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    M_kanLan

    @M_kanLan

    がっつり腐(🟥🟩、💊🟥💊🟩、∑ᒧ)や
    ワンクッションはさみたいときの落描きと小説置き場

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    M_kanLan

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    ミスター兄弟が兄弟になるまでの話(前編)。+以上×未満です。
    なんとか一旦着地できたので投げます……続きはいつになることやら……🥲

    緑の存在証明彼がノワール城にやってきたのは、ついこの間のことだ。ミスターLと同じ格好をして、それでいて頭と首元には赤色を纏った男。

    ーーミスター∑。

    初めて顔を合わせたときにそう名前を呟いて以来、彼が口を開いたことは無い。最初こそマネーラなんかが喋らせようと躍起になっていたが、ミスター∑は少し煩わしそうな顔をして身軽な動きで逃げてしまった。そこからしばらくは鬼ごっこをしていたようだが、やがて諦めたのかマネーラが追い回すことはなくなり、無口な人間として仲間達に受け入れられていった。

    エルはミスター∑が苦手だった。
    それはあの悪趣味な赤色が憎き勇者を思い出させるから、というだけの話ではない。
    ミスター∑はいつ見てもぼんやりとした顔をしていて、動きは最小限。何をするにも気だるげなのに、与えられた任務は完璧にこなしてしまうのだ。次々に手柄を立てていく様を見ていると、彼よりも少し先にここに来たエルとしては、焦るというのが正直なところである。しかし最近はヨゲンの勇者達に目立った動きが見られず、手柄の立てようがない。やりきれない思いを抱えたまま、日に日にミスター∑への苛立ちが高まるのを感じていた。




    その日は、というよりその日も特にすることがなく、エルは自分のラボにてもはや日課である愛機エルガンダーの整備をしていた。動作確認を済ませたら、その鋼鉄のボディを隅から磨いてやる。ピカピカになっていく相棒を見ていると、心も晴れやかになっていく気がした。
    不意に背後に気配を感じた。この城で突然何かが現れる、というのは珍しいことではない。なにせ空間や次元に干渉する魔法を得意とする男がいるのだ。今回もきっとそいつだろう。エルは薄ら笑いを仮面に貼り付けたその顔を思い浮かべ、急に背後に立つなと文句を言ってやろうと振り返ると、その予想は裏切られた。
    ラボの入り口には、音もなくミスター∑が立っていた。
    エルは驚いて何か言おうとしたが口を噤む。何を言っても返答がないとわかりきっているからだ。
    ミスター∑は静かにこちらを見ている。
    しばらく二人で見つめ合っていたが、エルはだんだんと居心地が悪くなってきて目を逸らし、エルガンダーの整備を再開した。

    ややあってミスター∑の動く気配を感じた。どっか行ったか、と手は止めず入り口を見やると、扉から少し離れたところで壁に背を預けて座り込む彼の姿が目に入った。エルは流石に意図が読めず少し気味が悪くなり、ダメ元で声をかけた。

    「……オレになんか用かよ」

    ミスター∑はやはり何も言わなかった。
    ただ眠たげな目をこちらに向けて、エルを観察するかのように見つめている。
    どうやら居座るつもりらしい。
    なんとなくそう察して、ため息をつく。しかし苦手な相手とはいえ追い出すのも躊躇われたので、ひとまず放っておくことにした。ミスター∑は動きの少ない人間だ。急に暴れだす可能性は低いと思うが、もしそうなっても磨き上げたエルガンダーで返り討ちにしてやればいい。警戒は緩めず、黙々と作業を進めていく。その間もミスター∑は動くどころか身じろぎ一つする気配もない。

    結局その日、ミスター∑はエルガンダーの整備が終わるまで動かなかった。




    驚いたことに、ミスター∑は次の日もその次の日もラボに現れては、整備が終わるまでじっとその様子を見つめていた。見られながらの作業は居心地が悪く、集中できないからと何度か出て行くように言ってみたが、ミスター∑はさして気にする風でもなく、というかもはや聞こえていないかのように一向に退く気配が無かったので程なくして諦めた。そもそも全く動かないのだし、視線も慣れてしまえばそこまで気にならなくなる。エルはいつしかラボにオブジェが増えたな、くらいにしか思わなくなっていた。

    翌日もやはりミスター∑はラボに現れ、いつもの場所に座った。エルは一度だけそれを横目で見ると、あとは全く意識するでもなくエルガンダーの整備にとりかかった。今日は磨く前に少し改良できそうな部分を見つけたので、手に馴染む工具を片手に作業をする。
    静かなラボに工具の甲高い音が鳴り響く。
    不意にそこへ楽しげな鼻歌が混ざった。少しずれたようなそのメロディは、しかし工具の音と調和して小気味良く流れていく。エルは気分がいいとこうして鼻歌を歌うことが多かった。それは一人でいるときに出てしまう癖のようなもので、今この空間にはもう一人いることなど忘れてしまうほど作業に熱中していることを示していた。

    「機嫌が良いな」

    ぴたりとすべての音が止む。
    エルは思わずばっと音がしそうなほど勢い良く振り返った。

    「お、おまえ……」

    そこには相変わらず気だるげな瞳をこちらに向けるミスター∑がいた。先ほどとなんら変わりないように見える。
    聞き間違いだろうか。自分にはたしかに誰かの声が聞こえてきて、それはこの場所にいる二人のうちのどちらかのものなはずで。自分のものではないとなると、間違いなくこの人形のような男のものであるはずで。
    エルが困惑してミスター∑を見つめていると、その目がかすかに細められるのを見た。

    「勿体無い」

    その口が音に合わせて動くのを見た。
    エルは大きく目を見開き、今度こそ言葉を吐き出した。

    「ーーお前しゃべれたのかっ!?」

    エルの絶叫に対する返事はない。
    ただミスター∑が静かにこちらを見ているだけだった。
    またしばらく二人で見つめ合っていた。そのうちミスター∑がこれ以上喋る気配がないと見て取ると、エルは呆然としながらも作業に戻った。
    再び工具の音がラボに響く。
    その後はエルが鼻歌を歌うことも、ましてやミスター∑が口を開くこともなかった。




