鳥の囀りと獣の気配を纏わせた、霧がかる峠道を通り抜ける。ガタガタと車体を揺らしながら真っ白な世界を過ぎると、眼前に広がる景色はついに開け、混ざり合った空気が空一面に躍り出ていった。
黒一色に染め上げられた広大なキャンバスに散りばめられた幾光年の灯。
山々に囲まれた先にあるそこは周囲を一望できた。
常緑の針葉樹に混じり彼処に赤と黄が顔を出している。ざわざわと秋の夜風が一帯を吹き抜けた。
荘厳で、幽寂で、精彩であった。
運転席の男はハンドルを緩く切り舗装道から逸れる。手つかずの小脇に年代物の愛車を停めると車外へと出で立った。
夜が終わろうとしている刻だった。
天気のいい、どこまでも広がる天井は雲一つない。煌々とした丸い円は山々の間へ姿を隠そうとしていた。その反対側では、橙色の光が夜と混ざり合って淡く滲みを広げていた。
男は露で湿った土を踏みしめる。
道路の際へと躍り出ると、ぐるりと左から右へと視線を動かした。柵のないそこは、急斜面のその先に霧がかる麓の家々を、ぼんやりと男の目に映し出していた。
つい先ほどまでその霧の下で肉体労働、もとい悪霊退治をしていた男の火照った身体を夜風が撫でていく。
巻くっていた袖をおろすと、古傷を飾っていた逞しい腕は土で汚れたシャツが隠した。
ぽろぽろと服についた土くれが地面へと落ちる。
胸元のポケットに押し込んでいた、潰れた箱を逆さにすると愛用の紙巻煙草がぽとりと掌に転がった。
最後の一本。残っているか否かは半々と言ったところだったが、この男はその運を見事に勝ち取った。本日一番の安堵の息をつきながら男は最後の褒美を口にくわえた。そこらでは手に入らないお気に入りの品だ。
頬を撫でる初冬の空気と、スパイシーな香りにほんのり見え隠れする甘い匂い。
脳髄を震わす重たい口通りに一瞬にして目が覚めるようだ。
ゆっくりとその甘美さを噛み締めながら、直下の人間世界を遠望していると停めていた愛車から目の下に隈を携えた、くたびれた相棒が降りてきた。
「疲れた…」
助手席に座っていたくすんだ青髪の男は、重たい足取りで車外へと這い出ると、不整地の足元に向けていた顔を思わず上げた。
視線の先、一足早く明け方の混じりあった淡い光を浴びていた男の先に広がる茫洋たる天蓋に目を奪われた。
「すごいな…」
無意識のうちに口からこぼれ出る。
遥か遠くに鎮座する星々が夜の空を彩っていた。標高と相まって、澄んだ空気がその輝きを増長しているようでもあった。
この峠が絶景であるというのは、依頼主との雑談で聞いていた。依頼を終え、この村を去る前に是非とも見ていってほしいと、目を輝かせながら切望されたのはつい昨日のことだ。
いざ任務を遂行し終え、あとは帰るだけの状態になったのは四半刻前だ。直前まで働いていた身としては一刻も早く帰りたい気持ちが上回っていた。
わざわざ山越えをせずとも、麓の村から隣町へ通っている田舎道をまっすぐ行けばすむことだ。
ネロは泥まみれの服とくたびれた様相で相棒の男に抗議したが、運転を買って出た男はがみがみぼやく声を物ともせず、遠回りを選んだのだ。
他者がこぞって称賛するほど価値のあるものなら味わうのも一興だろう、と。もちろん言っていることは重々承知していたが、目の前の宝より、後方の休息の方が圧倒的に上回っていた。
道中、眉間の皴を深くし、だんまりを決め込んでいたが、今は素直に詫びる気持ちになっていた。
確かにそこにあるものは、およそ万人が息を呑む壮観さであった。それはこの青髪の男にとっても同じであった。
改めて、ネロは果てしない夜空の天蓋を見渡す。さきほどまでの不満はどこかへ落としてきてしまったかのように、ただ見渡す景色に圧倒された。称賛されるだけあった。
思わず閉じることを忘れた口をいそいそと閉じ、呆けた顔を引き締めると、先にそれを味わっていたブラッドリーの斜め後ろで足を止めた。
ちらりと視線を向けた先にある男の横顔は、薄っすら笑みが浮かび、満足そうにそこにある全てを眺めていた。
仕事の性質上、依頼であちらこちら旅をしながら大小様々な街に立ち寄るが、まだこの男の目を輝かせるものが存在することに驚いた。
そして同時に、この男の目に映り、輝かせているものを同じく自分の瞳が映していることに気づく。
喜びと同時に畏れ多い気持ちに襲われる。
この男と共にいなければ、まず出会うことのないこの一瞬を脳裏に焼き付けるように、もう一度情景へと相対した。
どちらも語ることなく、その場はほんのひととき静寂に満ちた。木々のざわめきと風の囁きだけが在った。
