僕を抱きしめた、細い腕が震えていた ガッと爪先で蹴った石ころが、舗装された白い道の上を転がっていく。満月の光が冷たく差し込むその先に、大きな修道院があった。規則正しい生活をしているはずなのに、建物には煌々と明かりが点いている。
表が開いてないことは知ってるから、いつものルートで行こうと裏に回った。建物の壁を蹴り、とある窓に辿り着く。その部屋の明かりは消えていた。前来た時に壊したから、鍵は掛けられない。
窓枠に手を掛けたところで、ノックをしてから入ってくださいと言われたのを思い出した。面倒だとは思うが、前のことを考える、としなかった方が面倒なことになる。
舌打ち交じりに窓を蹴ると、暗い部屋の中で動く人影があった。
「こんばんは」
窓が開く。室内へ吹き付けた風に揺らされて、赤い髪が靡いた。
「今夜もいらしてくれたんですね。嬉しいです、吸血鬼さん」
「うっせぇ。早く退け、入れねぇだろうが」
「あ、そうでした。どうぞ。あ、靴のままベッドに上がらないでください」
「うるせぇ! 俺様に指図すんじゃねぇ!」
ブーツを脱いで部屋の床に投げ、窓の下に置かれたベッドに下りる。ベッドには裸の太った男がいたが、そいつは邪魔だったから蹴り落とした。ブッ、と妙な音が聞こえたが起き上がることはなく、男はそのまま床で寝ている。
「吸血鬼さん」
赤い髪を軽く結い直して、女がこっちに寄ってくる。月明かりに浮かび上がる白い首筋には、鬱血した手形が刻まれていた。
そんな姿で、女は今日もニコニコと笑っていた。
「何笑ってんだよ」
「吸血鬼さんと会えて嬉しくて」
「はぁ? チッ、座れ」
「はい、失礼します」
女がベッドに腰を下ろすのを眺め、緩く結ばれた髪を掴み上げた。露出した首筋の手形が忌々しく、苛立ちをぶつけるように首筋に噛み付くと、女の口から小さく悲鳴が飛び出した。
もう少し叫べば溜飲も下がるのに。そう思ってわざと牙で傷を抉ってやると、「っあ」と思いの外艶めいた声が聞こえて、咄嗟に口を放した。
「吸血鬼さん? どう、しました?」
「っ、うるせぇっ。こっち見んな、声も出すな! 萎えんだろうがっ」
「え、そうですか? 好まれる方は多いんですが……」
「黙ってろって言っただろうが。大人しく待てもできねぇのか、このクソ女」
「ふ、ふふ、すみません」
「何笑ってんだっ」
「す、すみません。どうぞ、お食事を続けてください」
謝りながらも笑みを消さない女に更に苛立ちが増して、先ほどとは違う場所に噛み付いて傷を作った。流石に今回は痛かったのか、ビクリと女の背中が震えた。いい気味だ。
細い肩を掴み、血を啜る。女は俺が言う通りに黙っていた。静かな呼吸の音だけが聞こえる。この時間は存外悪くない。
満足して口を離すと、女は酷く熱い息を吐いて、まだ血の滲む傷痕に触れた。
「もういいんですか、吸血鬼さん?」
「なんだよ、誘ってんのか?」
「……そうですね。吸血鬼さんさえ良ければ、血だけではなく、体でも、貴方に捧げたいくらいです」
女は俺の首に腕を回した。白いネグリジェが捲れて、柔らかそうな太腿が覗く。俺様の視線に気づいたのか、女は口角を釣り上げて、裾を指先で摘まんだ。
「吸血鬼さんはそういうの、興味ないんでしょうか。それとも、私に魅力がないだけ、とか」
ゆっくりと裾を引き上げていきながら、女は楽しそうに笑っていた。その手を止めてスカートを引っ張り、そんなことができないように、女の膝に頭を乗せる。女の笑い声が降ってくるのは、太腿に噛み付くと治まった。代わりに俺の頭を撫で始めるが、それを止めるのは面倒で、好きにさせることにした。
そうやって暫く黙っていると、その内に女は他愛もない話を始めた。
随分前、初めてここに来た時も同じだった。聖職者との交流の第一歩として、フェリクスからそいつらの生活環境を見て来いだとか言われて、ここに来た。適当な窓を開けて中に入ったらこの女がいた。今日と同じように、ベッドの上に裸の男と2人で、首を絞められて。
咄嗟に男を蹴り倒して、女が騒がないようにベッドに押し倒して血を吸った。吸血鬼だと分かれば怖がるかと思ったが、女はむしろ目を輝かせて、俺を見ていた。
驚いて咄嗟に手を放した後も、女は騒がなかった。ついでだからこの修道院のことを聞いた。そして、吐き気がするような現状を教えられた。
この修道院では、貴族や商人たちからの寄付の代わりに修道女や修道士が彼らに奉仕をするのが普通のことだと言う。孤児院も併設されているが、見目の良い子どもたちは修道女や修道士なんて名ばかりで、この場所を訪れる奴らを悦ばせることを、まず教えられるのだと。
「吸血鬼さんから見ても、ここは異常ですか?」
女は笑いながら言った。なるほど、こんな場所にいるんなら、暴漢染みた俺様のやり方に怖がらなかったのも頷ける。よく見れば、首の痕以外にも、体のあちこちに怪我をしているようだった。
今は、だいぶ治ったようだけど。
「くすぐったいです」
クスクスと女が笑うから、頭を預けた膝も震える。見上げれば、赤い髪の中で、女が笑っていた。
