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    diyume_harurun

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    diyume_harurun

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    『社会人かつ有名人として高校生に手を出したらやばい』という口実のもと単純にひよって回りくどいアプローチしかできない綾さんと、その裏で大和を助けるために頑張っている原作知識あり園妹のお話です。

    ※ゴーストライト時空。連載要素あり。
    ※夢主の容姿描写が多少あります。
    ※終始綾さん視点です。

    綾瀬川次郎はライバルの妹に恋をしている。「綾さんが、うちと結婚でもしたらええんやろか」
     ぽつり、と。眠たげな声音でそう呟いた少女は、次郎にとって片思いの相手であったから。だから、背後から彼女へ近づこうとしていた次郎は、思わず足を止めざるを得なかった。
    「お前ってたまーに脈絡ないこと言うよね」
     次郎はどうにか平静を装って、大きなソファに座る少女の顔を後ろから覗き込んむ。真上へと視線を向けて次郎と目を合わせた少女は、数度瞬きを繰り返した後、にこりと微笑んだ。
    「あら、いらっしゃい。綾さん」
     穏やかな笑顔からは、聞かれたくないことを聞かれた気まずさも、好意がバレた恥じらいも見受けられない。そんな少女──桜子の様子を見て、次郎は彼女も自分と同じ気持ちなのかもしれない、なんて期待がいかに虚しいものであるのかを感じていた。
    「お邪魔します……って、さっきも結構デカい声で挨拶したんだけど」
    「ちょっとうとうとしとったから。気づかんかったみたい」
     口元を手で隠しながら小さくあくびをする彼女は、いつも通り随分と眠たげである。この家の人間に限って夜更かししているとも思えないので、きっと体質的なものなのだろう、と次郎は考えている。
    「はい、これ手土産」
     結婚云々は後で問い詰めることにして、次郎はひとまず買ってきたばかりのお菓子を彼女へと差し出した。
    「いつも悪いなぁ。おおきに」
     申し訳なさそうに眉を寄せながらも紙袋を受け取った彼女は、その中身を覗いて目を輝かせた。
    「これ、先週発売した期間限定のやつやないですか! 今お茶淹れるんで、綾さんここで座って待っといて!」
     頬を淡く染めて満面の笑みを浮かべる彼女に、次郎の鼓動は大きく跳ねる。その顔が見たくて、次郎はいつも彼女が好きそうなお菓子を探してきていることを、彼女はきっと知らない。
     台所で母親と並んでお茶の準備をし始めた桜子を、次郎はソファに座って横目で追う。そんな次郎の視線に気づいているのかいないのか、鼻歌を歌いながら慣れた手つきでお茶を淹れる姿は、見ていて飽きない。 ぼんやりと彼女の姿を眺めていれば、彼女はお盆の上にティーセットを乗せてこちらへと戻ってくる。そんな当たり前と言えば当たり前のことが嬉しくてたまらないのだから、次郎はかなり彼女にやられていた。
    「今蒸らしとるから、もうちょっとだけ待ってな」
     言いながら、彼女は人一人分ほどの幅を空けて、次郎の隣に腰かける。大きなソファはそれでも十分すぎるほどの余裕があって、微妙な距離を詰める口実はどこにもない。そのことが、次郎は酷くもどかしかった。
    「で、なんで結婚? お前、俺のこと好きなの?」
     わざと少し詰め寄るように問いかけて、こぶし一つ分ほど距離を縮める。そんな次郎の思惑など一切知らずに、彼女は無表情にしか見えない顔で首を傾げた。
    「その話掘り下げるん? もちろん、綾さんのことは大好きですよ。そやから結婚したい、ってわけやあれへんけど」
    『大好き』というストレートな好意に一度舞い上がった次郎の心は、その直後の『結婚したいわけじゃない』という言葉で沈んでいく。素直に受け取るならば、要は『好きではあるが恋愛感情ではない』ということである。もちろん『恋愛的な好意はあるが、何かしらの事情で結婚したいわけではない』という可能性も残されてはいるが、その可能性を完全に潰してしまうことを恐れた次郎は、彼女が自分へ向ける感情について、これ以上深掘りする気になれなかった。
