間を気にしている。あれは、スマホか。土産物店でもほぼ全ての人間が持ち歩いていた。
「あ」
何やらメッセージが届いたらしく、殿は己を箱に丁寧に戻した。
連れて行かれた先はさほど遠くない。それどころかこれは同じ屋根の下、外へ一歩も出ていない。
ことりと置かれた。殿の声が遠ざかる。次に聞こえてきたのは低い落ち着いた男性の声。これは、旅行中一度も聞いたことのない殿のはしゃいだ声。年相応の面もあることが知れて、殿とはまだ短い付き合いではあるものの安堵した。
ふわりと漂う白檀のかおり。土産物店でも香を取り扱っていたが、これはそれとは少し違いそうだ。
何やら少し重い空気。箱の外では一体何が……。暗い中でそんなことを考えていたら、ぱかっと蓋が開いた。
「修学旅行、どうだった?」
「楽しかったですよ、時期的にも暑すぎず寒すぎず……紅葉はまだ見頃じゃなかったですけど」
殿のしなやかな長い指が箱から出してくださった。
「これ、京都のお土産です。隆二さん、今月お誕生日だからプレゼントもかねて」
「湯呑みか」
殿とは違う、ゴツゴツした大人の男の大きな手に包まれた。
「ちょうどいいサイズだな、それに持ちやすい。飲みやすそうだ」
持ちやすい! 飲みやすそう! 湯呑みとしてこれ以上ないお言葉! 飲みやすそうではなく飲みやすいと言っていただけるよう精進致します。
「よかったら使ってください」
「あぁ、毎日使わせてもらうよ」
こうして己は殿の手を離れ、この隆二なる主の元へ辿り着いた。
この主、名を佐竹隆二という。陸上自衛隊に所属していることが分かった。というのも、この佐竹隆二という男は殿に約束した通り、本当に己を毎日使ってくれているのだ。
それこそ、朝起きて寝るまで常に、何を飲むにも己を使ってくれているため家でも職場でも行動を共にしている。朝起きてすぐに飲む白湯に始まり、昼休憩のコーヒー、夕飯時の緑茶、全て己一つで賄っている。
元から調度品こだわりが無い男だったのかと疑ったのも初日のみ。
バイクで揺られて連れて来られた主の自宅に着くやいなや、わざわざおろしたてのスポンジで丁寧に洗われふかふかのタオルで拭き上げられた。この時はまだ、懸念していた荒くれ者ではなく空手の熟練者であったかと認識を改めただけだった。
どうも様子がおかしいと気付くのに時間はかからなかった。
主はキャンプにも詳しかったらしく、クッション性の高い持ち運び用のカップケースが既に用意されていた。帰宅途中に買ったのか元から家にあったのか知る由もないが、毎朝毎晩このケースで主と共に出勤している。
殿と呼ばれていた元の買い主の名はどうやら勇というらしい。
この主、職場では隙のない完璧な仕事ぶりだが一人になると饒舌になる。特に、殿のことになると。
「勇は今頃何をしているかな」
専用のスポンジで丁寧に洗われながら今夜も主のひとりごとに付き合う。
「忙しく過ごしていると返事があったな」
主と殿は頻繁にメッセージのやり取りをしている。プライベート用のスマホを見ている主の目はとても優しい。殿のことが愛おしくてたまらないのだと湯呑みから見ても分かるほどだ。
「体育祭……は5月だったか。そうだった、リレー選手に選ばれてた。あいつ、走るの早くなったな。部活は……引退しているし、あぁ文化祭か」
主と殿は一体いつからの知り合いなのであろうか。
ふかふかのタオルで包んで水滴を拭き取ってくれる。誤って手が当たって落ちることがないようにテーブルの真ん中へそっと置かれた。
「勇の高校生活最後の文化祭か」
つ……と、口縁を指先でなぞられる。主は己を通して殿に想いを馳せている。
「勇のクラスは何をするんだろうな」
主が多忙な人物であることはよく知っている。それでも殿の文化祭に駆けつけたいのだろう。この口ぶりから推測するに殿の体育祭は観に行ったのであろうな。
「文化祭か……懐かしいな」
主は己を持ち上げてしげしげと見つめてくる。
タイミングよく主のスマホが鳴った。
「は?」
触れた指先に力がこもった。割れるかと焦った。
「執事喫茶……だと……」
チラリと見えたスマホの画面。メガネをかけた殿が級友らしき男子と並んだ写真だ。執事というよりギャルソンのような服だが殿が給仕するのは間違いなさそうだ。
主は己をテーブルに置くとすぐさまスケジュールを確認した。鬼気迫る勢いで調整を始めた。
こんな必死になって休みをもぎ取っても、殿には「たまたま休みだったんだ」なんて何でも無いように言うのが容易に想像つく。さすがにこの日ばかりは己は留守番であろう。
殿も主のことを憎からず想っている。
あとはきっかけさえあれば……きっと。
しかし湯呑みの己にできることは何も無い。
窓の外を流れる季節が変わっても主は変わらず己を使い続けてくれている。
ついに「使いやすそう」から「使いやすい」との言葉を頂戴した。
昨夜、主が電話で「勇がくれた湯呑みはとても使いやすくて重宝している」と話しているのが聞こえたのだ。
殿はどうやら進学先でとても忙しく過ごしているらしい。主のプライベート用のスマホが鳴らない日が増えた。久しぶりに殿と通話をしたからであろうか、今日の主はいつもより僅かばかり気分が良さそうに見受けられる。