    さらにその翌日もやはりミスター∑はラボに現れて、エルも気にする風でもなく整備に明け暮れていた。昨日喋ったことは気になっていたが、あの後一言も話さなかったところを見るとやはり今日も変わらないだろう。気にするだけ無駄だと思い、昨日終わらなかった改良の続きにとりかかる。

    ふと、響く工具の音に混ざって声が聞こえた気がした。
    気のせいかとも思ったが、気になって後ろを振り返る。そこには相変わらず大人しく座っているミスター∑がいたが、なんだかいつもと様子が違う。珍しく目を泳がせて口を開いたり閉じたりいた。
    出しかけた言葉をすんでのところで止めた。なんとなく、こういうときは黙って待っていたほうが良い気がしたのだ。

    「今日は」

    やっと出てきた言葉をそこで止め、ちらりとエルを見やった。彷徨っていた視線がかち合う。エルはわずかな目の動きだけで続きを促した。

    「今日は、歌わないのか?」

    やっぱり喋った、その驚きにまたも目を見開く。それと同時に問われた内容を理解し、昨日鼻歌を聞かれてしまっていた事実に思い当たる。昨日は対して気にしていなかったのに、改めて考えると少々気恥ずかしい。エルはその気持ちを隠すかのようにぶっきらぼうに答えた。

    「……人に聞かせるモンでもねぇだろ」

    ミスター∑はそれを聞くと目を伏せた。
    その顔は心なしか少し残念そうで、ミスターLはなんだか良心が痛むような、自分まで悲しくなるような不思議な気持ちになった。

    「あー、まあ……気が向いたらな」

    いたたまれなくなり、頭を掻きながらそう言うと、ミスター∑はゆっくりと顔を上げた。
    その表情は見たことが無いほど和らいでいて、口元にはかすかに笑みすら浮かんでいる。
    うれしそうに細められた目を見た瞬間、エルは突然心がざわついたのを感じた。
    懐かしいような、寂しいような、泣きたいような。それでいて温かい気持ちになるような。
    不思議な気持ちの波が押し寄せる。見ていられなくなって目を逸らした。
    ふと、一つの感覚が頭をよぎる。
    あの目を見るのは初めてじゃない。
    それも、何度も見たことがあるような。
    そこまで考えて頭を振る。奴と出会ったのは本当についこの間のことだし、奴の表情が変わるのを見たことは数えるほどしかない。馬鹿馬鹿しい考えを紛らわすように、気づけば口が動いていた。

    「というかお前、喋れたんだな」

    声に出してはっとする。相手は無口な人間だった。さっきは喋ったが昨日のことを考えるとこれ以上喋るとは考えにくい。結構動揺してんな、と頭の片隅で冷静に自分を分析する自分がいた。
    しかしエルの考えはあっさり裏切られた。

    「最初にも喋ってる」

    またも驚いて振り返ると、ミスター∑が少し眉を潜めてこちらを見ていた。

    「名前、言ったろ」

    心外だ、とでも言いたげに口を尖らせる彼を見て、エルは思わず吹き出した。

    「ぶっ!ッくく、そうだったな。悪い悪い」

    突然笑い出したエルを見て、ミスター∑が少し目を見開く。なおも笑い続けているのを不思議そうに見ていると、視線に気づいた彼がさも愉快そうに口を開く。

    「っふ、いやぁ、お前もそんな顔するんだなと思ったらつい、ははは」

    それを聞いたミスター∑は不愉快そうにその赤いスカーフに顔を埋めた。
    その様子を見たエルは軽く手を上げて謝罪の意を示すとエルガンダーの改良作業を再開した。

    静かな部屋に響く工具の音が心地いい。
    その後へそを曲げたミスター∑が口を聞くことはなかったが、エルはその部屋の静けさがこれまでとは違う空気をはらんでいるのを感じていた。




    それからというもの、ミスター∑はやはり毎日エルのラボに来てエルの作業を眺めた。あの日を境にシグマはエルと喋るようになった。会話が弾む日もあれば、二言三言話すだけの日もあり、会話の量はまちまちだったが、二人は毎日話をした。いつしかエルはシグマへの苦手意識が消え失せ、代わりに二人で話す時間を気に入っていることに気づいた。なんとなく認めるのは癪だったが、毎日ラボに向かう足取りが軽いことが何よりの証拠であるとわかっていた。


    今日はいつにも増して機嫌が良かった。
    明確な理由はわからない。昨晩良い夢をみたからか、朝食に好物が出たからか。とにかくラボに向かうときに軽くスキップをしてしまうくらいには良い気分だったのだ。
    いつものように整備を始めると、すぐにシグマがやって来た。

    「よぉ!」

    笑顔で挨拶をするエルを見てシグマが少し面食らう。しかしすぐにいつもの気だるげな顔に戻り、小さく手を上げて答えるといつもの場所に座った。エルは素っ気ないともとれるシグマの挨拶に慣れているのか気を悪くすることもなく作業にとりかかっている。

    「すごく機嫌が良いな」

    「まあな!今日はエルガンダーもいつも以上にピッカピカにできそうだぜ〜」

    楽しそうに相棒を磨くエルを眺めているシグマの頬が自然と緩む。最近エルを見ているときによく表情が崩れていることに本人は気づいていない。
    しばらくして、辺りに工具の音が響き始めた。何か不具合でもあったのか、そう言いかけてシグマは口を噤む。エルがあまりにも楽しそうにハンマーを振るっていたのだ。なんだか邪魔するのも悪いと思い、そっと様子も見守ることにした。