綺麗だな、と思って、慌てて首を振った。女が驚いて仰け反るのを横目に寝返りを打つ。床に転がった男が見えた。
そういえば。
「アイツ、前もいなかったか」
「ああ、そうですね。今回で5度目くらいです。お妾にしようか悩んでいらっしゃるようで」
「妾?」
「正確には、養子にして自分の子どもを孕ませて、孫として可愛がりたいらしいです」
「きめぇっ! なんだそれ、気持ち悪ぃっ」
「そうですか? そういう方、よくいらっしゃいますよ。愛人を探しに来る方も多いですし」
「うげ……。マジで気色悪ぃな。お前、よくそんなこと平然と……」
「ここに来てからずっとですから。吸血鬼さんが一番優しいくらいですよ」
「はぁっ!? 俺様は残虐非道の申し子、ザック様だぞ!?」
「それ、最初にも聞きましたけど……。でも、本当のことですよ。吸血鬼さんが一番優しくて、温かくて、可愛い」
「か、可愛い?」
「はい、可愛いです。大好きっ」
「っ、やめろっ、抱き付くな!」
覆い被さってくる女を押し退け、その勢いのまま、慌てて窓枠に手を掛けて体を持ち上げた。逃げるような姿勢が恥ずかしくはあったけれど、そのまま部屋に戻る方がもっと恰好がつかない。外に出る前に一度だけ振り返ると、女は俺様のブーツを差し出しながら、「また来てくださいね」と笑っていた。
まったく調子が狂う。最初に出会った時からずっと、この女にはペースを乱されてばかりだ。
その所為か、ずっと頭から離れない。
「またじゃねぇよ、バーカ」
悪態を吐き、地面を踏んだ踵を返す。睨みつけた窓の奥で、今も笑ってるだろう女の顔を思い出すと、また苛立ちが募って、舌打ちがこぼれた。
「ザック、調子はどうだい?」
久し振りに顔を見たフェリクスにそう言われて、ようやくあの修道院に行った当初の目的を思い出した。とりあえずあの女から聞いたことを一通り話してやると、フェリクスは難しい顔をしてライトと何かを話し合ったようだった。結論が出るまで下手なことはするなと言われたが、言うことを聞いてやる気なんて更々ない。それに、俺が知らない間に、あの女が何処かの男の愛人に収まったらと思うとイライラして、堪え切れなかった。
鍵の壊れた窓を開けて中に入ると、いつもそこにいる赤い髪の女。
その女が、必ずそこにいることを、邪魔されたくはなかった。
「おい」
窓を蹴る。そうすればあの女は窓を開けて俺を招き入れた。いつも。
けれどその日は、窓を開けたのは、男だった。
太った男。でぶでぶと腹に溜め込んだ肉を揺らして、汗だくの顔で俺を見ていた。何かを叫ぼうとしたのを蹴り飛ばすと、男は悲鳴を上げながらベッドから下りて部屋を出て行こうとする。部屋に入り、男の背中に蹴りを入れて扉にめり込ませたら、男は悲鳴を上げながらガクガクと震えて、肩越しに俺を振り返った。
「なっ、なんなんだ、お前はっ。お、俺を、俺を誰だとっ」
「ああ? 誰だよ、お前は。俺様の女に手出しやがって、その短小、踏み潰してやろうか?」
背中に押し付けていた足をずらし、たるんだ尻を踏み付ける。このまま思い切り踏み付ければどうなるか、男は想像ができたようで、更に震えを増し、小便を撒き散らして気絶した。
酷い臭いだった。ため息交じりに踵を返し、ベッドへ戻る。
女は、こちらを見ていた。
「来い」
「え……あの、服」
「あ? これに包まってろ」
面倒なことを言う女をシーツでぐるぐる巻きにして、担ぎ上げた。ベッドを足場にして窓から外に出ると、青い三日月が遠くに見えた。窓から飛び降りた時には悲鳴を上げた女は、夜の空を見上げて舌の根の乾かぬ内に感嘆の声を上げた。
「綺麗ですね……」
地面に下ろしてやると、女はシーツが落ちないように巻き直しながら、裸足のまま歩き出した。外に出ればいつでも見られるような月に、初めて見た宝石のように目を輝かせる。
初めてこの女と会った時も、俺の顔を見て同じような目をしていた。
そう思うと、面白くなかった。
「おい」
「はい、なんでしょう」
「こっち見ろ」
乱暴に腕を取り、引っ張る。女の手にまとめられていたシーツが滑り落ちた。冷たい月明かりに、女の肌が浮かび上がる。今日は随分と殴られたらしく、殴打痕が青黒く残っていた。
こんなところで裸を見られているというのに、女は眉一つ動かさず、ただ寒さ故の震えを見せるだけだった。
「吸血鬼さん、どうしました?」
「……来い」
「? はい」
女は言われるままにこっちへ歩いてくる。手が届く距離まで近づいたところで、細い腰を抱き寄せた。しっとりと吸い付くような冷たい肌が、手のひらの下でわずかに跳ねたのが面白かった。
女を抱くのは久し振りだった。フェリクスに首輪を着けられてからは、女も子供も襲えなくなって、血を飲むのですら制限をされた。あの忌々しいヴァンパイアの王の許す範囲でしか、暴虐を尽くせない。まったく笑える。滑稽だ、と苛立ち混じりに笑みがこぼれるのに、この女の腕の中、膝の上では、そんな感情もなかったことを思い出した。
冷たい肌から血の臭いがするからだろうか?