    「……じゃあ何? 結婚願望でもあんの?」
    「まあ、おかんとおとんのこと見とったら、いつかはいい人と一緒になりたいとは思うわなぁ」
     ふんわりとした要領を得ない返答は、彼女ののんびりした気質のせいで、真剣に答えた結果なのか誤魔化そうとしているものなのか、いまいち判別がつかない。
    「で? そのちょうどいい相手が俺ってわけ?」
    「ちょうどいい、で結婚できる人やないやろ、綾さんは」
    「じゃあ、なんで?」
     無表情と微笑みだけで次郎の問いを躱してきた桜子が、ようやくその表情を困惑のものへと変える。
    「……綾さん、なんで今日こない食い下がるん? あんなん半分寝言やん」
     拗ねたような口ぶりでそう言う桜子を見て、不快にさせてしまったかもしれない罪悪感と、めったに笑顔以外の表情を見せない彼女の調子を崩せた優越感が次郎の中で渦巻く。罪悪感と優越感の葛藤はギリギリ後者が勝って、次郎は彼女をからかう意図で口を開いた。
    「へー、お前って寝言で結婚とか言っちゃうんだー」
    「あ、お茶、そろそろ飲んでええと思います」
     意地の悪い次郎の言葉をあっさりと無視して、桜子はティーポットへと手を伸ばす。次郎は内心肩透かしを食らったような気分になったが、これ以上踏み込んで嫌われては元も子もないので、大人しく沈黙を選択した。
     手慣れた様子でカップに紅茶を注ぐ桜子の姿を追っていれば、素直に小腹が空いてくる。次郎は食欲に抗うことなく、まずは淹れたての紅茶を飲もうと、目の前に置かれたティーカップを傾けた。
    「綾さんは、うちと結婚したいんですか?」
     明らかに確信を持った声色で紡がれた問いに、次郎は口の中に含んだ紅茶を吹き出しかけた。周りにある明らかに高価な家具たちに染みを作るわけにはいかないので無理やり飲み込んだが、そのせいで気管に紅茶が入り込んで盛大にむせてしまう。
    「うちと結婚したら、お兄ちゃんと家族になれますもんね」
    「…………ハァ?」
     激しく咳き込む次郎の耳に届いた言葉は、完全に予想外のものだった。なんとか息を整えた次郎に発することができたのが、間の抜けた一音であったのも仕方のないことだろう。
    「? それに気づいたから、ちょっとありやなって思ってくれたんとちゃいますの?」
     首を傾げる桜子は一見すると無表情だが、よくよく見れば僅かに目を見開いていて、心から不思議に思っていることが伺える。大和と家族になれることが、次郎にとって喜ばしいことであると信じて疑っていない瞳である。
    「一応、聞くけど。それのどこが、俺にとってメリットなわけ?」
     苛立ちを滲ませながら次郎が問いかけても、桜子に焦る様子は見受けられない。それどころか、何を思ったのか微笑みを浮かべ、彼女は口を開いた。
    「やって綾さん、お兄ちゃんのこと大好きやん? 今日やって、秋大会すぐ負けてもうたお兄ちゃんを励ますために来てくれはったんやろ?」
    「はぁ⁉ んなわけないし! 俺は早々に負けたあいつを馬鹿にしに来てんの!」
     得意げな笑みの桜子が口にした言葉に、次郎は半ば反射的に否定の言葉を返した。確かに、次郎は今日大和に発破をかけるつもりでこの家に来た。しかし、それはあくまで目的の一部分にすぎない。目の前の彼女に、それ“だけ”が目的だと思われるのは、次郎にとって大変不本意だった。
    「なんにせよ、お兄ちゃんのために来たんやん」
    『全て分かっていますよ』と言わんばかりの顔で桜子は微笑む。それはまさに、次郎の気持ちが彼女に1ミリも伝わっていないことを示していた。
    「ッ、今のは言葉の綾!」
    「綾さんだけに、ってこと?」
    「話の腰を! 折るな!」
    「うんうん、ごめんなぁ。で、お兄ちゃんに会いに来る以外、なんの目的があるん?」
     次郎がどれだけ喚いても、桜子はのんびりとした自分のペースを崩さない。そんな様子を見ていると、次郎もだんだん必死になっているのが馬鹿らしくなってきた。