    工具の音に鼻歌が混ざる。
    シグマは静かに瞠目した。いつぞやと同じようにエルがメロディを奏でている。お世辞にも上手いとは言えないそれが、不思議とシグマの耳に馴染んだ。
    そうだ、あの時もそうだった。この心地の良い音楽を聞いて少し気分が高揚したんだった。だけどそれでなんとなく口を開く気になって、何気なく声をかけたら止まってしまったんだっけ。惜しいことをしたと少しだけ悔やむと共に、また聞きたいと思っていたのだ。
    シグマは懐かしむように目を閉じる。そうしてしばらくエルの奏でる音に耳を傾けていたが、不意に自分もこの歌を知っている気がした。自然と次に続くメロディが頭に浮かび、それはなめらかにシグマの口から流れ出た。
    一瞬工具の音が止む。
    しかしエルの鼻歌は止まることはなく、ややあって工具も再びリズムを鳴らし出した。
    二人の旋律が重なる。それはハモり、ときにかけ合い、まるでずっと二人で歌ってきたかのように息のあったメロディを奏でていく。
    エルもシグマもこの不思議な現象に驚いていたが、歌うのをやめなかった。もう少しだけこの二人で野原を駆け回るかのようなメロディに浸っていたかった。
    やがて一曲歌い終えると、部屋には静寂が訪れた。いつの間にか見つめ合っていた二人は、言葉もなく奇妙な高揚感を分かち合った。

    「おまえも知ってたんだな、この歌」

    先に静寂を破ったのはエルの方だった。エルの言葉に遠くを見つめながらシグマが返す。

    「なんとなく……誰かと歌っていた気がする」

    今みたいに。
    そう静かに話すシグマにエルは目を丸くする。エルも全く同じことを思っていたからだ。
    エルもシグマもこのノワール城に来る前の記憶がない。生活する上で必要な、おそらく経験に基づいた知識はあるのだが、自分が何者で、どうしてここにいるのか、そういった己のプロフィールに関するところが抜けているのだ。思い出そうとすると靄がかかったように上手く考えられなくなる。俗に言う記憶喪失である。
    だが今は伯爵に拾ってもらい、別段困ることもなく暮らせているので深刻に考えることもなかった。こうしてふと思い出しかけることもなんとなく楽しんでいる。

    「オレたち案外昔は一緒にいたのかもな」

    まあそんなわけないか、と笑い作業を再開する。

    「一緒にいた……?」

    シグマがそうつぶやくのが聞こえて、一瞬そちらを見やるが、何やら真剣な顔をして考え込んでいる様子だったので放っておいた。工具を片づけて、エルガンダーを磨き始める。
    数時間後、エルが予想通りいつもより輝いているエルガンダーを満足そうに見上げ、シグマに声をかけるまで、彼は難しい顔をして考え事をしていたようだった。




    「オレがどうして赤がキライなのかって?」

    翌日、いつもどおりエルガンダーを磨いていると不意にシグマに尋ねられた。
    珍しいこともあるものだ。シグマは普段エルに対してこういった質問はしない。するとしても何かいい事があったのか、とか次の任務は何だ、とかそういう取り留めもない話だ。不思議に思いつつもその質問に答えてやる。

    「緑の方がかっこいいから」

    そう言うとシグマは顔をしかめた。どうやら求めていた回答では無かったようだ。エルは肩をすくめ、改めて理由を考える。
    憎きヨゲンの勇者の色だからというのはある。けれど勇者のことを知る前から赤は嫌いだったはずだ。では、なぜ。
    うんうんと頭を捻ってみるが、一向にこれといったものが見つからなかった。

    「あー、なんでだろうな。もうわかんねえや」
    「そうか」

    一言、がっかりしたような顔をして返された。この男は表情に乏しいかと思いきや案外分かりやすく顔に出る。そうあからさまに落胆されると面白くない。むっとして今度はエルが問いかけた。

    「そういうおまえはなんで赤が好きなんだよ」

    エルの問いかけにシグマの視線が遠くへ飛ぶ。
    しばしその目が虚空をさまよい、スッと地面へと落とされた。同時にシグマは小さく首をかしげる。

    「なんでだろう……かっこいいから?」
    「は?緑の方がかっこいいだろ!」

    聞き捨てならないとでも言うようにエルはすぐさまシグマに食って掛かった。その様子をぼんやりと見ていたシグマがたしなめるように口を開く。

    「緑もキライじゃない。落ち着く色だから」

    予想外の返答に少し面くらうも、ゆっくりとエルの口角が上がっていく。少々引っかかるところはあるが、この男に自分の身に着けている色を褒められるのはなぜだかとても良い気分だった。
    わかってんじゃねえか、と口に出そうとしてシグマに遮られた。

    「でも身につけるなら絶対赤」
    「ケッ、そうかよ」

    喜色満面だったエルの顔が、その一言で急に不服そうな色に変わる。
    ころころと変わるエルの顔を見てクスリと笑った。その様子はシグマにずっと会えてない弟を思い出させた。
    そこまで考えてぴたりと思考を止める。

    「……弟?」

    おかしい。
    自分の記憶には弟などいない。ここに来る前のことを急に思い出したのだろうか。けれど思い出したとて気がついたらまた忘れてしまうのだ。今回も例に漏れず次第に薄れていく自分に弟がいたという感覚。だがシグマはこれを忘れてはいけないと直感で思った。必死に記憶を繋ぎ止め、弟の情報をたぐり寄せる。
    そんなシグマの心中を知らず、脈絡なく飛び出した単語にエルは怪訝な顔をした。

    「あ?なんだ急に。おまえ、弟いたのか」
    「いた、かも……うっ」

    突然シグマが頭を抑えて苦しみだした。エルはぎょっとして作業を止め、シグマのもとへ駆け寄った。

    「おい!大丈夫か!?」
    「うぅ…おれ、は……」

    何かがこれ以上思い出すなと警告を鳴らす。
    それでも絶対に諦めてはならないと叫ぶ自分もいた。
    うめき声を上げて苦しむシグマを揺さぶっていたエルだったが、やがてぴたりと静かになったシグマに眉根を寄せる。

