その瞳に溺れる 呼吸をするだけで内蔵が焼かれるような暑さが続く中――エアコンから送られる生温い風を受け桜は畳の上で胡座をかいてスマートフォンとにらめっこをしていた。今はどこの学校でも夏季休業に入り、学生は誰もかれもひと夏の自由を謳歌している。風鈴高校も例外ではなく見廻り当番以外で学校へ行くことはないが、梅宮辺りは自慢の畑をいじりに屋上へ毎日顔を出しているらしい。家族や友人と気兼ね無く過ごす、それはまこち町に来るまで自分には関係ないことだった。
――ピコン
メッセージアプリが誰かの新しい言葉か写真かを受信した音。これが美味しかった、何を見つけた、そんな彼等の些細な日常の一コマがひとりきりの部屋に響く。休みに入ってから蘇枋や楡井と何度か一緒に出掛けたりもした。あらかじめ時間と場所を決めて集まることが緊張することも知った。食べ物を一緒に食べて美味しいというのも、電車に乗って移動する間に些細な会話をするのも時間があっという間に過ぎていく。
――ピコン
帰り際に『また、今度』と言われて胸の奥がぽかぽかしたのも、時間の経過を気にするようになったのも、ひとりの部屋を広いと感じるようになったのも、楽しいを知ったからだと気が付いた。けれど、自分は会話において何も話題を振れないし、ましてや料理の美味しい店や遊ぶ場所を知っているわけではない。そんなヤツと一緒にいて相手は楽しい……のか。ふと、過ってしまった考えにそんなことを言うヤツ等じゃないと頭を振る。とても散歩をする気温とは思えないがそれでも、頭にこびりついたらしくない思考を振り切る為に桜はスニーカーを履いて玄関のドアを開けた。
「あ、桜だぁ」
「十亀」
数百メートル歩いただけで白いTシャツにじっとりと張り付いた汗に嫌気が差していた桜の前に、いかついバイクを手押ししながら現れたのはこちらも白いTシャツとスウェットというラフな出で立ちの男、獅子頭連の副頭取――十亀条。桜が初めて喧嘩で対話をした相手であり国崩大火では町を巻き込んだ抗争に力を貸してくれ、最近ではよくまこち町で顔を会わせるようになった。珍しく今日は下駄でもサンダルでもなくスニーカーを履いている。
「桜さぁ、今から時間ある?」
「……特に用事はねぇ、けど」
「じゃあちょっと付き合って欲しいんだよねぇ」
頬を指で掻きながら笑う男に首を傾げつつ、先程から存在感を放つバイクへ視線を向けた。バイクの良し悪しは分からないがぴかぴかに磨かれたボディは男心を擽られる。視線に気が付いた十亀がシートカバーを開けて自分の瞳の色と似た深緑色のヘルメットを取り出し桜へ手渡してきた。一方ヘルメットを受け取ったはいいもののどうしたら良いのか分からず両手に抱えたまま桜はきょと、と瞬く。その反応にくふくふと笑った男が海に行こう、そう言って桜の手を引いた。
「わっ……」
トンネルを抜け鼻先を擽る潮風の中で桜は海を見た。どこまでも続く海岸線は果てがなく、白い砂浜が眩しい。突然、しかも十亀の運転で海に行くことになるとは。免許を持っているというだけで桜からしたらだいぶ大人びて見える背中が少しだけ羨ましい。十亀の知り合いからたまに走らせて欲しいと譲り受けたこのバイクも久々に走れたことを喜んでいるのか楽しそうにエンジン音を響かせている。
「桜ぁ、お腹空かない?」
「そういえば、朝から、何も食ってねぇ」
風の音に掻き消されないよう二人して声を張っているのが面白くて思わず笑みを溢すと腕を回している先の男もつられて笑う気配がした。それから十分くらいバイクを走らせ目に入った定食屋で昼ご飯にする。十亀が壁に貼り付けられた料理名を次々と読み上げて注文をするので桜は強制的にストップをかけた。どこに吸い込まれるのかテーブルいっぱいに並んだ料理が十亀の口の中へ消えていく。その豪快な食べっぷりに桜も負けじとアジフライにかじりついた。
◇◇◇
腹を満たした二人は海水浴客の人混みから離れ、砂浜にちょうどよく打ち上げられていた流木へ並んで腰かけた。遠くに家族連れや友人同士ではしゃぐ声を感じながら尽きること無く打ち返し打ち寄せる波をぼんやり眺める。波の音に聴覚を集中させるとごちゃごちゃしていた頭の中が次第に空っぽになっていく。視界の端では十亀が海の家で買ったラムネを開けているところで、片手で難なくビー玉を押し込んだ男が桜へ瓶を手渡してくる。
「……もう自分で開けられるっての」
「ん、そうだねぇ。でもオレが開けたかったからさぁ」
ラムネ瓶を開けるのが楽しいのか?と問いかければやや間があった後にそうだねぇ、と。真っ直ぐ海を見つめてやわく細められた常磐色が桜の目にはきらきら輝いて映る。会話自体が決して多いわけではないのに妙に十亀の隣は落ち着く。
「お前、山に行きたいんじゃなかったのかよ」
「あははっ、山ね、また桜に付き合ってもらおうかなぁ」
「……オレと一緒に行ったって……たいして楽しくねぇ、と思うけど……」
言ってしまってから後悔したけど遅かった。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。今日だって、バイクに乗り風を切って走る爽快感も、十亀が思いの外大食いだったことも、波音が心地好いのも、全部初めて知ったことで。素直に楽しかったと口に出来ない自分に対して心底苛々する。
