毒を食らわば命さゑ
著 ファル・リア
一
郷に帰りたかつた。幸せになりたかつた。母御も父御も流行り病やら飢饉からの飢えやらでポツクリ逝き、住処のなくなつたおれと、血の繋がりのないキヨウダイ(名は吉行)は、這歩く中で、見世物小屋に拾われた。
郷に帰りたかつた。無理だつた。見世商売なぞ倫理のあるものではない。疎な客どもの面前にて蛇を丸呑みせねばならぬとか、嘔吐して見せねばならぬとか、さういうものである。おれはかつては健全な家の出であつて、キヨウダイとともに虫の羽を毟つたり蛇を捻つて弄んでいたものだが、まさかおれがあの遊び道具どもを喰わねばならぬなど、恥でしかなかつた。
抗おうにも、おれもキヨウダイも、齢は十やそこらの子供であつた。逃げようと背を見せた途端に蛇女やらフタナリの野郎の手に絡まれ阻まれ、無益な痛みに苛まれるだけであつた。おれの首を絞めた蛇女が、おれとキヨウダイの耳元でキイキイ叫んだ。
「人間のままで幸せになろうなんてむしがよすぎるんだよ。」
思へばここで目が覚めたのだろう。甘ツタレは辞めねばならぬと気付いたのだろう。そうか。化物にでもなれば、ここで生きてゆかれるのか。なればなつてやる、人である事など、ここでキツパリ諦めてやる。蛇でもなんでも喰らつて、馬鹿で惨めな様を晒して生き延びてやる。
おれの隣で折檻されているキヨウダイが、淋しそうな顔をした気がした。
二
思い出夢の厭な後味と、口に当たる強烈な異物感で目が覚めた。ツルツルした何かがモゾモゾ蠢ひて、唇や歯に当たつている。顎にそれの一部が触れ、不快に擽つたい。それは噛合わせの隙を縫つて口内に侵入を試みている。気味悪さに思わず、防衛本能に反して少し口を開けてしまつた。それの先端がおれの舌に触れた。途端に舌に痛みが走つた。噛まれたか、刺されたのだろう。舌を裂かれたような痛みが襲い掛かつてきた。
おれは目を固く瞑つたまま、歯をグツと食い縛つた。硬いそれは、ガチツという音をさせて砕けた。顎がジイン、と痛んだ。それに続いて、苦い液体が舌を伝つて喉に流れてきた。おれは目を見開いて、咽せて、ゲホゲホと荒い咳をした。飛び散つた痰や苦い汁、涎が重力に従つておれの顔に落ちた。目にそれらが入つて痛んだ。
咳の勢いを止められないまま雑な息をするおれの隣で、クスクス、小さな笑い声が聞こえた。声の方を向けば、ビリビリ痛んで霞む視界に、見慣れた影があつた。
「おはよう、肥前くん。」
そのひとは、垢まみれの手鏡をおれの顔の前に差し出した。緑みたいな黄色みたいな色の液が顔中に飛散した、醜いおれがその中にいた。噛まれた舌からはちらちらと血が垂れている。寝転がつたまま無様に舌を晒し鏡を睨むおれは野良犬のように見える。手垢に霞んで見えにくい枕元には、体液を撒き散らしながら蠢く蜈蚣があった。頭は無い。おれが噛み砕いたあれが、頭だった。そのひとはおれの汚い顔を、ぼろぼろの手拭いで拭つてくれた。
三
「フフ、かわいいね、君は。」
おれが手鏡を奪い取ると、赤や黄色や緑やら、気持ち悪い極彩色が染み付いた手拭いを丁寧に折り畳みながら、『先生』は笑った。
「……あんた、頭おかしいよ。」
おれは込み上げてくる酸つぱい液をどうにか飲み下しながら言つた。喉を、ちりちりと痛い液と鉄の味とが流れていく。『先生』は細めた鼠色の目でこちらを見下ろしながら、それはさうさ、と言つた。
「僕は僕がおかしいことなど、昔からわかつている。」
「ヘイヘイ、聞き飽きたぜ。」
おれは穴だらけの布団を引つ掴んで、無理矢理に包まろうとした。お待ちよ、と頭上から声が掛かる。おれの手の上に、骨張った温もりが重なった。
「そろそろ店開きだ。君には助手をして貰うのだから、寝てはならないよ。」