    「おい…?」
    「いた」
    「ま、まだ痛むのか!?」

    心配そうに声を上げるエルにゆるゆると首を振る。そしてシグマはエルを真っ直ぐ見つめ、口を開いた。

    「おれには、弟がいた」

    先ほどのような自信の無さは少しも見られなかった。確信を持ってそう断定するシグマに、エルは知らず息を呑む。

    シグマの眠たげな目の奥で何かが光るのを見た。




    その日は、その後一切喋らなくなったシグマを訝しみながらエルガンダーの整備に戻り、特に何もなくラボを後にした。流石にあれだけ苦しんでいたシグマが心配だったが、ラボを出るといつものようにふらっとどこかへ行ってしまった。

    次の日やってきたシグマはラボに入るやいなや弟のことを思い出した、とエルに話し始めた。

    「ずっと一緒にいた、仲の良い弟がいたんだ。顔も名前もわからないけど、兄さん、っておれを呼ぶ声だけは、なんとなく思い出した」

    珍しく饒舌に語り、遥か遠くを見つめて懐かしむように目を細めるシグマを、エルは何故か素直に祝福する気持ちにはなれなかった。記憶が戻るのは喜ぶべきことだと思う。けれどエルは自分から記憶を取り戻そうとしたことはないし、心のどこかで思い出したくないと思っているのにも気がついていた。

    「……へぇ。思い出せて良かったな」

    それでもなんとなく祝っておいたほうがいい気がして絞り出した声には、わずかに暗い色が乗っていた。それをシグマは見逃さなかった。

    「エルもきっと思い出せるさ」

    シグマの励ましの言葉になんと言っていいかわからず、複雑に気持ちが渦巻いたまま、エルはエルガンダーの整備を続けた。




    異変に気づいたのは、シグマが記憶を取り戻してしばらくたってからだった。
    いつものようにラボに現れたシグマの顔は、心なしか疲れていた。なんとなく言及してみても、昨日の任務がなかなかにハードだったという旨の言葉しか返ってこなかったので、そういうものかとその場は飲み込んだ。
    しかし日に日にシグマの顔はやつれていった。気だるげな目はさらに細まり、その下に刻まれた隈は次第に濃くなっていく。返事も返ってこないことが増え、とうとうエルはシグマを問い詰めることにした。

    「眠れてないんだろ」
    「え」
    「隈ひでえぞ」

    図星だったのか、シグマが目を見開く。そうでもない、と返事があったが先ほどの反応を見るにそれが嘘であることは明白だった。やはりこの男は顔に出やすい。

    「何かあんのか」

    努めて声を落ち着けてそう問いかけた。
    なおも渋るシグマを根気よく待っていると不意に視線がぶつかった。そのまま言ってみろ、と促す。しばらく視線をさまよわせて躊躇っていたシグマだったが、やがて観念したようにぽつぽつと話し出した。

    「その、考え事、してて」
    「考え事?」

    シグマが憔悴しきった顔でかすかに頷く。伏せられた瞳には不安の色が滲んでいた。

    「最近、妙に感じるんだ。自分の存在が不安定、みたいな、感覚を」

    エルはゆらりと揺れる翡翠の目を見た。
    シグマの話を聞いたからか、その目がそのままゆらゆらと蜃気楼のように歪んでシグマ自身も消えてしまうような錯覚を覚えた。その感覚をふり払うように頭を軽く振る。
    そんなエルに気づかず、シグマは変わらず顔を伏せたまま言葉を零した。

    「おれ、本当にここにいるのかな」

    ぽつりと呟かれたシグマの悩み。それを拾ったエルはしばし黙っていたが、やがて整備道具を置いて立ち上がり、怖い顔をしてシグマの方へ近づいていった。そうしてシグマの目の前まで来ると、そこに座り込み、おもむろに手を伸ばしてシグマの腕に触れた。
    予想外の動きにシグマが軽く体を引く。

    「な、なに」

    その言葉には答えず、エルはその手でペタペタとシグマの手や肩を触り、ほっとため息をついたかと思えばキッとシグマを睨みつけた。

    「こうやって触れられるってことは実体があるってことだ。だからお前は存在してる」

    きっぱりとそう言い切ると、エルはなおも怖い顔でそれから、と続ける。

    「ビビってるわけじゃないが、オレは幽霊とかそういう類がダイッキライなんだ。だから間違ってもその手の話はするんじゃねぇ!」

    ビビってるわけじゃないが、ともう一度付け足して念を押すエルにシグマは目を瞬かせた。
    彼はどうやら、シグマの実体が無いのだという意味でとったらしい。あっけにとられていたシグマだったが、食い違っていたことに気づくと慌てて訂正をした。

    「おれが言ってるのは自我の話」
    「自我ぁ?」

    頷くシグマにエルはふむ、と考えこむ。
    なるほど、シグマは今自分の精神が不安定な状態にある感じがしているのか。エルはそう頭の中を整理した。同時に、言われてみれば自分もそんな感覚に覚えがある気がしたが、自分は自分だし、難しいことはわからないと気にしないことにした。
    そうして考えていると、ふと頭にひとつの言葉が浮かぶ。

    「ワレオモウ、ユエニワレアリ」

    するりと口から出たそれにハテナを浮かべるシグマを見て、エルは頭を掻きながら言葉を続けた。

    「あー……多分どっかで聞いたコトバだ。たしか、そうやって考えられてる時点でお前の自我は存在してる、みたいな意味だった気がする」
    「ふーん……」

    あまり響いていない様子のシグマを見てむっとする。しかしすぐに何かを思いついたのか、ぱっと顔を明るくしてシグマの肩を叩いた。

    「そうだ、どうしても不安になったらオレを思い出せよ! オレはシグマと話してるんだから、オレとの記憶があるならお前はシグマだ」

    名案だとばかりにエルはドヤ顔でそう言い切った。

    「おれは、シグマ」

    エルの言ったことをなぞるように、シグマは呟いた。
    エルの言葉がシグマに染み渡る。
    少々無理のある理屈だ。シグマは素直にそう思った。しかし先ほどの小難しい言葉よりも、エルの言葉の方がなんだかすとんと腑に落ちた。

