楓可不『爪の先まで』 シャッシャッという音が部屋に小さく響き、消えていく。音の正体は爪とやすりが擦れる時のものだ。自分の指先を凝視し、真剣な表情で爪にやすりをかけていた楓が、可不可の気配を感じて顔を上げた。
「上がってたんだ」
「うん。お風呂ありがとう」
可不可、と微笑んだ楓は腰掛けていたベッドを掌でぽんぽんと叩き、可不可が促されるままに楓の隣に座ると頭をそっと撫でられた。風邪を引くよ、と叱られるから髪はしっかり乾かした。確かめるように髪に通した指先が頭皮を撫でる感覚に、じわりと身体が熱を持ちそうになる。このまま、と楓に体重を預けて掬い上げるように見上げれば、楓の瞳の奥にも同じ熱が灯るのが見えた。じわり、じわり。至近距離で見つめ合うだけで、灯った欲が高められていく。
キス、したいな。そう思って目を閉じた可不可は楓との距離を埋めようと首を伸ばして――
「むぐっ」
「ごめん、ちょっと待っ……ああっ、ごめんごめん!」
可不可の唇が触れたのは楓の掌だった。キスを直前で止められ、待てを告げられたことへの不満を隠せずに可不可が睨みつけると、楓は慌てて謝罪の言葉を口にした。今絶対そういう雰囲気だったでしょ。明日はふたりとも休みで、出かける約束をしていて。それは珍しいことではないけれど、今夜は雪風は遠征で、礼光は仕事で部屋を空けていて。夕食後に部屋に誘われた時点からすっかりそのつもりだったのに。
「爪が……」
「爪?」
「そう。爪の手入れするがまだ途中だったから。終わるまで待ってほしいなあって」
そういえばそうだった。潜のようにマニキュアを塗ったりはしないが、楓の爪はいつも丁寧に整えられている。可不可に触れるからね、といつか言っていたように頬を滑り、身体を撫でる指先はいつも滑らかだ。
「あと何本?」
「ん~……左手が終わったところだからあと右手が……」
緩く握った右手を見せられる。確かにいつもより少し伸びているかもしれないが、特別長いわけではない。別にいいのに、と思うけれど、それを口にしても楓はきっと「ダメだよ」と優しく、けれどきっぱりと断るだろう。それくらい、楓に大事にされている自覚くらいある。ならば――
「僕がやってあげようか?」
「え?」
「右手。左手でやらなきゃだからやりにくいでしょう? ……だめ?」
ただ待つよりもキミに触れていたい、そんな下心は隠して微笑めば、楓は小さくため息をこぼして、やすりを差し出した。
小まめに手入れされている爪はそれほど伸びていない。やすりで長さや形を調整しながら、先端が滑らかになるように整えていく。
初めは向かい合っていたが、うまく固定できなかったので今は可不可の背に楓が被さる形で手を握っている。楓の爪と並ぶと可不可の爪はすこし伸び始めている。そろそろ、可不可も手入れが必要だ。楓の爪が終わったらやってもらうのもいいかもしれない。
「こんな感じでどう?」
「ん? 見せて……あ~すこし長いかも。もう少しいい?」
これ以上短くするとかえって不便じゃないか、そう思ったところでつい数日前に寮室で同じような会話をしたことを思い出した。
――添って爪短いよな。あんまり短いと不便じゃないか? ほら、缶の……プレタブ? 開けたりするときに
プルタブね、と訂正した添はそうですか? と首を傾げた
――あー確かに短く保つようにはしてますね。ほら、ナニかと繊細なところ触ったりとかありますし。特に利き手はね
添が練牙にはわからない程度に口角を上げて、ニヤリと笑う
――でも練牙さんもいっつも綺麗に保ってますよね。さすがモデル
――そ、そうか?
――そうですよ~あ! プルタブもちゃんと開けられますよ……っと、ほら開けちゃったんで練牙さんも飲んでください
カシュッと音を立てて開けたチューハイを練牙のグラスになみなみと注ぐ添と目が合うと「ね、社長?」とまたニヤリと笑った。
――ナニかと繊細なところ触ったりとかありますし
その時の可不可にはわからなかった、添がニヤニヤとしていた理由に急激に思い至る。楓と夜を過ごす時、いつだって楓の爪はとても短く整えられていた。可不可の身体を辿る時も、弱いところを擽る時も……柔らかい場所に触れる時も爪の感触を感じたことはほとんどなくて。
今、可不可は、楓が可不可に触れるための準備をしている。浴室で楓に触れられる準備をしている時にも似た僅かな羞恥と、それを上回る期待と欲がお腹の奥で渦巻いている。
「可不可?」
急に手が止まったのを訝しんで、楓が可不可の顔を覗き込む。声が頬に触れる感触にすらぞわりとした。
「楓ちゃん……」
名前を呼んだ声は滑稽なくらいに掠れていたけれど、楓は笑うことはなく、むしろごくりと喉を鳴らした。
「……待ってて」
囁いて耳に軽く口付けた楓が、可不可の手の中から爪やすりを抜き取る。いつもより少し急いた手つきで、それでも丁寧に爪を整えている間、可不可は何も言えずに背後から包み込む楓の体温を感じていた。
「お待たせ」
納得いくまで整えられた指先が可不可の指先に絡められる。反転。楓に抱きしめられていた背中が、気づいた時にはベッドに沈んでいた。楓の背に回した指先がカリリと小さな音を立ててシャツを掻いた。ああ、背中を傷つけてしまうかもしれない。頭の隅でそう思いながらも、可不可は今度こそ近づいてきた唇に目を閉じて応えた。