    「……お前、マジで心当たりないの? 大和に会いに来るだけならさぁ、こんな明るい時間から来ないじゃん。普通」
     半ばやけくそで、次郎にしてはかなり直球に『桜子に会いたくて来てるんだよ』と伝えるも、当の彼女は不思議そうに首を傾げた。
    「? おかんと話したいから、早めに来とるんやろ? 綾さん、おかんのことも大好きやもんなぁ」
    「……お前さぁ」
     なぜ。なぜ、そこまで思い至っているのに、自分に会いに来ているとは考えないのか。次郎がこの家を訪れる際、最も多く会話しているのは、間違いなく桜子で。桜子だって、その客観的事実は理解しているはずなのに。
    「桜子〜! ちょお手伝ってもろてええ?」
    「あ、はーい」
     次郎が言葉に迷っているうちに、彼女は母親に呼ばれて席を立つ。次郎はそこでようやく第三者の存在──それも思い人の母親──を思い出してばつが悪い気持ちになったが、気にしても無駄だと思い直す。ほぼ間違いなく、美里は次郎の気持ちに気づいてる。次郎を一人この家に留守番させることはあるくせに、桜子と二人きりにさせることは絶対にないのが良い証拠である。
    「ごめん、綾さん。ちょっと隣でインゲンのすじ取りさせてもらうな」
     しばらくしてボウル片手に戻ってきた桜子は、次郎の隣に──やはり人一人分の隙間を空けて──再び腰かける。
    「……俺もやる」
     家事をする彼女の隣でただお茶を飲んでいるだけの自分を想像したら、あまりに居心地が悪くて次郎はインゲンへと手を伸ばす。
    「えぇ? お客さんにそんなことさせられへんよ」
     桜子はインゲンの入ったボウルを自分の方へ引き寄せて、物理的に次郎が触れられないようにしてくる。
    「それを言うなら、お客さんの前で食べ物の下ごしらえ始めるのがそもそもおかしいだろ」
     確かに、桜子の言っていることは筋が通っていると言えよう。次郎はこの家において今間違いなく客だし、ついでに言うと今日本で知らぬ者はいないほどの超有名野球選手である。手伝いをさせるのに、次郎ほどふさわしくない人間もそういない。それでも、次郎は自分が客として扱われることが、お前は他人だと線を引かれているようで嫌だった。
    「じゃあ、うち台所行きますから。テレビとか好きに見とってください」
     しかしながら、次郎の思いはどうしようもなく桜子には伝わらない。怒るでもなく呆れるでもなく淡々とした調子の桜子に、いい加減分かっていてわざとやっているのではないか、なんて次郎は思い始めていた。
    「なんっでそう……! 今更、俺を客として扱う必要ないだろって言ってんの!」
     立ち上がった桜子の手首を、次郎は反射的に掴んでいた。突然の接触に、桜子は一度驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの無表情へと戻る。
    「そうは言うても、綾さんの手をこんなどうでもええことに使たらあかんやろ」
     諭すような調子でそう言われ、次郎は思わず彼女の手首を握る力を強める。桜子の、こういう、次郎の体をやたらと丁重に扱いたがるところだけは、どうしても好ましく思えなかった。
    「あの、綾さん?」
     何と返すべきか分からずうつむいた次郎の顔を、桜子がかがんで覗き込む。眉を寄せた彼女のその表情が、こちらを恐れているもののように見えて、次郎は彼女の手首から手を離した。
    「あーはいはい出た出た。お前の良くないとこ出ましたー」
     わざと軽薄な言葉を選んで、妙に張り詰めてしまった空気を混ぜっ返す。そんな次郎の様子を見て安心したのか、桜子は小さく息を吐いて微笑んだ。
    「自分の手の価値分かってへん綾さんの方が、絶対良うない思います」
     穏やかに笑う桜子の左手首が少し赤くなっていることに気づいて、次郎は罪悪感に苛まれる。それでも、だからこそ、次郎は自分の主張を曲げる気はなかった。
    「刃物使うわけでもないし、別にいいだろ。同じとこ座っててさ、お前だけ家事してて俺はお茶飲んでんの、感じ悪いじゃん」