さきにその静謐さを崩したのはネロの斜め前に立つ男であった。
ブラッドリーが口の中で遊ばせていた重たい香りを宙へと離す。するとたちまち鼻腔に嗅ぎ慣れた煙香を感じ、ネロは相対していた広大さから意識を相棒へと向けた。
香りに誘発されたように口寂しさを覚え、ネロはくたびれたジャケットのポケットを漁り同じくくたびれたそれを見つけると口にくわえた。こちらへ振り返ったブラッドリーが慣れたようにライターを差し出し、ネロは軽く首を竦めつつもありがたくその火を戴いた。
すうと馴染みある安い紫煙が身体を駆け巡る。
「相変わらずしょぼいもん吸ってんな」
ブラッドリーは露骨に不味そうな顔をしながら、己の口元に携えていたそれをネロへと差し出した。対して差し出された男は同じように不味そうな表情を返し、断るように首を振った。
「あんたはよくこんな疲れた体でそんなキツいの吸えるな」
「この重てえ感じがガツンとくんだよ」
空いてる手でこめかみを指しながら、ネロへ差し出した手はそのまま元の在り処へと戻っていく。
咥えなおすとすぐに独特な風合いの煙を吐き出した。煙たいというよりは重たいが正しい。
確か北寄りの西の国の紙巻煙草だったとネロは記憶している。普通には出回っておらず、まとまった数を馴染みの男から融通してもらっているのを連れられたワインバーで見た。煙管のよく似合う男だったはずだ。
「それよりネロ、てめえはもうちょい体力つけろ。たかだか墓三つ掘ったくらいでへばってんじゃねえよ。仮にもこのカリスマハンターブラッドリー様の相棒だろ」
男はそう言って猫背気味のその背を数度叩く。ぐらりとよろけそうになるのをなんとか堪えながらネロは眉間に皺を寄せながら唸った。
「なに言ってんだか、だせえ…そもそもカリスマハンターは墓三つも掘んねえよ」
ネロは疲れを微塵も隠すことなく言い返す。
思い出すだけで、固まった地面の硬い土くれの感触をありありと両腕が思い出し、じんと痺れるような痛みをネロに伝えてくる。
この地に来たのは数日前だった。悪霊退治の依頼で二人はやってきたのだ。麓の町はこじんまりとしていて、件の悪霊の正体を突き止めること自体は容易かった。
悪霊の退治の仕方でもっともありふれた方法は、悪霊へと変わってしまった人間の骨を燃やして塵にすることだ。それ自体はそれほど難しくはない。そんなことはハンターになりたての新人でもわかっていることだ。
それは数多く経験を積んできた二人も同じで、正体がわかるや否や、その人間の眠る墓地へと向かったのだ。
「まさかあんなおんぼろ墓場だとはな」
「ああ。敬虔そうな人たちだったが、あの墓の荒れ具合は驚いた」
調べてわかったことに、その人間が眠っている墓地は村はずれにある放棄された手付かずの荒地にポツンとあった。
誰も訪れていないのか草は伸びきり、墓石は蔦で覆われて誰のものか確認するのはだいぶ困難な有様であった。聞くところによると、今は使われていない昔の共同墓地のようだった。
詳しい理由まではわからないが、今生きる村人たちと、この荒れた共同墓地に眠る人たちの間には何か諍いがあったということは、部外者のネロたちにも十分わかることだった。
「悪霊なんかになってでも、殺してえほど怨んでる奴らが村ん中にいたんだろうな。実際五人も死んじまったしな。まあ、墓三つで済んでよかったじゃねえか。ネロ、てめえのお手柄だぜ」
墓標すらまともにないそこから、目当ての遺骨を掘り出すのは相当な労力だ。
比較的新しい堀跡と、その人物が生前身につけていたらしいゴールドのネックレスをネロが見つけたことで、なんとか持ち主を見つけることができた。
それが掘り進めて三つ目の墓だったのだ。
「いやでも、そもそもこんな依頼自体、あんたがやるような仕事じゃないんだよ。こんな体力仕事、最近入ったあの騎士さんにでもまわせよ…」
ネロも、そしてその相棒も共にハンター歴は長い。知識も経験もある二人は本来は実践向きだった。
実際ネロは体力仕事よりも、目の前で化物と直接戦闘し、対峙する方が性に合っていた。アンデッドにルーガルー、シェイプシフターに吸血鬼。墓掘りよりこれらを退治する方がよっぽど得意だ。
「ああ、あいつか。悪くねえが、それこそてめえみたいな観察眼がまだ赤ん坊だからな…三つどころか全部掘り起こす羽目になりそうだ」
そう言って男はやれやれと手を振る。そんなことはもちろんあるはずはない。今回だってネロが気づかなくても、どうせこの男は少しすれば自分で気づくのだ。