「おれは朝飯に蜈蚣喰わされて、舌も目ン玉も頭も痛エんだよ。」
『先生』はまた笑つた。欠けたり罅割れたりした眼鏡の奥で、細められた目が歪んでいる。
「起きたまえ。君のキヨウダイは、かなり早い時から啖呵を切つているよ。」
少し枯れた調子のキヨウダイの声が、微かに聞こえてきた。『先生』はおれの襤褸の着物の襟を掴んで、上体を起き上がらせた。そうして、おれの顔をジイツと眺めると、おれの頬に手を添えた。小さく開いた口からは涎が少し垂れている。『先生』がその涎をべろりと舐め取つたかと思うと、次の瞬間にはおれの頬を舐めた。ゾワリ、と鳥肌が立つた。
「気持ち悪……。」
おれがそう漏らすと、『先生』は小さな声を立てて笑つた。
「拭き忘れが、あつたんだ。」
おれの額に、ひとつ口付けをした。
四
『先生』は三年前、おれが二七の頃にこの見世に来た手品師である。火を口から吹くだの小さな硝子瓶に入つて見せるだの、西洋手品の名手で、彼が来てからというもの、この見世の売上はポンと跳ね上がつた。
また『先生』はヒロポンや阿片などを濫用していて、グツタリと布団に寝そべつたまま虚空を見つめてケラケラ笑つてみたり、酒にめつぽう弱い癖に錠剤を飲んだ後にウヰスキを数杯やつて吐いたのを「君は僕の助手だろう、助手なら、これ、食べてごらん」など言つたりすることがある。そういう、誰よりも優れた力の上に悪癖の塊が乗つかつている人だから、小屋の親父もなかなか口を出せないで、『先生』の好きに振舞わせる他なかつたのだろう。
おれはそんな『先生』の下に付いているだけで良いので、この人が来る前よりずいぶん楽な気持ちで見世に出ていた。おれだけでの悪食演目よりも、この人の言うことを聞いて動く方が楽しかつたし他の奴らも手出しをしてこなかつたために御捻がまともにこちらに来た。(後で知つたことだが、小屋内でのおれへの対応についても『先生』が親父どもに細工していたらしい。)
おれと『先生』の関係について、キヨウダイはあまり良い顔をしなかつた。ある時キヨウダイはおれに言った。
「おんし、あんな蛇みたいな奴と絡んじよつたら、ろくな目に合わんぜよ……。」
それからというものおれとキヨウダイの間には溝が生まれた。
『先生』の吐瀉物、血を飲み込んで己の血肉と成していたおれは、『先生』の第一の信奉者になっていた。
五
「やアやア御出で、御代は後でも構わんぜよ、今ひとたびの奇怪の集会、演目ひとつに三十分、見にやあ損、損……。」
「キヨウダイくんの啖呵、君も完璧に唄えるんだね。」
「当然だろ、何年聞いてると思つてんだ、十七年だぜ。」
そう話しながら脱いだ襤褸着物を放つて、見世用の血飛沫柄の着物を羽織る。真ん中に大きな罅が入つた姿見に映るおれの腹には肋が浮いて、ところどころ青や紫の痣がある。首をぐるりと覆う切傷痕、骨が折れて形の歪んだ手には吐き胝。おれはひとつため息をついて、後ろで本を読んでいる『先生』の方を向いた。
「先生、帯、締めてくれ。」
「分かつたよ。」
足音もなく近づいて来た『先生』はゆつたりとした動作でおれの帯を締め始めた。おれが包帯を手に取つたのをちらりと見ると、いけないいけない、と言つた。
「今日はその首を、晒しておきたまえ。」
「あ? なんで。」
『先生』は怒つたやうにおれの手から乱暴に包帯を奪ふと、薄布一枚張つただけの床に投げ棄てた。
「僕が好きだからさ。」
「はア、そうかよ。……分かつた。」
少し屈んでおれの首を見つめる『先生』の目は爛々としていて、ビイドロ玉に夢中の子供のやうだ。
「君は僕の言うやうに動いていれば、安泰だからね。」