    「……そうだな。そうしよう」

    手を置かれた肩に熱を感じる。シグマはそこから己が実体を持っていくような、芯が通ったかような感覚を覚えた。




    それからシグマはよく眠れるようになったのか、顔には生気が戻り、ちゃんと会話もできるようになった。エルは密かに胸を撫で下ろし、今日もエルガンダーの整備に励む。シグマも相変わらずエルのラボに来て、その様子を見ていた。
    シグマは楽しそうに作業をするエルを眺めるのが好きだった。彼を見ていると、なんだか心が温かくなるのだ。
    しかし最近はそう思うと同時に少し心が沈んでしまう。シグマはため息をついた。

    「お前が弟だったら良かったのにな」

    突然そうごちたシグマに怪訝な顔をする。

    「なんだよ、弟と仲良かったんじゃないのか?」
    「そうだけど、違う」
    「はぁ?」

    いまいち要領を得ない返答にエルは顔をしかめた。そして最初の言葉を思い返すと、目の前のエルガンダーを優しく撫でて言った。

    「……生憎と、オレにはすでに魂を分けたブラザーがいるからな」
    「そうだよな」

    予想通りの解答にシグマは小さく苦笑した。その様子を横目で見たエルは、彼の笑い方に寂しさが含まれているのを見て取り、少し考え直す。

    「だがまあ……どうしてもっていうんなら、考えてやらなくもないぜ」

    そう言って振り返ると、少し目を見開いたシグマと目線がぶつかる。エルはニヤリと口の端を釣り上げて続けた。

    「ただし、オレが兄だけどな!」

    途端にシグマの顔が険しくなる。

    「ふざけるな、おれが兄だ」
    「いーやお前が弟だ!!」

    静かだったラボにぎゃいぎゃいと言い争う声が響く。

    「弟より背の低い兄がいるかよ!」
    「いるだろ。それにおれの方が強いし」
    「な ん だ っ て 〜 !?」

    売り言葉に買い言葉で、カチンときたエルは衝動に任せてエルガンダーに飛び乗った。勇者のため備えに備えた愛機だが、そんなことを気にする余裕なんてないほどに頭に血が上っていた。

    「そんなに言うなら証明してみろ! お前がオレ達より強いってことをな! 行くぞブラザー!!」

    エルの掛け声に、シグマが緩慢な動きで立ち上がる。面倒事は避けたい質だが、こればっかりは譲れない。
    シグマは少し腰を落として構えると、エルガンダーを真っ直ぐ見据えた。

    すぐに飛んできたミサイルをひらりと跳んで躱し、着地と同時に腰を深く落として右手に力を込めると、間髪入れずに繰り出される鉄の拳に叩きこむーー

    ーーぴたり、とすんでのところで手を止め、大きくジャンプして後ろへ飛び退いた。

    ドゴォンと大きな音を立て、シグマがいた場所にエルガンダーの拳がめり込む。
    シグマの動きに違和感を覚えたエルだったが、攻撃の手は緩めずに、持てる武器を全て使ってシグマを攻め立てる。

    「おい、どうした!?オレ達より強いんじゃなかったのかぁ!!?」
    「……ッ」

    ミサイルや拳だけでなく、踏みつけや吸い込み攻撃、果てはレーザーまで使って追い込んでみるも、シグマは一向に反撃してくる様子がない。
    舐められている、そう感じたエルはさらに攻撃を強めようと大量のミサイルを放つ。
    シグマはなおも加速する攻撃に少しだけ焦りを覚えた。同時にエルの攻撃の手札の多さに思わず感心してしまう。
    ……でも、躱すだけならまだいけるな。
    シグマは心の中で呟き、激しい攻撃のなか無傷のままひらりひらりと避け続ける。

    そうしてシグマとエルの攻防は長く続いた。

    エルガンダーの燃料が切れるのと、シグマが座り込むのはほぼ同時だった。
    シグマに突っ込んだエルガンダーが急停止し、乗っていたエルはその勢いのままべしゃり、と音を立ててシグマの隣に投げ出された。

    「ぐえっ! いったたたた……くそ〜っ」

    悔しい。
    これだけ攻撃をして、反撃さえされなかった。
    ぎり、と拳を握りしめ、肩で息をするシグマをキッと睨みつける。

    「お前っ、なんで攻撃してこなかったんだよ! 舐めてんのか!?」

    喚くエルに、シグマは気まずそうに目を逸らした。

    「……お前が毎日、整備してるの見てたから、その……」

    できなくて。
    小さく続けられた言葉に目を見開く。
    勝負の最中にそんなことを考えて攻撃をためらう奴がいるか、やっぱりおちょくってんだろ。
    そんな言葉が浮かんだが、ついぞ口に出すことはできなかった。よくわからないけれど、温かいようなくすぐったいような不思議な気持ちが湧き上がってきたからだ。
    ぐるぐるといろんな感情が胸中に渦巻く。しかしすぐに、なんだか馬鹿馬鹿しくなって、ごろんとシグマの横で大の字になった。

    「はぁ〜っ……もうなんでもいいや」
    「よくない。おれが兄」
    「お前まだ言うのかよ……」

    なおも兄という肩書に拘り続けるシグマに呆れた目を向ける。

    「そんなにオレの兄貴になりたいならよ。もしオレがピンチになったらちゃんと助けてくれよな、オニイサマ?」

    ニヤリと笑って冗談半分にそう投げかけると、シグマは目を見開いた後、嬉しそうに少しだけ頬を緩めた。

    「……必ず」

    短い一言だったが、強く、重く、はっきりと口にしたシグマにエルは少し気圧された。
    その真剣な瞳で見つめられると胸の奥がむず痒くなる。見ていられなくなって、ごろりとシグマに背を向けた。

