よふかし 夜明けが近づく頃にこの街は眠る準備をし始める。人の往来が疎になると喧騒は遠のき、通路に広げられた商売道具たちが建物の内側へと追いやられ、ピシャリと閉じられた曇りガラスの戸に隠された。ネオンサインの電光看板も店先で揺れる提灯からも光が消えて、夜闇を彩った艶色が抜け落ちていく。寝る前に化粧を落とすのと同じようなもんだ。
隣の男はまだ帰らない。スタウトの瓶底に残った最後のひとくちをゆらゆら回しながら街の寝支度を見守っている。ぬるくて気が抜けてて、麦の旨みもアルコールの強さもない呑みやすさを重視したチンタオビールは観光客にあまりウケないが、奴がいま呑んでいる黒ビールの方は結構人気らしい。甘酸っぱい香りとローストの風味。こっくりとした味に強い苦味と酸味がきいていて、度数もそれなりに高い。中華料理に合わせると最高。現にルークは数時間前に店で出された大盛りの古老肉とそいつで乾杯してからずっと上機嫌だ。
「これ美味かったなー、開けずに持って帰りゃ良かった」
肩から手首まで丸太みたいに太い腕を欄干に預けて、黒いラベルに視線を落とすルークを盗み見る。緩やかに下がった目尻にはどこか哀愁を漂わせているが、静かな声は存外酒に浸ってはおらず、昼の時と変わらないテンションで心地の良い音をしていた。本人には絶対言えないけど、こいつの声は綺麗だ。ガキみたいな煽り台詞も、ファイト中の鬼気迫る咆哮も、その実澱みのない澄んだ音を含んでいる。ついでに言うと眼もお気に入りだ。複雑な色をした虹彩がぐるりと瞳孔を囲んでいて、それがまるで、水晶体の奥に非洲菊を閉じ込めてるみたいで。もっとそばで、もっと見つめていたいって、魅了される。
「ジェイミー」
わざと低く作った声。なんだよかっこつけ。頼りない鉄柵に身体を預けていた俺の両わきに手を置いて、強く握る。筋肉の詰まった野郎二人にのし掛かられて、錆びた鉄塊が小さく悲鳴をあげた。あんなに名残惜しげだったビール瓶はさっさと地面に置いてしまったらしい。目元にかかるアッシュブロンドが俺の額を掠めて、薄い色の睫毛が下瞼に影をつくった。勝手に脳内でスロー再生になっている景色に心臓が早鐘を打つ。霞んだピンク色の唇がわずかに開いたまま、ゆっくりと近付いて、やがて俺のと重なった。
帰る時はキスしたいと言い出したのはルークの方だ。おやすみのキス。今日はさようなら、じゃあまたねの意味もこめて。
付き合って日の浅い俺たちは一先ず何かそれらしい仕草を探っていた。手を繋ぐとかハグしてみるとか、おまえが好きだと口にしてみたりだとか。ティーンでも恥ずかしくなるような健全な段階を踏んでようやくいまに落ち着いている。間怠っこしいそのひとつひとつがたまんなくて、次も、そのまた次もと急く気持ちがずっと胸を締めつけた。ちゃんと恋してんだなぁって自覚するのは人生で初めてのことだ。これも、ルークには絶対に言えないことのひとつ。
触れ合わせた感触に肌が粟立った。汗と、整髪剤と、アルコール。それらがトッピングされまざり溶けたルークの匂い。深く吸い込めば腰の骨に甘い痺れを起こす。たまんねぇの。おれ、こいつとキスすんの。すげぇ好きなんだ。
「っ、ん」
鼻先の角度を変えて、ぬるりと舌が割り込んできた。深く食い込ませたデカい口で顔ごと押しあげられ、否応にも顎先が上へと持ち上がる。首の後ろに差し込まれた手のひらもデカくて、しっとり汗ばんだそれが腰の方にも回っていた。耳の奥で唾液をこね回す音が響いて恥ずかしい。媚びるような高い声が鼻腔をぬけて、恥ずかしい。かたいのかやわらかいのかよく分からない熱のかたまりが下腹部にあてられて、こないだはじめてやったセックスが脳裏を過って意識が遠のきそうだった。
密着していた顔がほんの少し離され、苦しかった呼吸が漸くまともになる。近すぎて、すぐそばのやたらイケてるツラにピントが合わない。
「…………おやすみしなきゃ、だめ?」
つるりと潤った唇からひどく甘えた声がする。ルークはふとい指で俺の髪を梳きながら、もう片方の離すつもりのない腕に力を込めた。あー。やば。無理だわこんなん。一応脳みそが溶け切る前に、「おまえあしたしごと」と辛うじて聴き取れるであろうグズグズの理由をチラつかせてみるがたぶん無意味だ。ルークの答えを聞く前に茹だりあがった身体は持ち主の言う事を聞かなくなって、目の前の太い首にしがみついている。耳元ですぐ「お前と過ごしたくて休みとった」なんて弾んだ声が聴こえてきたら、もう止まる必要なんてないわけよ。