もしもそうなら、紅潮して汗ばんだ女の肌に牙を立てたいと思うのは、この女を殺したいと思うからなのか。
「っ、ふ、ふふっ……吸血鬼さんったら、上の空で……女性に失礼ですよ」
「やめろ、くすぐったい」
「あれ、耳、弱いんです? ……可愛い。やっぱり、大好きです、貴方が、一番」
ギュッと俺様の首に腕を回して、抱き付いてくる。その腕が鬱陶しいと思うけれど、引き剥がす気にはならなかった。俺の上に乗る女の細い腰に手を添えて揺すれば、女は俺の耳元で何処か楽しそうに喘いでいた。
俺に犯されてこんな顔をする女は初めてだった。どいつもこいつも恐怖に引き攣った顔をして、泣き叫んで逃げようとして、化物だと罵ってきたのに。それが楽しかったのに。
俺のことを可愛いなんてふざけたことを言うこの女の腕が、酷く震えているのが、どうしようもなく胸の中を掻き毟った。
「吸血鬼さん、私のお願い、聞いてくれませんか」
「あ?」
「どうか、このまま、攫ってください」
慣れたように腰を動かしながら、女は俺を誘った。まるで言うことを聞かないならイかせないと脅すように、楽しそうな笑顔で。俺の体に回した腕はまだ震えていたから、それがこの女の強がりであることは分かっていたけれど、やられっぱなしは性に合わない。
ニヤリと笑みを浮かべ、女の腰を抱いて、冷たい地面の上に押し倒す。女は驚いてこちらを見上げたけれど、声を出す前に足を開かせて、先ほどよりも深く、強く抉ってやれば、悲鳴のような嬌声が溢れた。地面に擦れて細かな傷や汚れができるのも意に介さず、快楽を貪る女の姿は、酷く美しかった。
「俺様に命令するなんざ、上等じゃねぇか。折角だからゲームするか? 相手を食い千切った方が勝ちだ。俺様はこの牙で、お前はこっちで、な?」
女の下腹部をつつくと、返事の代わりに中が狭くなっていく。ゾクゾクと背筋を駆け上がる快楽に、喉が鳴る。思い切り噛み付いたら、更にきつく締めてくるのが実に好みだった。
夢中になって噛み付き、血を啜る間にも絶えず俺を食い千切ろうとする女は、俺に縋り付く腕にも力を込めた。お互いの距離をゼロにするように、ギュウギュウとくっついてくるのに抱き締め返して、首筋に噛み付く。
その瞬間に一際強く締めつけられて、ドクリと、吐精の感覚が腰の辺りに蟠った。
「っ、は、あ……私の勝ち、ですね?」
傷と血で塗れた女は、顔を少しだけ離し、鼻先を擦れ合わせて笑った。
「約束ですよ、吸血鬼さん」
「チッ、仕方ねぇな。攫ってってやるよ」
「ありがとうございます。本当に、貴方はお優しいですね」
「うるせぇ」
体を放し、遠くに放られていたシーツを拾って、女の体を包んだ。抱き上げると、女はうとうとと瞬きを繰り返す。
少し遠くの空が、白み始めていた。
「寝てろ。動かねぇから丁度いい」
「……はい。お任せします、ザックさん」
女は目を閉じ、寝息を立て始めた。その肩を掴んで、ぐいぐいと揺する。女は驚いて目を開けた。
「なっ、な、なんです?」
「お前、俺様の名前覚えてたのかよ!」
「はあ……。人の名前を覚えるのは、結構得意ですよ」
「なら、なんで今まで」
「えーと、なんとなく」
「お前な……。あー、もういい。寝てろ」
「起こされたのに……」
む、と頬を膨らませた女を無視して抱え直し、寝床にしている廃墟まで戻る。女はその間もずっと安心したように俺に身を預けていて、それが酷く滑稽で、つい笑ってしまったのに女はまた起き出してきて「なんです?」ときょどるのが、また面白かった。