    自分のブラザーはエルガンダーだ。それは何があっても変わらない。
    けれどやはり、エルガンダーはどこまで行ってもロボットだ。もの言わぬ兄弟はいつでも共に戦い、自分の全てを受け入れてくれるが、こうして喧嘩をすることもない。そう考えると、シグマと兄弟になるというのも、まあ悪くはないのかもしれないと思った。
    かすかに笑って起き上がると、エルは辺りを見渡した。

    「……にしても、どうすっかな、この部屋」
    「……あ」

    自分達が激しい戦いを繰り広げたラボは、見るも無惨な状態になっていた。二人で顔を見合わせ、とりあえず破壊した壁や床の瓦礫を撤去しようと立ち上がった。

    その後、二人揃ってナスタシアにこっぴどく叱られ、大量の反省文を書かされたことは言うまでもないだろう。




    そうしてシグマとラボにいるのがすっかり習慣になってしまったある日。

    それは突然終わりを迎えた。

    エルはいつものようにラボに着て作業を始めたが、すぐにやって来るはずのシグマはなかなか来なかった。それだけなら何度かあったので、今日も寝坊かと大して気にしていなかったのだが、いつまで経ってもシグマは現れない。結局その日はシグマが来ることはなかった。エルは少しだけ寂しい気持ちに気づかないフリをして、そんな日もあるかとラボを出た。
    この後は何をしよう。最近はエルガンダーの改良案を図面に書き起こしてばかりであまり動いていなかったし、少しトレーニングでもしようか。そんなことを考えながらぶらぶらと城内を歩いていると、向こうからナスタシアが歩いてくるのが見えた。彼女の姿を見てふと思いつく。ナスタシアならシグマをことを何か知っているんじゃないか。何気なくそう考えてエルはナスタシアに軽く挨拶をしてたずねた。

    「シグマを見なかったか?」
    「シグマとは、ミスター∑のことですか?」

    質問に質問で返してきたナスタシアに頷く。

    「ちょっと前からオレがブラザーの整備をしてるところにアイツが顔を出すようになってたんだが、今日は来なくてよ」

    エルがそう言うと、途端にナスタシアの顔色が悪くなった。

    「確認します」

    そう言うやいなや彼女はどこかへ向かって走り出した。エルはそんなナスタシアを見てタダ事じゃないと思い、追いかけることにした。ナスタシアは案外走るのが速く、エルは何度も見失いかけたが、シグマのことを案ずる気持ちだけでなんとかついて行った。複雑な城の中を二人で駆けまわっていると、やがてひとつの扉の前にたどり着いた。
    ナスタシアは少しも躊躇わずにその扉を開け放った。

    「……しまった!」

    やや遅れてエルがそこに入ると、そこはエルの自室と同じくらいの小さな部屋だった。

    「はあっ、はあっ……ここは?」

    息を整えつつナスタシアにたずねる。
    しかし彼女は呆然としたまま、エルの質問に答える気配がない。

    「おい?」
    「……あなたには関係のないことです。自分の部屋に戻りなさい」

    エルは取り合おうともしないナスタシアに苛立ちを覚えた。

    「おい、こっちはここまでついてきたんだぞ? ここがどこかくらい教えてくれてもいいだろうが!」

    食い下がるエルを少し見やり、ナスタシアは小さくため息をついた。そしてしぶしぶといった様子で口を開く。

    「ここはミスター∑の部屋です。」
    「シグマの部屋……ここが」

    エルはぐるりと部屋を見まわす。随分と殺風景な部屋だ。家具も机と椅子とベッドしかなく、壁には開け放たれた小さな窓がひとつだけ。
    自室というより、独房のような出で立ちだった。

    「初めて知った。でもここにいないとなると、どっかぶらついてたりするんじゃねえか」

    窓を開けたまま外出するなんて不用心なやつだな、なんて呑気に考えていたエルにナスタシアは力なく首を振った。

    「彼はもう、ここにはいません」
    「……は?」

    その一言にエルは顔をこわばらせる。
    しかしすぐに気を取り直してぎこちない笑みを作った。

    「は、はは……そんなの見りゃわかんだろ。あ、任務か? またあいつだけ行かせたのかよ、オレにも出撃要請出してくれって伯爵に」
    「いえ。ミスター∑は、この城から逃げ出しました。要するに、離反したのです。」

    諭すように淡々と告げられた言葉に、エルは耳を疑った。

    ーーシグマが、離反した?

    「……おい、冗談キツいぜ。」
    「冗談ではありません」
    「じゃあなんだ! あいつがオレをっ、オレたちを裏切ったっていうのか!?」
    「ええ、だからそう言っているでしょう」
    「なっ……」

    エルは言葉を失った。
    全身から血の気が引いて、足元がぐらつくような、絶望感。
    そんなそぶり、一度も見たことがない。昨日だって、一昨日だって、ラボで一緒に話をしていたのだ。急にいなくなるなんて、そんなこと。
    取り乱し、呆然とするエルの様子を見て、ナスタシアは少し考えた後に口を開いた。

    「落ち着いて聞きなさい。ミスター∑は、ワタクシがヨゲンの勇者を洗脳した際に生まれた、勇者のもう一つの人格です。」
    「…………は」
    「それが逃げ出したということは、おそらくワタクシの洗脳が解けて人格が元に戻ったのでしょう」
    「ちょ、ちょっと待て!」

    忌々しい、と小さく吐き捨てるナスタシアに待ったをかけた。
    理解が追いつかない。こいつは今なんと言ったのか。

    「シグマが、勇者……?」

    ナスタシアに言われたことをひとつひとつ噛み砕いて必死に理解しようとする。
    言われてみると、記憶の中の奴らは確かに似ている気がした。いや似ているなんてもんじゃない、印象や目の色は違うが瓜ふたつだ。なぜ気が付かなかったのだろう。
    混乱する頭を抱えていると、ふと机の一番上の引き出しからわずかに飛び出る鮮やかな赤色が目についた。ふらふらと引き寄せられるように近づき、引き出しを開けると、それはシグマがいつも身に着けていた赤いスカーフだった。
    エルはそれをそっと手に取った。

