幼少期、家族でキャンプに行った時、1人で遊んでたら知らない藪の中の方まで来てしまったことがある。幼すぎて当時は迷子になったのだと認識していなかったが、何十分かそこにいると、親が息を切らして顔に流れるほどの汗を流しながら薮の先から顔を出してきたことは確かに覚えている。
俺のいる本丸の後ろに構えている山の藪の辺りをふらっと散歩したりするとその出来事をまた鮮明に思い出したりする。見つけてもらえなかったら俺はどうなっていたんだろう。決して良いとは言えない妄想を膨らませたりしてしまう。だがそういうことを考える度に今自分に従えてくれている彼らのことを考える自分がまた面白いな、と思った。
何か起こされる感覚を感じ、目がぱちりと開き、寝台の横にある時計を見るとまだ夜明け前だった。こんな時間に起きるのは自分らしくなく、昨晩のことを思い出そうとしてみるも、寝起きであってかどうにも思い出せそうにない。
薄い掛け布を剥がし、全てが寝ている時刻に布の擦れる音だけが立つ。
ふすまを静かに開けると、外は小雨が降っていた。肌が外気の冷たさを感じる。
本丸の全体で見ると、厠は自室から近くにあるが、それでも少しは歩く必要があった。
歩くことで脳が冴えていき、今日の仕事の内容を思い出せるくらいにはなっていた。内番当番は粟田口の日、調理番は古備前がやりたいと昨晩の飯時に手を挙げていた。遠征は──────
「お、主くんじゃん、おはよ」
廊下を曲がり縁側に出ると、こちらを見ながら腰掛ける影が見えた。声の主である彼こそ今日の遠征隊長、笹貫だ。
「おはよう、笹貫。早いな。寝れなかったか?」
「いや、そんなことないさ。長く眠れないタチでさ」
正直なところ、俺はまだ彼のことを良く理解できていない。今年の夏、つい先月やってきたばかりで、俺も気にかけてやれるほど暇な時期ではなかった。だが見ていると本丸に馴染めている様で、さほど気にすることでもないと思っていた。
「今日は昼から遠征だから寝ておいたほうがいいぞ?」
「もうぱっちり覚めちゃったからなー、キミのうかつな姿見れちゃったしね」
そう言うと笹貫は俺の耳の上辺りの髪を撫でる。
どうやら寝癖がついていたみたいで、頭を隠しそうになってしまう。恐らく顔が赤くなっているだろうなと感じる。
1人で悶々としていると、彼はなんともなかったかのように続けて言った。
「そんなことよりさ、
今から海連れてってよ」
「えっ」
風は心地いい程の向かい風が吹き、雲は薄くかかり日差しは柔らかい。
笹貫に慈悲を求めるような目で見つめられて、仕方なく早朝から空間移動装置を使わざるを得なくなった。
残暑の早朝の海はなんとなく優しい表情をしていて、蒼々としていた。白い波はひとつひとつが感情を持っているかのように力を持って音を立てる。
「入ろっか」
彼はそう言うとさっさと服を脱ぎ始めた。彼が波に乗ることが好きだとは知っていたが、こう唐突にさも当然だと言うような感じで脱いでいると、困惑してしまう。だが、俺も入って見たい気持ちは全くない訳では無かった。
なんとなくで寝間着から着替えてきた、ジャージの袖と裾をまくる。
準備してきたであろう笹貫は海パン1枚になって浜辺へと向かう。体格もよく綺麗な顔立ちをしているため、自然と画になるなあなんて思う。
海に来たのなんていつぶりだろうかと思い出すと、長い年月行っていなかったことに今更気づいた。海という景色は見ていたものの政府からの連隊戦業務として画面越しに見ていただけで、実際に浜に足をつけて歩いたことは小さい頃以来かもしれないと思う。
俺も追うように浜辺に着くと、波に脚を近づけていく。冷たい感触がつま先から伝わり、少し身震いする。彼の方を見ると慣れたように膝上まで浸かっている。
「主くん、海は怖い?」
「え?いや、むしろ好きだが」
「ならよかった、もっと深く来てみなよ」
彼に言われたようにさらに足を進めていく。
足にあたる波の力が強くなっていき、不安定になりながらも彼の方へ行く。近づくとさらに彼の体つきに目を引かれてしまう。
「笹貫の体はたくましいなあ」
「そうかなぁ、でもさ、やっぱりキミを守る義務がオレにはあるからさ」
笹貫はまたすかしたように言葉を返す。彼の本性の知れなさが、俺の彼への好奇心を加速させているのかもしれない。
「本丸には馴染めてきたか?」
「まあね、みんな隙があればキミの話ばかりしているけれど」
「それは参ったな…」
「そのおかげで、オレもキミに興味が出てきたさ」
そう言うと彼は俺の方へさらに近づき、目を合わせる。
「キミはオレがキミの元へ帰ろうとせずも平気そうだしね」
「? ああ」
彼の言った真意を汲み取れず、適当に相槌を打つ。
互いに向き合い、静寂の時間が響き、風と波の音だけがする。
「そろそろ帰ろうか」
「そうだな」
そう言って海から上がろうとしたその時、
足を滑らせて体勢を崩してしまった。
視界がゆっくりになる。主であるはずなのに、尊敬されること一つもできていないなあ。彼の希望を叶えてあげたはいいが、結局彼の心の奥まで知ることは出来なかった。
ざぶん、と腰から飛沫を上げて転んだ。
「大丈夫かい?」
上を見上げると、笹貫がこちらに手を出して心配した様子で見ていた。その彼の姿に、どこか見覚えがあった。それは、俺を見つけてくれたあの時と同じだと気づいた。
「だ、大丈夫だ。ありがとう…」
珍しく彼が動揺していると気づいて、少しどきりとしてしまった。
「まったく、キミはドジっ子さんだなあ。
ほら、行くよ」
「ああ、行こうか」
もう転びはしないと誓いを立てて気をつけながら歩く。
「キミはさ」
「え?」
「キミは、彼らを歴史の中から見つけてあげて、愛せるひとだから、オレも、俺らも、キミみたいな人に憧れるのかもね」
「…そうか」
そうか。あの時から、俺は無意識で他の人にも同じことをしようとしていたのかもしれない。それを、俺の刀たちは返そうとしていたんだ。
気づける範囲にいたものに、今更ながら気づいた。
「まあ、そういうの抜きでオレはキミのことが好きだけどね」
「……お前、それは冗談として受け取っていいのか?」
「はは、好きにしてもらって構わないよ」
日差しが増した浜辺に、2つの影がぼんやり強く差していた。