先生の口癖だ。事実、さうであるから、おれは否定も肯定もしないでいた。帯を締め終えた『先生』は、流れるやうな動作でおれの首の切傷痕の上に手を掛けると、微かに力を入れた。いつも通りのことだ、おれは至って冷静に、『先生』の手の上におれの手を重ねて言った。
「首絞めようつたつて無駄だぜ、おれは痛みには特別強いからな。」
「あはは、残念だ。」
『先生』がソロリと離れるのと同時に、ドタドタ足音が近づいて来た。息を切らしながら、キラキラした目のキヨウダイは大きな声を上げた。夢の中で見た姿より、幾分老けている気がする。
「おおい肥前の、先生! 時間ぢあ。早よお、来い!」
「分かつたよ、さ、行こう。」
『先生』はおれの手首を取つて、ニコニコ顔で歩き始めた。キヨウダイとおれはため息をついた。襤褸布と朽木で作った小屋に掛けられた猥雑な看板の下には、絞められたばかりの鶏が吊るされていた。
六
『先生』は『薬物教室』の演目にて大麻を吸つた。煙管を燻らせるその姿は妖しく見えた。『先生』のそれが充分に効く迄、『異食男』のおれが場を繋ぐ。これがいつも通りの流れである。おれが客どもの前に胡座をかいて、ドブ色の蛇を頭から口に含んで、骨の一本一本をバキバキ音を立てながら喰らつている間、先生はひとりでクスクス笑つてみたり覚束無い手で筆を握つて絵を描いたりしていた。(のちに『薬物中毒者の絵』として売る。)
表から聞こえるキヨウダイの啖呵を聞くでもなく聞きながら蛇を一匹喰い終わつて、『先生』の薬もそろそろ効き始めたであろうと思つて、後ろを振り返つてみた。見事に薬の効いたそのひとは床にペタリと座り込んで、焦点の合わない目でこちらを見ていた。いつもであれば「フフ、僕は狂わないでいられるが、君たちではおかしくなつてしまうからね、薬はやめておきなさい。」など言うのに、今日は違った。
「可愛いねえ、君は、本当に、ふふ、おかしいねえ。」
まともに歩けないのであろう、立つのも諦めて四つん這いになつた『先生』は涎を垂らしている。脚の折れた犬のように辿々しく這い寄って、首をグウと伸ばしておれの顔を見上げて来た。どこを見ているかわからない鼠色の宝石がキラキラ輝く。生ぬるい、そして微かに甘い息が顔に当たつて気持ち悪い。おれの肩を、震える右手で掴んで、幸せそうに笑つている。
「眼鏡、邪魔だなあ、ふふ。」
とぼそぼそ言いながら、丸眼鏡を雑に外すと、ポイと客どもの方へ投げ棄てた。パキ、と硝子の割れる音がした。それを見た『先生』は赤子のようにキヤツキヤツと笑った。……様子が、おかしい。
おかしい、おかしい!
嫌な予感がしたおれは『先生』の手を払おうとした。しかし、『先生』の手はおれの肩に張り付いてしまつたかのように、びくとも動かない。
「先生……? 客の前だ、なにしてんだ!」
クク、と笑い声が聞こえたと思つたその瞬間、体が後ろへぐらりと揺らいで、口が塞がった。おれは咄嗟に、『先生』の手を払おうとしたのとは違う手を床についた。唇に柔い物が当たつた。客どもがどつと騒めいた。
七
猛烈な異物感……朝のアレとは違う、ぬらぬらしたものが口の中に侵入して来て、おれは乾嘔した。べつたりした液が口内に流れ込んできて、大麻の青臭く甘い匂いが鼻腔の奥をグズグズ揺蕩つた。ヒクヒク痙攣する視界いつぱいに『先生』の長いまつ毛と潤んだ瞳が映つた。おれの手を無理やり取つて指を絡めてきた『先生』は、その上質そうな着物が乱れるのも気にせずおれの上に乗り上げてきた。まんまと姿勢を崩したおれは地面に頭を打ちつけた。脳味噌がグラツとした。呻こうにも、『先生』の舌がおれの口の中を好き勝手這い回るせいで、音の出口がない。客どもの喧騒まと唾液の乱れる水音が、揺れた脳味噌に異常に響いて気持ち悪い。息を吸うことも吐くこともできない。一瞬、頭の奥がスツと冷えた感覚がした。
これはまずい。
逃げなきや死ぬ!