褒められたようで、どこかおだてられている物言いに複雑な気持ちになったネロは、言い返す代わりにこの話題を打ち切った。
「てかこんなとこまで土付けて何言ってんだよ」
ネロは男の頬についた泥を手の甲で拭って見せる。胸の辺りの高さまで掘り返していたせいで、二人とも全身土埃で汚れていた。
手の甲の汚れを、ジャケットで拭きながらネロは続ける。
「それに何度も言ってるが、おれはハンターになったつもりはねえよ。料理人だって言ってんだろ」
もう何度も何度も繰り返した言葉だ。いつも成り行きでこの男の仕事を手伝ってしまっているが、疲れた顔のこのくすんだ髪の男は、本来はコンバットナイフではなく包丁を、ピストルではなくフライパンを握っているのだ。
「へえへえ。ったくほんとにてめえも頑固な奴だな」
この適当な返事もいつものやりとりだった。ブラッドリーもまた、慣れたようにこの会話を打ち切った。
「はあ…それより腹減ったな…。ビール飲みてえ」
ブラッドリーは味わいつくした吸殻を携帯灰皿にねじ込むと愛車のボンネットに腰かけた。
なんだかんだ言いながらも多少疲労の色を滲ませながらぶつぶつと好物を並べる。
ネロの耳に、相も変わらずフライドチキン等と口ずさんでいるのが聞こえ、街に戻ったら作ってやるかと頭の片隅に留めておく。もう数えきれないほど作ったそれは、匂いを思い出すだけでネロに胸焼けを与えるが、それでも好物だと面と向かって言われる喜びの方が大きかった。
そんなことを想いながら、同じくビールは飲みたいと思っていると、ふと脳内の別の片隅に追いやった記憶が掘り起こされる。
今回の依頼の調査で村人たちへ話を聞いた際に、ある住民からもらったものを。
ネロは助手席側へ周り、後ろのドアを開ける。調査記録や、年代物の新聞の束、旅生活での日用品に、退治用武器の数々。その隙間に見覚えのあるアルミ缶が二本。
「おいブラッド」
ほらよ、と常温のそれをボンネットの上で胡坐をかいた相棒の男へ放り投げる。男は放物線を描くアルミ缶に書かれた文字に一瞬で目を輝かせると、慣れた様子で受け取った。
「おいおいどうしたんだよこれ」
「依頼主のばあさんにもらったんだよ。あとこれ、塩漬けの干し肉」
ぎっしりと詰まったビニールの口を開けると、香ばしい肉の香りが袋から吹き出す。その匂いに唾液が滲み出る。
「へえ、いいつまみじゃねえか」
「なんでも、明日…もう今日か。なんかの記念日らしいぜ。何かの…半分?の日とか言ってたっけかな…。よくわかんねえけど、村の祭りだかなんかやるみたいでさ、お裾分けだってさ」
「半分?なんだそりゃ」
ネロはこの会話を思い出そうと片隅へ追いやった記憶を探ってみたが、詳しいことはすっかり抜け落ちていた。
「いやわからねえ。誰かと誰かの誕生日?だったか…。なんだろうな」
ネロは同じくボンネットに腰掛ける。
男はプルタブに指をかけた。ぷしゅとぬるい炭酸が外へ放たれる。
冷たいビールであればなおさらよかったが、腹を空かせた今の体にはこの缶ビールでさえ旨そうに見えた。
「まあ、何の日でもいいさ。今回も無事に終わったんだ。褒美を戴く理由には十分だろ」
そう言って男は笑った。朗らかな笑みだった。顔にも体にも、服のあちらこちらにもさきほどまでの仕事の名残を携えて、男は生々した様相だった。
遥か彼方、東の地平線が煌々と東雲色を濃くしていく。遮るものがない半径五メートルのこの世界は、目の前の男と、青髪の男、そしてこの気迫に満ちた朝焼けの神々しさだけだった。
(ああ、眩しい)
まもなく、朝が来る。人間たちの時間が始まる。そして暗闇に蠢く化物は眠りにつく。
ネロはため息にも似た吐息を一つ漏らすと目を細めた。
光量を絞ってもありありと脳裏に映し出される相棒の幻影に男は緩く頭を振った。
可視と不可視を曖昧に分ける仮想の境界線が、暗闇と明るみをぼんやりと分けるように、この男たちの居所を朝と夜へ認める。
大鷹が明暗混ざり合う朝空を旋回し、木々の合間で朝鳥が鳴き始める。
「そうだな」
強い光の隣には濃い影が出来るように、夜の次には朝が来るように、この男の隣は儚げで、寂しげで、苦しく、そしてどこか安堵する。
まるで実体のない幻のような夢の泡。
手元に視線を落とし、それからボンネットに胡坐をかく男を見やる。上手く男の真似は出来なかったが、同じように口角を上げた。
「んじゃ、この最高の景色に」
キラキラと彩り照り輝く視線の先。眩しくて泡沫で、刹那のひと時に。
乾杯。
どちらともなく二人はアルミ缶を合わせた。カツンとこぎみ良い音が鳴った。