    「やから、うちは台所行く言うてるやないですか」
    「だから……! じゃあそもそも! なんで一回ここでやろうとしたんだよ!」
     次郎の問いかけに、桜子は決まりが悪そうな顔をして視線を逸らした。彼女にしては珍しいためらいは一瞬で、すぐに再び次郎と目を合わせると、その淡い色の唇を開く。
    「そら、綾さんとまだお話したいから、ですけど」
     いつもより少しだけ小さな声で紡がれたその言葉が、次郎の胸を多幸感で満たしていく。次郎のことをどう思っているかはさておき、桜子は次郎と話をしたいと思っている。それは間違いなく、次郎と桜子の心が通じている点だった。
    「じゃあ、ここで俺の話し相手しろよ。俺も……テレビ見るより、お前と話す方が好きだし」
     純粋な幸福感に促され、次郎はいつもより幾分か素直に自分の気持ちを言葉にした。すると、桜子の頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
    「は……? 今ので照れんの?」
     結婚だなんだと問い詰めた時はけろりとしていたくせに、何気ない会話で真っ赤になって視線をさまよわせる桜子の姿を見て、次郎は心底困惑した。アプローチが成功していると喜ぶべきかもしれんが、いかんせん何が彼女に響いたのか分からない。
    「やって、嬉しい、から」
     いつもより上ずって聞こえる声で、桜子がたどたどしく言葉を紡いでいく。
    「綾さんが、うちと話すの、少しでも楽しいと思てくれてんなら、嬉しい」
     柔らかい笑顔が、“花咲くような”と表現したくなるほど愛らしく見えて、次郎は思わず息を飲んだ。
    「そういうことなら、手伝ってもろてええですか?」
     すっかりいつも通りの笑顔を取り戻した桜子と、いまだ落ち着きそうにない自らの鼓動を思って、きっと自分は一生この少女に敵わないのだろう、と次郎は悟る。
    「……だから、さっきからそう言ってるだろ」
    「ほな、まずは手洗ってきてください」
     再びソファに腰かけた桜子と反対に、今度は次郎が立ち上がって洗面所へ手を洗いに向かう。勝手知ったる家の中を通って次郎がリビングへ戻った時、先程まで空だったボウルの中では、すでにすじ取り済みのインゲンが小さな山を作っていた。
    「なんで先やってんの?」
    「綾さん。おかえりなさい」
    「……ただいま」
     いつだって彼女との挨拶は『いらっしゃい』と『お邪魔します』だけだったから、『おかえり』と言われるのも『ただいま』と口にするのも、少しばかり気恥ずかしい。そんな次郎の気持ちも知らずに、桜子はその視線を手元のインゲンから離すと、穏やかな笑みを形作る。
    「綾さん待っとる間暇やったから、先にちょっと進めさせてもらいました」
    「……まあ、いいけどさ」
     どこか誇らしげな彼女に水を差すのも違う気がして、次郎は喉元まで出かかっていた文句を飲み込んだ。
    「綾さんそんなインゲンのすじ取りしたかったん? 大丈夫やで、まだたくさんあるから。やり方分かる?」
    「お前の見てたら分かる」
     見よう見まねでインゲンのヘタを折り、下へと引いていく。反対側からも同じようにやれば、すじと思しき部分はおおむね取れたように思えた。
    「さすが綾さん。上手やなぁ」
     次郎の分かっていない何かがあるかもしれない、というわずかな不安は、隣でじっと次郎の作業を見守っていた桜子の言葉によって払拭された。
    「こんなん誰でも一緒だろ」
     実際、こんなものは上手いも下手もないと思う。スピードの面で多少は優劣をつけられるかもしれないが、基本的には小学生にだってできるちょっとした手伝いの類だろう。
    「お兄ちゃんは昔たくさん失敗しとった」
     彼女は笑いながら、その顔に呆れでも嘲りでもなく、ただただ愛おしさだけを浮かべて、自らの兄へと話題を移す。その言葉で、次郎はインゲンの筋を途中で切ってしまう大和を想像し、その鮮明さに思わず噴き出した。
    「ははっ、うわ、めっちゃイメージできるんだけど。やば」
    「お兄ちゃん、こういう手先使う作業苦手やからなぁ」