酸素の足りない途切れ途切れの思考で、おれは精一杯に脚をジタバタ動かした。手だけでも引き剥がそうと無理矢理に腕を振るつた。すると『先生』は目を見開いて、そろそろと顔を上げた。おれの口と先生の口とを結ぶように、透明な糸が垂れた。それはプツンと切れると、おれと先生の着物に一本の細い滲みを作った。おれは久しぶりに呼吸をした心地で、咳き込みながら息を吸い込んだ。汗と涎の生臭い匂いが鼻を突いた。恍惚としたように『先生』は肩で大きく息をして、チラと出た舌からはポタリポタリと涎が滴っている。おれの着物のはだけたところに涎が垂れてきた。ツウと皮膚を伝うそれは気味の悪い冷たさをしていた。おれの顔をまじまじと見た『先生』は驚いたような顔で、口を数回パクパク動かした後、掠れた声を出した。
「…き、み、僕に、反発し、たね……?」
発音の甘い、しかし聞いたことのない声色のそれにおれはハツとして、「違う」と言おうと口を開いた。途端、大きな手で口を塞がれた。喉が無様に鳴った。瞳孔が開き切つた薄墨の目が無感動にこちらを見ている。おれの頬を一筋、水が伝うのを感じた。
「だまりなさい、きみ、は……きみは、僕の言う、とおりにしてれば安、泰だつて、言つただろう。だのに、だのにきみは……。」
悪い子。
そう言つた『先生』は、空いている方の手でおれの首をスウと撫でた。こそばゆくて、おれは「ひつ」と情けない悲鳴を上げた。『先生』の口が三日月に歪んだ、と思ったその時、空いた方の手であの人はおれの首を絞めた。視界に星が散った。薄く幕のかかった聴覚が、客どもがまずいぞあれは死んでしまうどうしたものかと騒いでいる声を捕らえた。頭がカアツと熱くなった。啖呵を、おれのキヨウダイを呼ぶ声も混ざつている。騒ぎの声の、遠いところでキヨウダイの叫びが聞こえた気がした。
『先生』はおれの首を絞めた手をグラングラン揺らしている。おれの頭は壊れた人形みたいに素直に揺れた。点滅する五感は、吃つた絶叫が『先生』の綺麗な口から飛んでくるのを受け取つて、そののちぷつりと操業停止した。
「……君のせい、ではないかなア!」
八
おれが目を覚ましたのは、小屋内の小さな医務室だつた。暗い。夜だろう。脳みそに幕が掛けられたような感じがする。先程のことを思い出そうにもところどころしか記憶がない。おれの体は軋む寝台の上に無造作に転がつて、力の入らない手足を四方に広げている。口の中は乾いている。吐いたのか、胃の中も空のようで、胃酸の残滓が腹に踞つているのを感じる。腹が痛いような、喉に刺さるような酸つぱい感覚がした。起きあがろうとしても、腕に力が入らない。寝台の、薄汚れたシーツの上をおれの不気味に細い腕が幾度も滑る。そのたびおれの体も、ところどころ骨の露呈した硬い寝台に打ち付けられる。
ずるり、がたん、ずるり、がたん。
無意味な抵抗の音が医務室に響く。嘔吐とはこんなにも体力を奪うものであつたか、その無機質無意味の行動を十もせぬうちにおれは息を切らした。こめかみに滲んだ汗を指で擦り取つた。大きなため息が出た。込み上がつてきた酸を飲み下した。観念したおれは目を瞑つて、もう一度眠つてやろうと試みた。落ち着こうと、酸味のある息をひとつ吐くと同時にドタドタと足音が近付いてきた。
「肥前の! 起きちゆうか!」
朽木の扉枠からヒヨイと顔を出したキヨウダイは額に脂汗をかいている。精悍な顔を心底不安そうに歪めて真直ぐおれを見ている。
おれはちりちり痛い喉を無理やり開いて声を上げた。
「起きちゆうよ。どういた。」
キヨウダイは虫のいどころが悪そうな顔をして、頭の後ろをボリボリ掻いた。
「あんの……先生のことなんぢやが。」