    「……なあ、あいつは…………消えたのか?」
    「……わかりません。勇者の中で眠っているかもしれないし、勇者の人格と融合してしまったかもしれない。あなたの言うように勇者の人格が完全に元に戻って、ミスター∑の人格は消えてしまった可能性もあります」

    最後の言葉が脳内で反響する。
    ナスタシアの推測をぼーっとしながら聞いた。

    「しかしあなたには知る必要のないことです」

    ざわりと空気が変わる。
    エルが振り返るのとナスタシアの攻撃がエルに直撃するのは同時だった。

    「がっ!?」

    エルはその場に倒れこみ、動けなくなる。
    それでもなんとか顔を上げ、ナスタシアを睨みつけた。

    「な、にすんだ……!」
    「ミスター∑に関する全ての記憶を抜きます。彼の情報は、アナタに悪影響を与えかねません」

    ナスタシアの言葉にエルの顔が青ざめた。
    冗談じゃない、シグマはどこかへ行ってしまったというのに、思い出まで取り上げようというのか。
    エルは抗うようにかぶりを振った。

    「や……やめろ……っ」
    「抵抗しても無駄です。ワタクシのサイミンジュツからは逃れられない」

    何かが脳みそに入り込むような不快感。
    忘れるもんか、と必死に思い続けようとするも、次第にノイズがかかっていくシグマの顔。

    (シグ、マ……)

    縋るように呼んだ名前は、声になっていたのかわからない。徐々に暗くなる脳内と視界に逆らえず、エルは意識を手放した。






    気がつくと、エルは自室にいた。
    頭がぼーっとする。自分は何をしていたんだっけ。
    ……そうだ、エルガンダーの整備が終わったからひとまず自室に戻ってきたんだった。この後はトレーニングでもしようと思っていたはずだ。
    だんだんと覚醒していく頭で状況を理解する。その前にひと息つこうと椅子に腰掛けようとして、ふと自分が手にしているものに気がついた。

    「っ赤い、スカーフ……!?」

    思わずぱっと手を離した。その色に全身の血が沸騰する感覚を覚える。
    エルは赤色が大キライだったはずだ。なのになぜ手に持っているのか、何も思い出せない。
    しばし混乱していたが、はっと我に返ると床に落ちたそれを乱暴に掴んだ。そして窓辺まで駆け寄って窓を開け放つと、そこから投げ捨てようとして思いっきり振りかぶった。

    「……ッ!?」

    しかしそこで動きが止まる。
    どうしてなのかはエルにもわからなかった。ただこのまま腕を振り下ろせばいいだけだ。なのに、それができなかった。
    体が言うことを聞かない。
    振りかぶった状態でわけもわからぬまましばらく固まっていたエルだったが、やがてその腕を降ろした。あとで捨てればいいか、などと考えて、それでも目に入れたくないからと、赤いスカーフを机の引き出しの一番下の奥の奥へしまいこんだ。
    見えないとはいえ、赤いものが自室にあるということが妙に落ち着かなくて、早くトレーニングをしに行こうと部屋を飛び出した。




    「はぁぁぁぁ……」

    自室にエルの盛大なため息が響く。
    どこで拾ったのか、謎の赤いスカーフを手にしてから一週間ほどが経った。その間、エルは毎日このスカーフに悩まされている。

    赤はキライなはずなのに。

    「なんでこう、いちいち見ちまうかな……」

    引き出しの一番下の、奥の奥にしまったはずのそれが、いつでも捨てられるようになどと理由をつけて、今では引き出しの一番上を陣取っている。それだけでなく、エルは机に向かう度にそこを開けて赤いスカーフを眺めては、不快な気分になり、しまうということを繰り返していた。このスカーフを見ると、今まで赤色を目にしたときに感じた苛立ちのようなものだけでなく、どうしても思い出せないことがあるときのもどかしさや焦燥感も感じるから余計に気になってしまうのかもしれない。
    エルはいい加減、この赤色に悩まされるのが嫌になっていた。
    捨てられないのは、このスカーフに何か原因があるのかもしれない、そう思い一度しっかり調べてみようと赤いスカーフ取り出した。

    「……お?」

    今まで気が付かなかったが、スカーフを机に広げてみると、四つ折りにされた小さな紙が包まれていた。

    「なんだこれ。メモ……?」

    恐る恐る紙をひらくと、そこには既視感のある筆跡でこう綴られていた。

    『エルへ
    おれはここにいたよ。シグマ』

    読んでみて、目を疑う。
    これは自分に宛てた手紙だ。けれど全く心当たりが無かった。どうにか思い出そうにも、短すぎてなんの手がかりも得られない。
    それに、差出人の名前も。

    「……シグ、マ?」

    ーーその名を口にした途端、ぶわり、と頭の奥で何かが吹き出した。
    同時に激しい頭痛が襲ってくる。

    「ゔっ……!?」

    あまりの痛みに涙があふれる。
    とめどなく脳内をかけ巡るそれに頭を振って抵抗した。

    「うぐ、うぅ……やめろ……」

    ーーエル。

    自分を呼ぶ、その声。
    聞こえた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
    ダメだ、逃げちゃいけない。
    思い出せ。
    声だけじゃない、どんな姿で、どんな奴で、どんなことを話したのか。
    あいつの名前は。

    「シグマ」

    記憶の波が勢いを増す。痛みもそれに伴って強くなる。
    がんがんと響く頭を抑え、ぼろぼろと涙をこぼしながら、何度も何度もその名前を呼んだ。

    次第にはっきりしてくるそいつの像。
    眠たげな瞳が滑り、視線がかち合う。
    自分より少し高い、ゆっくりと発せられる、落ち着く声。
    言葉少なだが、そのぶん饒舌に語る表情、自分の好きな緑の双眼。必ず守ると強く誓うようにこちらを射抜いたあの目。