     今まさに手際よくインゲンの筋を取っている桜子の容姿は大和とそれなりに似ているのに、大和が同じことをしているところを想像するとあまりに似合わなくて笑えてくるのだから不思議だった。次郎は脳内で大和にさせる作業を色々と入れ替えてみるが、どれも窮屈そうで似合わないので面白い。
    「餃子包むのとかも下手そうだよな」
    「それがな、お兄ちゃん餃子はちゃんとできんねんで。昔猛特訓してん」
    「へぇ、意外」
     少なくとも、次郎の想像上の大和は、あんが多すぎたりひだがうまく作れなかったりで、まったくうまくいっていないのだが。とはいえ、確かに餃子を包む作業と言えば子どもにさせる手伝いとして定番だし、比較的子どもが手伝いたがる作業でもあるだろう。実際、次郎も幼少期には姉とともに喜んで手伝っていた記憶がある。
    「お兄ちゃんが毎日餃子作りたがるせいで、二日にいっぺんは餃子だった時期もあったなぁ」
    「お前、それ怒っていいんじゃない?」
     もしも次郎が幼い頃、姉の要望で二日に一度同じメニューが出る、なんてことがあったら、間違いなく不満に思っただろう。というか、たぶん母が嫌がる。だけど、餃子が上手く包めるようになるまで餃子をリクエストする大和も、なんだかんだとそれを受け入れるその家族達も、正直想像にかたくない。園家で一番甘やかされているのは、間違いなく大和である。
    「別に、うちは餃子嫌いやないんで。お兄ちゃんは二週間目くらいからちょっと食べんの嫌そうやったけど」
    「大和が作りたがったくせに?」
    「お兄ちゃんが作りたがったくせに」
     雑談をしながら作業を進めていけば、二人とも手際がいいので、あっという間にインゲンの山は少なくなっていく。
     次郎が次のインゲンを手に取ろうとボウルの方へ視線を向けた時、ちょうど最後の一本を桜子の白い手が攫っていった。手持ち無沙汰になった次郎は、そのままインゲンのすじ取りをする桜子の手を見つめる。小さい手の先には、短く整えられた爪が乗っかっていた。
    「……お前、爪綺麗だよな」
     口に出すつもりはなかったのに、気づいた時にはその言葉は音になっていて、目の前の少女にまで届いていた。
    「え? ありがとう……? 突然どないしたん?」
     すじ取りを終えたインゲンをボウルへと入れながら感謝の言葉を口にする彼女の様子は、喜びや恥じらいよりも明らかに戸惑いが勝っている。自分の思いが伝わっていないことに、次郎は安堵と落胆を同時に抱いた。
    「いや……大和の爪もお前が手入れしてるんだっけ、って思って」
     彼女は兄の話になるといつも以上に饒舌だから、そちらへ意識を逸らせば、自分の唐突な発言の不自然さを誤魔化せるはずだと次郎は考えた。その想定通り、大和の名前を出した途端、彼女は拗ねたように眉を寄せて口を開く。
    「うん、一回割れてもうた時からずっとな。そん時、ほんま見とるだけでも痛うて痛うて……ほやのに、それからもお兄ちゃん全ッ然自分で手入れせぇへんのやもん。見てられへんやろ?」
    「あいつ、自分の怪我に無頓着だもんな」
    「そうなんよ! いや、分かっとるんよ? うちがこうやって世話焼くから、お兄ちゃんは余計に自分に無頓着なままなんやって。でも、放っておくと平気で三週間とか放置しよるんです。そんなん、うちが毎週チェックしたるしかないやないですか」
    「しかないことはないだろ」
     次郎は表面上呆れたふうを装いながらも、心の中は穏やかだった。素振りしようとする大和が、彼女に引っ張られて爪の手入れをされている光景を想像すると、わずかに浮かんだ嫉妬より、微笑ましさの方が圧倒的に勝った。
    「あの、あんま見んでもろてええですか?」
     指摘されて初めて、次郎は自分が無意識のうちに彼女の手を見つめ続けていたことに気づいた。彼女は次郎の視線を避けるように、膝の上で揃えていた両手を胸元で握り直す。その表情が本当に不快そうなものに見えて、次郎は慌てて視線を逸らした。
    「……そんな、嫌そうにすることないじゃん。減るわけでもないし」