「……俺はねぇ、他人(ひと)と関わるのが苦手なんだぁ。図体デカいし、口下手だし、時間に縛られるのが嫌いだし。でもちょーじと出逢って自然と輪に入れるようになって、自由になれた気がしたんだぁ。だからさ、桜が自然体でいられる場所がこれからもっと増えたらいいなぁと思うよ」
今日だって俺は楽しいよぉ。そう言って笑う十亀の横顔に桜の顔が赤々と染まる。この感情は何だ。嬉しいとも、面白いとも、楽しいとも違う。もっと胸の奥がきゅっと締め付けられて身体中の血液が沸騰するようなそれを桜は知らない。心臓がやけに早く脈打って五感がバカになったみたいだ。
「海の写真、送ってみたら?」
フウリンの子達も桜のこと大事に思ってるでしょ?対の緑色に後押しされて桜は自分のスマートフォンのカメラを起動した。すると映りこんだのは海ではなく自分の顔で、カメラの撮影モードを変更するのに四苦八苦していると横から伸びた手が桜の手からスマートフォンを取り上げる。しかもそのままシャッターを切られ、慌てた自分と笑う十亀の写真が勝手に保存されてしまった。
「あ、おいっ、勝手に、消せよっ」
「後で消しなよぉ、はい、モード切り替えたから」
悪戯が成功した子供みたいに笑う男の手からスマートフォンを奪い返し、盛大な舌打ちと共に景色を切り取る。どこまでも渺々とした青い空と海の写真をメッセージアプリに添付するとクラスメイトから一気に反応がきて通知音が途切れない。あっという間に皆で海に行こうという計画が始まりつつある画面を凝視して桜は肩の力を抜いて笑みを浮かべる。
「ふふ、良かったねぇ」
「お、おぅ」
今まで一枚も写真が収められていなかった画像フォルダにはクラスメイトと撮った写真が少しずつ増えて。今日の写真も何となく消すのは憚られた。自分の姿を見返すのは未だに慣れないけれど居たい場所にいる自分を残しておくのは悪くないと思えるほど、大切、なのだ。力だけが存在証明だった頃の自分には想像も付かない。暗く長いトンネルの先にこれほど息がしやすい隣があったこと。一言だけ、桜はメッセージを返信した。
『オレも行く』
◇◇◇
夕暮れに近い斜の光線を受けて鈍い光沢を放つ波打ち際を裸足で歩く。デニムの裾を捲っていても跳ねた海水が少しずつ染み込んで重たくなるが気にならない。足を浚っていく小波が気持ち良くて歩き続ける桜の数歩後ろを十亀も同じように裸足で足跡を並べていた。大きさの違う二人の足跡が砂浜に残されては波にかき消される。
「ねぇ、桜ぁ」
そろそろ帰らなければならないのだろうか。あまりにも過ぎていく時間が早すぎて、さび、しい。ぎこちなく立ち止まったせいで足元の砂が打ち寄せる波によって崩れ、そのまま流されてしまいそう。あと少しだけ、こうしていたい。離れがたい気持ちを押し殺し十亀へ振り返ると男は僅かに目を見開きそれからいとけない音を紡いだ。
「……帰るの、遅くなっても大丈夫……かなぁ。ちゃんと、家まで送っていくからさぁ」
「え、あ……うん……」
優しくて、蕩けるあまさを含んだ十亀の声に戸惑いながら頷く。まだ、帰らなくていいんだ、と遊び足りない子供みたいなことを思いながら桜は再び歩き出す。心臓の鼓動がうるさくて他の音が耳に入らない。自分の体なのにままならず、動いていないとぐちゃぐちゃの感情が飛び出してしまいそうだ。待ってよお。十亀ののんびりとした声に追い付かれないよう桜は歩調を速めた。
◇◇◇
まん丸の月明りの中、昼間とは打って変わり人がすっかりいなくなった海面が夜空を映しだす。唐突に花火をしようと言い出した十亀が近くのコンビニで購入した線香花火。細くて頼りない紙縒りの先に同じくコンビニで買ったライターで火を灯すとジジッと音を立てて火球が徐々に膨らむ。桜が赤い灯へ見入っていると。
パチッ、パチパチッ――
火花が四方八方に激しく飛び出しそれを映す十亀の瞳の奥で弾けた。
「綺麗だねえ」
「そう、だな」
流木に腰かけなるべく火球へ振動を伝えないよう手を動かさずにじっと火花を見つめる。十亀いわく、線香花火は火をつけて火の玉が落ちるまでの燃えか方に違いがあり、点火から次第に大きくなっていく火の玉は花を咲かせる前に見立てて蕾、次に牡丹、松葉、最後に散り菊と呼ばれているのだという。
「これが最後の一本ずつだねえ」
ふと、風が強まり線香花火の火球を庇うように桜が身を屈めると十亀と肩が触れた。風に揺られた桜の線香花火がそのまま十亀の火球にぴたりとくっつき、一回り大きな火の玉がぱち、ぱちっ、と火花を散らす。
「ふふ、くっついちゃったぁ」
触れた肩から夜の海風でも冷めない熱がじわじわと伝播していく。至近距離でお互いの視線が絡み合い、ほどこうにもほどけない。ついさっきまで冗談めいたことを言っていた男の真摯な眼差しに射貫かれた桜は、口唇を震わせるだけで言葉を忘れてしまった。どうしてこんなにも胸が締め付けられるのか。十亀の手が桜の頬へ添えられると二人の呼吸が同調し、目蓋を閉じなければならない気がした。桜が芽生えた感情を自覚するまであと、数秒。