おれは目を見開いて、キヨウダイの側に行こうと立ち上がつて、無様に転げた。キヨウダイが差し伸べた手を振り払つて、不恰好に歩き出した。
「先生、どこにおるんぢや。」
「……親父のとこ。いや、先生のとこ。」
「ほうか。」
九
「辞めさせていただくよ。」
─今あなたに辞められてしまつては、この小屋は潰れてしまひます。
「知らないよ。嗚呼、肥前くんも連れて行かせていただくからね。」
僕はそれだけ言うと、止まらぬ鼻血をそのままに、親父様の部屋の扉を、わざと音を立てて雑に開いた。(大麻などを喫すると副作用で鼻血が止まらなくなる。)扉の、バタリ、と言う音と重なつて、小さな悲鳴が聞こえた。扉の裏を覗くと、肥前くんが汚い床に蹲つてこちらを見上げていた。虚な目からは一筋涙が落ちて、重力に従つて微かに開いた口からは唾液が垂れている。……今のこの子が、犬みたいで可愛らしいと思つた自分は、屹度正気の箍が外れている。僕は声を出せずにいる肥前くんの前に屈んで話しかけた。
「肥前くん。今から一緒に、ここを出ようか。ここを出たら、先ほどのこと、全て謝るから、ね。」
肥前くんは大きく見開いた目を二、三度瞬かせて、はぐはぐと口を動かした。絞り出すような声が微かに聞こえてくる。
「ここを、出る……? おれと、あんたで?」
僕は床についた肥前くんの片方の手を取つて、その手のひらに接吻した。いまだに止まらぬ鼻血が肥前くんの青白くて細い手に垂れた。肥前くんは咄嗟にその手を引こうとしたけれど、僕は細い五本の指を掴んで引き寄せた。雑に着た着物から曝けたあざだらけの上体が、無理に持ち上げられて余計に露呈している。
「そうだよ。屹度ここより幸せだ。」
僕は肥前くんの腕を持ち上げて立ち上がつた。彼の手は異様に冷たい。糸の切れた人形のように意思なくすらりと持ち上がつた彼は、ふらふらと所在なさげに、目を俯かせてはこちらを伺い見て、また俯かせている。
「ここより、つて。そんな、馬鹿げたこと。」
「君は、僕と一緒に行くのは嫌かい?」
「いや、ぢや、ない……けど。怖い。」
「時期に薄れるさ。いろんなところを歩いて、日毎に暮らす場所を変えていけば、君の老いない体も他にばれることはない。」
そう言うと肥前くんはハツとこちらを見上げた。
「先生、おれの体のこと、知ってたのか。」
僕は深く頷いた。
「君、僕より十より多く年嵩が上なんだろ? 興味深いと思つて近付いたんだ。」
肥前くんは狼狽えて、一歩後退りした。その分より少し多く、僕は一歩歩み寄つた。
「こんな禍根に巻き込んですまないね。愛してるんだ、君のこと。……僕の気狂いを、君のせいにしてすまないね。」
僕は彼を抱きしめた。僕よりずつと小さくて、僕よりずつと細くて脆くて、僕よりずつと年上の彼は啜り泣いていた。
「寂しい思いはさせないからね。」
「いや、いや……。」
「大丈夫。薬と同じだ。いずれ慣れる。ね、行こう。」
泣き噦る彼の手を無理やり引いて僕は駆けた。血の跡を二つほどつけた真白の手が夜闇に不気味に浮いている。それもまた美しくて、嗚呼真に僕はこの子に惚れ込んだなと思つた。苦しそうに泣く声が小屋に響いている。不気味だろうけれどそれがまた、舞台演劇の幕間の喧騒のようで良かつた。果たして僕たちは小屋の裏口に至つた。暗闇に沈んだ僕たちは、お互いの目の光だけでお互いを認識していた。僕は喉から無意識に溢れる歓喜を隠そうともせず、ハハと笑つた。
『さよなら、さよなら!
いろいろお世話になりました。
いろいろお世話になりましたねえ。
いろいろお世話になりました。』
※設定原案『少女椿』(丸尾末広、青林工藝社)
引用詩『別離』(中原中也)