     不快にさせてしまった申し訳なさはあったけれど、そこまで悪いことをしたとも思えなくて、次郎は思わずそんな憎まれ口を叩いていた。高校時代、次郎が爪やら髪やらを褒めたら、クラスメイトの女子は大抵喜んだのに。喜ばれすぎて色々トラブルになってからは、意識的に控えていたけれど。
    「減るわけやないですけど……うち、自分の手好きやないんです。やから、あんま見んでください」
     桜子が、小さな手を胸元で握りしめる。確かに、小ささに伴ってあまり細くも長くもない指と爪は、典型的な綺麗な手の形とは異なっているかもしれない。けれど、ささくれ一つない指先や艶のある爪は、どちらかと言えば好感を抱かれるものだろう。少なくとも、コンプレックスになり得るものとは思えなかった。
    「は? なんで?」
     純粋に疑問に思って問いかけると、桜子は不機嫌そうにそっぽを向いた。
    「なんでもです」
    「いや、なんでって聞いてんだけど」
     彼女はいかにも強情そうな表情をしていたが、次郎は追及の手を緩めない。大和の場合、一度言わないと決めたことは意地でも口を割らないが、桜子の場合は次郎が詰め寄ればしぶしぶ口を開くことが多かった。次郎の予想通り、しばらく嫌そうな顔を崩さなかった桜子は、次郎に引く気がないと悟ると諦めたようにため息をついた。
    「……やって、なんもない手やないですか」
     彼女の言葉がうまく理解できなくて、次郎は顔をしかめる。それにひるんだのか、彼女は気まずげな表情でうつむいた。
    「うち、小さい頃からわりとなんでも出来たんです。でも、どれも本気でやりたいとは思えんかった。手にまめできるくらい練習したり……そういうとこまで、出来んかったんよ。この手はそういう、なんも頑張ってへん人の手です」
     彼女の自嘲的な笑みに次郎の胸は痛み──それ以上の、腹立たしさが湧き上がった。
    「別にそんなん、後ろめたく思う必要ないだろ」
    「……綾さんは、優しいですね」
     桜子が力なく微笑む。温度の感じない声音は、次郎の言葉が彼女に少しも響いていないことを示していた。
    「大和の手見てるお前なら分かると思うけど。野球選手の中だと、俺の手も結構綺麗な方なんだよ」
     自らの言葉を証明するように、次郎は手のひらを上に向けて彼女へと見せる。
    「野球やってて一番まめできる練習っていったら素振りだけど。俺、昔からバッティングあんま良くなくてさ。そのわりにピッチングはよかったから、打つ方は頑張んなくていい、ってよく言われてた。デッドボールやばそうだからバッターボックスの端っこ立ってろ、とかも言われたっけ」
     桜子は、何も言わない。せっかく見せてやった手のひらではなく、次郎の瞳だけを不安そうな顔で見つめている。
    「別に俺だって、素振りとか、全然してなかったわけじゃないんだけど。みんな、どうせプロになったらバッティングなんて必要ないんだから、って言うし。俺も、バッティングそんな好きでもなかったし? まあ、それに……俺が抑えて俺が打って、で勝ったらさすがに、他のやつの立場がないかな~とか、思ったり?」
     これ以上真面目に話したら、自らの弱いところまで彼女に晒すことになってしまいそうで、次郎はわざと軽薄に笑った。
    「で? お前は俺が頑張ってない人に見えんの?」
    「……その聞き方はずるいわ」
     彼女は不機嫌面だったが、先ほどまでの悲痛さはなくなっていて、次郎は心の中で安堵の息を吐く。
    「別に、目に見える努力がすべてじゃないだろってこと。お前は大和を基準にしすぎ」
     野球に打ち込む兄と、それを献身的に支える妹。彼女と大和の兄妹愛は絵に描いたように美しいし、次郎も彼らの間にある空気を温かく感じ、惹かれている。けれど、時折思うのだ。桜子から大和への愛は、出所の分からないそれとしてはあまりに強く、どこか危ういと。
    「それは……うん。そうかもしれへんな」
     厄介なのは、彼女はきっと自らの危うさを自覚しているくせに、それを直す気がさらさらないことだ。恐ろしいことに、それに気づけた次郎もまた、彼女の危うさを失わせようとは思えなかった。そこを含めて、園桜子という人間に惹かれてしまったから。