    もう、会えない人。

    彼に関する全ての記憶が戻ったとき、エルはだらんと脱力した。

    「はは……」

    半分開いたままの口から乾いた笑いがこぼれる。エルの赤い両目からは絶えず涙があふれていた。

    せっかく思い出せたのに、こんなのあんまりだ。

    シグマは行ってしまったのだ。自分を置いて。
    兄になりたいなどと言っておきながら。
    どこか遠く遠く、実体も持たないような、手の届かない場所へ。

    呆然と、虚空を見つめた。
    痛みは引いたものの、まだくらくらとする頭で思い出したばかりのシグマの記憶を辿る。
    彼との思い出を彩るのは、翡翠の瞳と、目に痛い真紅。

    ふと視線を机に落とした。そこには記憶と同じ真紅が広がっていて、その上にはクシャクシャになったシグマの手紙が置かれている。

    ーーおれはここにいたよ

    それらを認めた途端、シグマの存在が急に近く感じられた。
    手を伸ばせば届く距離にいるかのように。
    エルの目に光が宿る。

    やっぱり、諦めきれねぇ。

    エルは強く拳を握りしめた。
    まだ希望がなくなったわけじゃない。ナスタシアも言っていたはずだ。彼は勇者の中で眠っているかもしれない、と。
    それなら、勇者を倒せばシグマを取り戻すことができるのではないか。どうせこれからも勇者とは戦うことになるのだ。奴を倒すことがエルの使命であり、宿命なのだから。

    ヨゲンの勇者、憎き赤い男。
    奴を倒したら、シグマを目覚めさせてやろう。
    打倒勇者の明確な目的ができた。

    「……待ってろよ、シグマ」

    そう呟いて目元を雑に手で拭い、大キライなはずの赤色を大切に大切に胸に抱いた。



    ーーーーーー



    さらさらと走らせたペンを置いて外を眺める。
    これから消えるというのに、シグマは穏やかだった。

    (大往生ってこんな感じなのかもな)

    浮かんだ考えにひとり苦笑する。
    そうしてゆっくりと目を閉じ、これまでのことに思いを馳せた。

    きっかけは、あの鼻歌だったと思う。
    初めて聴いたとき、シグマは眠りから覚めたような感覚を覚えた。おそらくそれまでは自我がほとんど無かったのだろう。それからエルと話をするうちにだんだんと自我が覚醒していった。
    二度目に聴いたとき、ふたりで一緒に歌ったあのときを境に、今度は記憶を取り戻していった。しかし同時に、自分という存在が不安定になるのを感じていた。記憶が戻る度に、人格も元に戻っていく。まるで『シグマ』という人格が元の人格に侵食されているような恐怖を味わった。その恐怖は大きく膨れ上がり、夢にまで出るようになって眠れなくなったこともあった。けれどそれをエルに看破され、そうしてあの言葉をもらったのだ。

    ーーオレとの記憶があるならお前はシグマだ

    あの瞬間、『シグマ』は完全に元の人格から分かたれた。
    それからはいくら記憶が戻っても自我が侵されることはなかったし、戻っていく記憶をどこか他人事のように受け止めていた。
    そうして半分ほど記憶が戻ったところで、シグマは理解した。
    自分が何者であるか。すなわち、ヨゲンの赤き勇者であるということを。
    この人格は、ナスタシアが勇者を洗脳した際に生まれた存在だということを。
    それを悟ってから、シグマは急速に記憶を取り戻した。過去の冒険のことや、勇者の仲間達のこと、敵であるこの城の者達との戦闘も思い出して、今では勇者のほとんどの記憶がある。
    そしてもちろん、彼のことも。

    (ごめんな、お前の目を覚ましてやれなくて)

    シグマは気づいていた。エルが、ミスターLが自分と同じように洗脳された勇者の弟であるということに。
    それなのに元に戻そうとしなかったのは、自分の元の人格への意趣返しであった。
    記憶の中の弟は、シグマではなく勇者の弟で、そのギャップととても仲の良い二人の様子に思い悩んだこともあった。
    元に戻ってしまえば、彼は勇者の弟になってしまう。それが無性に悔しかったのだ。エルにはエルでいてほしかった。シグマを知る彼のままで。

    (……そろそろか)

    シグマは意識を現実に戻した。どうやら元の人格に戻るときが近づいているようだ。
    予感は突然だった。いつものようにエルとラボで別れ、軟禁状態の自室に戻ったとき、急に理解したのだ。自分はもうすぐ消える、と。
    勇者の記憶を取り戻してからなんとなくそうなる気はしていたから、いつそのときが来てもいいように準備はしてきた。
    心残りは、エルに一言も別れを言えなかったことだけだ。しかし逆に別れづらくならなくて良かったのかもしれないと思い直す。

    机上の紙切れを折りたたみ、首元の赤いスカーフをしゅるりと取って紙を包む。少し考えて、それを引き出しの一番上にしまった。
    それから、大して何も持っていないが一応部屋を確認する。この身体の人格が戻る前に、ノワール城を出るつもりだ。ヨゲンの勇者がここにいたら戦闘は免れない。シグマでなくなるとはいえ、短い間だったが不自由なく住まわせてもらっていたここを荒らすようなことはしたくなかったし、何よりエルとは戦いたくなかった。
    監視の目が弱くなる時間や逃走経路も確認済みだ。唯一懸念があるとすれば、神出鬼没の道化師に出くわす可能性があること。だがもし見つかっても撒くだけならなんとかなるだろう。

    一通り確認して窓枠に足をかけたとき、ふと脳裏に浮かんだのはやはりエルの顔だった。そして彼との思い出が走馬灯のように頭を駆け巡った。
    こうして自分が最後の瞬間まで『シグマ』でいられるのは間違いなくエルのおかげだ。彼の言葉でシグマの存在は確立したのだ。この短いながらも充実した思い出が、シグマがシグマであることの何よりの証だった。


    エル。
    おれの存在証明になってくれてありがとう。


    エルへの感謝も思い出も、大切に胸の奥へしまいこんで。
    緑の光をその目にたたえ、シグマは城を抜け出した。
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