今日もまた主は何杯目かのコーヒーを淹れようとしていた。
「新しくカップをご用意しましょうか?」
湯呑みである己を見て、良かれと思って気を利かせて声をかけたのだろう。
あまり見かけない顔だ。
「心遣いは感謝する。だが必要ない」
決して威圧的ではない物言い。主のように整った顔立ちで困ったように微笑まれて言われたら大体の人間は許してしまうだろう。
「カップの代わりじゃなく、好き好んでコレで飲んでいるだけだ」
「失礼しました」
ぴっと敬礼を返してきた。
主はさっさと己にコーヒーを注いで自席に戻っていく。
声をかけた人物は主を変わり者扱いするどころか「まろやかになるのかな」なんて呟いている。主のような人間のことを天性の人たらしというのかもしれない。
主が何を飲むのもこの気に入りの湯呑みを使うことは部隊内ですっかり定着していた。己としてはそこまで使い込まれて湯呑み冥利に尽きるというものだ。
コーヒーだろうが紅茶だろうが緑茶だろうがルイボスティーだろうがお構いなしだ。最近では晩酌時の米焼酎も己の担当になった。
「なんだ、佐竹はまた湯呑みか」
この人物は見覚えがある。主とは気心の知れた同期らしく、殿と話す時とはまた少し違った顔を見ることができる。
「いいものだぞ、湯呑み」
「布教すんな。可愛い可愛い年の離れた弟分から貰ったから気に入ってるだけだろ」
ははっ、と軽口を叩いて笑う。
「今年受験だったか?」
「いや、もう防大に入った」
「なるほど。そりゃ、お前も気合いが入るわけだ……一尉になって5年だもんな」
主は食えない顔でフッと口の端を上げた。
「謙遜するなよ、お前が優秀なのはみんな知ってる」
また飲みに行こう、奢れよ、などと肩を叩いて去っていく。
どういうわけか、主は殿の名前を小さな声で呼んだ。
己が殿に選ばれて主の元へ来て、もう何年経ったのだろう。
いつの間にか殿は学生から主の部下になっていた。
果たしてそれがいいことなのか湯呑みである己には分からない。しかし、これだけは分かる。主と殿の関係性はもう変わってもいい頃合いであると。
主が殿をどれだけ愛おしく思っているか一番近くで見てきた自負がある。
殿が主をどう思っているのか、主すら知らない殿の一面を見ているのも己であると断言できる。
己を洗う時の殿の顔を見れば、恋に焦がれる乙女のごとき吐息で「隆二さん、まだ使ってくれてる」と呟く殿の声を聞けば、主も即座に行動に移すであろうものを……。
今夜、殿は主の部屋に泊まる模様。
己は知っている、今夜もまたただひたすら仲の良い年の離れた兄弟のように酒を飲み交わし他愛も無い会話を楽しみ別々の寝床で朝を迎えることを。
己は知っている、この週末が主の生まれた日であることも。
ついに腹を括った。
兼ねてより練っていたこの計画を決行する時がきたのだ。
主と殿が新たな関係に進むのに今宵ほど適した夜は向こう一年無いと言っても過言ではない。
「隆二さん、洗い物終わりました」
ふわふわのタオルに包まれる感触を名残惜しく思うが、全ては主と殿のため。
殿の報告を聞いた主がキッチンへ近付いてくる。いつも通りだ。食事のあとどちらかが食器を洗い、洗い終えた食器は共に拭き上げて片付ける。
今だ。
おふたりの身長差、この角度、この瞬間。
「あ」
殿が手を滑らせる。
受け止めようと背をかがめた主の目の前には殿の顔。
おふたりの唇が重なるのを見届ける。
主と殿のしあわせだけを願って落ちた。
ハッ、とした。
ここは……主の家か。己は床に落ちて割れたはず。どういうことだ。なぜだ、固いものが乗っている。これまで液体は種類は問わず受け入れてきたが固形物は初めてだ。
主と殿の声がする。
「日曜日なのに……あまり気が乗らないな」
「仕方ないですよ」
「遅くならないように帰ってくる」
「無茶しないでくださいよ、いいこで待ってますから」
慣れ親しんだ主の指が触れた。冷たくて固い何かを持ち上げた。鍵だ。バイクか家かは分からないが確かに鍵だった。
「それにしても上手くリメイクしたもんだな」
「きれいに真っ二つに割れたんで。でもここまで上手くいったのは隆二さんが手伝ってくれたからですよ」
やっと気付いた。湯呑みとして生まれた己は玄関の小物置きに生まれ変わっている。これまで胴であった部分に新たな高台がついていた。
「隆二さん」
サイズの合わない上着を羽織った殿が主に一歩近付く。
乱れた髪、首筋には虫刺されのような赤い跡。
「行ってくる」
軽く口付けを交わし合う。
「行ってらっしゃい」
主が見えなくなるまで見送った殿は扉と鍵を閉めた。
ふ、と小さく吐息をもらして、殿はくるりと己の方を向いた。
「一晩置いてみたけど……上手く接着剤が馴染んで良かった」
殿の指が丸く削られた己の淵に触れた。安定しているか確かめているようだ。
「お前のおかげだもんな」
殿が自身の唇に指先を押し当てて頬を染めた。
己は確信した。ついに長きに渡る恋が実を結んだのだと。
己は知っている。主が新たに揃いの湯呑みを買ってきたことも、殿が泊まる度に玄関で口付けが交わされるようになったことも。
これまでは湯呑みとして、これからは小物入れとして、この身が粉微塵になる日まで見届ける所存である。
end