    「ていうか、俺はそもそも、お前の爪を褒めてるわけ。それ、ちゃんと手入れしてなきゃそんな綺麗になんないだろ。どこが何もない手なんだよ」
    「……ありがとう、綾さん。慰めて……褒めて、くれて」
     桜子は小さく笑って、ようやく次郎の褒め言葉を受け取る。その笑みがとても愛らしく見えて、次郎は彼女の頬へ手を伸ばしそうになった。
    「……ねぇ、俺の爪もやってよ」
     彼女に触れたいという欲は、かろうじて直接的な行動にはならなかった。その代わり、ある種正攻法で素直な”お願い”が空気を震わせる。
    「………………はい?」
     次郎の言葉に、桜子が大きく目を見開く。今日彼女が見せた驚愕の表情は、これまでは無表情の範囲に収まるものであり、それなりに親しい次郎だからこそかろうじて気づけたものにすぎなかった。しかし、今の表情は誰がどう見ても、心底驚いたことが分かる表情だ。
    「だから、大和にやってるみたいに、俺の爪の手入れもやってくんない? ちょうどちょっと伸びてきてるし」
    「えぇ? 今そういう会話の流れやった……? 無茶言わんといてください。自分の指一本にどんだけの価値があるんか、綾さんちゃんと分かってはります?」
     桜子が心配しているのはきっと、“野球選手の綾瀬川次郎”であり“園大和のライバルの綾瀬川次郎”だ。だから、彼女に体のことを気遣われる度に、次郎は虚しい気持ちになる。彼女に恋をした、ただの人間の綾瀬川次郎がないがしろにされたような気がしてしまうから。
    「俺の指の価値は、多少爪の長さが変わったくらいで変わんねぇよ」
    「いやそれは……まあ、そうかもしれへんですけど」
     桜子が何を考えているのか、次郎は手に取るように分かった。おそらく『爪の長さが変わったらピッチングの調子も変わるのでは』といった類のことを言いかけて、次郎の言葉がそれを否定するものだと察したために黙るしかなかったのだろう。なぜここまで分かるのかというと、野球選手としての次郎の体をやたらと大切にしたがる桜子との押し問答は、何度も繰り返されているものだからだ。
     そして経験上、なんだかんだ先に折れるのは──
    「自分でやると右手が整えづらいんだよな。高校の時は友達にやってもらったりしてたけどさ。プロの先輩にやってもらうわけにもいかないし、同期とはまだあんま交流ないし」
    「……同期の方とは、仲良くした方がええんとちゃいます?」
     桜子は純粋に一番気になったことを口にしただけなのだろうが、話題を逸らされるわけにいかなかった次郎は、拳二個分ほど彼女への距離を縮めて詰め寄った。
    「あいつらが一軍上がってきたらね。で? やってくれんの? くんないの?」
     どちらかといえば厄介事の方を引き寄せがちな、圧のある自らの顔を少しだけ桜子へと近づける。そうすれば、彼女は緊張したように表情をこわばらせて。それでも、次郎から目を逸さなかった。
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    ※ゴーストライト時空。連載要素あり。
    ※夢主の容姿描写が多少あります。
    ※終始綾さん視点です。
    綾瀬川次郎はライバルの妹に恋をしている。「綾さんが、うちと結婚でもしたらええんやろか」
     ぽつり、と。眠たげな声音でそう呟いた少女は、次郎にとって片思いの相手であったから。だから、背後から彼女へ近づこうとしていた次郎は、思わず足を止めざるを得なかった。
    「お前ってたまーに脈絡ないこと言うよね」
     次郎はどうにか平静を装って、大きなソファに座る少女の顔を後ろから覗き込んむ。真上へと視線を向けて次郎と目を合わせた少女は、数度瞬きを繰り返した後、にこりと微笑んだ。
    「あら、いらっしゃい。綾さん」
     穏やかな笑顔からは、聞かれたくないことを聞かれた気まずさも、好意がバレた恥じらいも見受けられない。そんな少女──桜子の様子を見て、次郎は彼女も自分と同じ気持ちなのかもしれない、なんて期待がいかに虚しいものであるのかを感じていた。
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